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八十歳を過ぎた老人が、総理大臣に向かって一歩も引かずに言い返しています。相手は「ワンマン」と恐れられた吉田茂。老人の名は松永安左エ門。戦後の電力再編成をめぐって首相から「公益委員会でなく私益委員会だ」と非難を浴びせられ、この一件から「電力の鬼」という異名がついたと、本人が振り返っています。
このとき松永安左エ門は、すでに一度すべての公職を捨てて田舎に引っ込んだ身でした。六十四歳で電力界から去り、茶ばかり点てて暮らしていた男が、七十歳を超えてから舞い戻り、日本中の電力会社を解体して組み替えたのです。
自伝『電力の鬼—松永安左エ門自伝』は、その九十五年を本人の言葉でたどった一冊です。壱岐の島の商家に生まれた少年が、破産して裸になり、それでもなお立ち上がって国と渡り合うまでの軌跡が、驚くほど率直に語られています。
松永安左エ門の経営思想を一言で表すなら、「電気は国のものではなく、民間が競って安く届けるもの」という信念です。 その一点を、生涯かけて曲げませんでした。
目次 表示
- 松永安左エ門はどのような人物か(基本プロフィール)
- なぜ壱岐の少年は「一生働き通す」と決めたのか
- 父の死、そして破産——裸になった男は何を掴んだのか
- わずか五カ月で完成した路面電車——博多で何が起きたのか
- 四十三歳の代議士は、何に本気で怒っていたのか
- 「時代より一歩早すぎた」構想——東京進出で何が起きたか
- 配電室にベッドを持ち込んだ社長は、名古屋で何を見たのか
- 「国営化は親の仇なり」——なぜ国と戦い続けたのか
- 七十歳を超えてからの大暴れ——電力九社体制はどう生まれたか
- 「牛乳論」はなぜ荒れた国会を鎮めたのか
- 松永安左エ門のこだわりとは?
- 松永安左エ門ゆかりの地とは?
- 松永安左エ門から学ぶ3つの教訓とは?
- この記事で語りきれなかった『電力の鬼—松永安左エ門自伝』の魅力
- まとめ
- よくある質問(FAQ)
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松永安左エ門はどのような人物か(基本プロフィール)
| 氏名 | 松永安左エ門(まつなが やすざえもん) |
| 生年月日 | 明治8年(1875年)12月1日 |
| 没年月日 | 昭和46年(1971年)6月16日(満95歳) |
| 出身地 | 長崎県壱岐郡石田村印通寺 |
| 学歴 | 慶應義塾(明治22年入学) |
| 主な会社 | 福松商会、福博電気軌道、東邦電力 |
| 創業・設立 | 福博電気軌道株式会社(明治42年8月)専務取締役 |
| 主な実績 | 戦後の電力再編成を主導し、電力九社体制を実現 |
| 号 | 耳庵(じあん) |
| 著書 | 『電力の鬼—松永安左エ門自伝』(毎日ワンズ) |
なぜ壱岐の少年は「一生働き通す」と決めたのか
本書『電力の鬼』の原点は、祖父から受け継いだ「働き通す」という一点にあります。
松永安左エ門の原点は、家ではなく祖父その人にありました。
生まれた長崎県壱岐郡石田村印通寺は、古くから大陸との交通の要衝だった土地です。玄界の荒海に面したこの浜で、祖父は捕鯨の陣頭指揮を執っていました。曲彔(きょくろく)に腰を掛けた祖父の合図で、大きな鯨が轆轤(ろくろ)に引かれて波打ち際に寄せられてくる——その光景を、松永安左エ門は生涯記憶していました。
祖父はほとんど徒手空拳から「松永新店」を開き、京阪神との交易、酒造業、呉服・雑貨・穀物の取り扱い、水産業と、次々に事業を興した人でした。それでいて朝は早く、家人や雇い人の手を借りず、自分でお釜の下を焚いていたといいます。
「人間は一生働き通すべきもの」という私の考えは、祖父の生活態度から教えられている——本人はそう書き残しました。青年期以降に次々と事業へ手を出したのも祖父の流儀を見習ったからだと、はっきり述べています。
祖父の命日の頃には画像を飾って壮年期の祖父に対面し、そのたびに反省させられるものがあるとも記しています。原点に立ち返る習慣を、九十歳を過ぎても手放しませんでした。
明治22年、憲法発布の年の秋、少年は東京へ向かいました。当時は山陽線がまだ開通しておらず、神戸までは店の持ち船、そこから汽車で約一週間かかっての上京でした。そして無事、福沢諭吉の門である慶應義塾に入ります。
東京では最初、霊岸島の山内善三郎家に寄寓しました。海軍に納入する機械油の精製・販売を業とする、父の従兄弟にあたる家です。夫人のお直は「一種の女傑」で、田舎出の彼をひどくかわいがってくれたため、少しも淋しくなかったといいます。
学校では、演説もやれば弥次大将でもあり、「おもしろくてたまらぬ生活が続いた」と振り返っています。当時の慶應の学生はたいてい木綿の着物に小倉の袴でしたが、松永安左エ門は着物は絹物、袴は仙台平。国元から金を取り寄せて株式募集に応募してプレミアムを稼いだり、投機で小遣いをつくったりしていたため、一部の先生からは厄介視されていたようです。
やがて学校生活そのものが、だんだんつまらないものになってきました。法科をあと一年で終えるという頃、率直にその心境を打ち明けると、福沢諭吉はこう答えます。
「学校の卒業などということはたいして意義はない。それにキミは予科は卒業しているんだし、そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう」
そのうえで、生涯を決める助言が続きました。
「役人、銀行員、会社員にはなるな。月給取りはつまらぬから、うどん屋でも、風呂屋の三助でもよいから、独立した実業人になれ」
紹介されたのは三井呉服店(現・三越)でした。呉服物を測らせる入社試験があり、家業の一つですから実は相当できたのですが、わざとじっくり見せたりしていたら見事に落第しています。組織に入る道を、自ら閉じたようにも読めます。
ところが、この楽しい日々のあとに待っていたのは、選択の自由ではありませんでした。
父の死、そして破産——裸になった男は何を掴んだのか
本書『電力の鬼』が描く最初の谷が、この破産の時期です。
二十歳のとき、父が死にました。
松永安左エ門は慶應義塾をいったん辞め、十五歳まで育った壱岐の家に戻って実家の商売を担うことになります。ここから、彼の人生は激しく揺れはじめました。
やがて大阪に出た彼は、福沢諭吉の娘婿・福沢桃介と組んで動きます。丸三商会では、明治32年、二十五歳で神戸支店長に就きました。しかし桃介が辞めると自分も殉じて退き、その後「ゼネラルブローカー福松商会」を構えます。
最初の儲けは、実にささやかなものでした。亜麻仁油のブローカーをやったのに仲介料は一文も貰えず、代わりに受け取ったカラの甕を売った代金だけ。それでも「オレの初仕事だ」と思うと嬉しかったと書いています。
やがて石炭を扱うようになりました。当時の商社にとって石炭は花形商品で、三井物産も安川・松本商会も、まず石炭から大きくなっています。鐘紡に学友の伝手を頼って金谷炭を納入したのが端緒でした。最初は手数料稼ぎにすぎず、まとめるだけで数カ月かかりましたが、そこから販路が広がっていきます。
自分でヤマを持てばさらに儲かると考え、筑紫炭鉱を、続いて天草の無煙炭の炭鉱を手に入れました。ところがこれらはまったくの見込み違いで大損となります。上海に出した福松商会の支店も大損を出し、石炭の利益は消し飛びました。
落ち目になると、悪いことは続きます。明治40年頃、桃介と株式投機に手を出し一時は六十万円ほど儲けたものの、六百万円という目標を立てて強気を貫いた結果、逆に破産しました。学友の田中徳次郎から「いいかげんに手じまいしろ」と忠告されていながら、聞かなかったのです。おまけに大阪角田町の自宅が全焼し、まったくの裸になりました。この火事で、福沢諭吉の記念の書までも焼いています。
裏長屋に住む彼を、のちに阪急電鉄社長となる小林一三が絵などを持って訪ねてくれました。それを「大きな慰めであった」と記しています。
そして、逆境に落ちてみて、かねて潜んでいた一つの人生観が頭をもたげてきたと続けます。五、六百万円掴もうとしたのは、それだけあれば独力でかなりの生産事業がやれると思ったからだ、と。
金そのものが欲しかったのではなく、事業をやるための金でした。裸になって、はじめてそれがはっきりしたのです。失敗から己の動機を掘り当てる姿は、町工場の窮地から再起した能作克治さんの歩みとも重なります。
破産の直前、彼は明治29年に政府が計画した八幡製鉄が明治34年から製品を出しはじめたことに触れています。当初の予算は四百九万円。この程度あれば当時としては一線級の仕事ができたと書いており、六百万円という目標額はそこから逆算されたものでした。目標額の大きさは、欲の深さではなく、志の大きさの裏返しだったのです。
裸になったこと自体は、根が横着なのか、たいして苦にならなかったといいます。それよりこたえたのは別のことでした。忙しさに負け、意志薄弱から読書も怠りがちで、学校を出て以来、自分の知識や学問が一向に進んでいない——そのことのほうが悲しかった、と。
そして、こう書き残しています。人間は商売をするために生まれたものではない。金を貯めるために生まれたものでもない。政治をするためでもない。社会に出た人間としてまず自分の生活を立てることは大切だが、金儲けのために早まわりしてしまったようだ、と。
さらに、己の智恵と才覚でやったようでも、多かれ少なかれ人と社会の世話になっている——そう考えると、今後の自分の行動は国家社会にできるだけ奉仕することが必要だと思うようになりました。三十歳を越えた年齢のせいもあっただろう、と本人は付け加えています。
火事のあと身を寄せた曽根崎の裏長屋は二カ月ほどで去り、今橋を経て、明治40年、三十二歳で灘の呉田の浜へ転居します。もう一度自分自身を見直すためでした。のちに本人は、この呉田の浜での二年間を「一つの転機であった」と振り返っています。
わずか五カ月で完成した路面電車——博多で何が起きたのか
本書『電力の鬼』で最も痛快な場面の一つが、この博多での立ち上げです。
破産から立ち上がった男が次に選んだのは、電気でした。
明治39年のうちに自ら調査を行い、必要な書類を作っていました。その後も東京、大阪、京都などの市電事業を見て回って研究を重ねます。大阪は岩下清周が、広島は大林という人が手掛けることになったため、松永安左エ門と桃介は「ぜひ福岡、博多で」と狙いを定めました。
資金は、東京の愛国生命・中野実、大阪の今西林三郎、名古屋の佐分慎一郎らが賛成して引き受けてくれました。桃介も二千株かを引き受け、「福博電気軌道株式会社」の設立が本決まりとなったのが明治42年8月です。創立事務所は、大阪市西区松島町の福松商会内に置かれました。社長は福沢桃介、専務取締役が松永安左エ門でした。
専務である彼が実際の総指揮を執り、すぐに本拠を博多へ移します。そして結果が、この人の非凡さを物語ります。
博多—呉服橋、水茶屋—黒門橋間の約四マイル(約6.4キロメートル)が第一期計画でしたが、これをわずか五カ月で完成させたのです。市当局の道路・橋梁改修も並行して着手されたため、会社ができて六カ月目には営業を開始できました。
結果として建設費が極めて安く上がりました。1マイルあたりわずか十二万円。同じ距離が神戸では七十五万円かかっていたことを思えば、その差は歴然です。
この会社がのちに東邦電力となり、名古屋、東京へと移るまでの十数年間、博多が彼の根拠地となりました。九州電気軌道(九電鉄)の誕生によって事業は福岡・佐賀・長崎の三県に広がり、地方の小電灯会社を吸収し、福岡・佐世保・熊本・鹿児島・長崎でガス事業を行い、のちに西部ガスへまとめることもできました。地域そのものを事業の土台に変えていく発想は、赤字ローカル線を再生させた鳥塚亮さんの手法にも通じるものがあります。
博多で彼が手掛けたのは、電車を走らせることだけではありませんでした。傍系事業として力を入れたのが九州鉄道です。大正8年に福岡市から二日市までの電鉄の権利を得ると資本金を五百万円に増資し、将来は福岡—大牟田間に快速電車を通すことを見据えました。
面白いのは、起点の選び方です。博多駅を起点にすれば博多側は喜びますが、当時の福岡市は中洲を境に、豪商・神屋宗湛以来の商業地である博多と、旧城下町を主体とする住宅街の福岡に分かれていました。福岡側の繁栄を望む声も強かったのです。
そこで目をつけたのが、山手の天神町でした。当時は柳原白蓮が住んでいた「あかがね御殿」や証券取引所の建物くらいしか目ぼしいものがない、閑静な住宅街です。地元の小幡一という男に依頼して周辺の土地を買いつけ、九州鉄道の本社を天神町に置き、ここから工事を始めました。
同時に、福岡市で呉服屋をやっていた中牟田喜兵衛を説きつけ、ターミナル・デパートを建設させます。このとき中牟田を小林一三に紹介して援助を頼みました。これが岩田屋百貨店です。 破産したとき裏長屋を訪ねてくれた相手に、今度は自分が人を紹介する側に回っていました。
本書にはほかにも、大阪ガスのコークスを家庭燃料にするため専用コンロを考案し(のちに特許を取得)、浪花節のうまい社員に一席やらせて主婦層に売り込んだ——といった、彼の商売人としての機転を伝える逸話が数多く収められています。
四十三歳の代議士は、何に本気で怒っていたのか
本書『電力の鬼』には、事業家としてだけでなく政治家としての顔も記録されています。
事業家として名を上げる一方、松永安左エ門は政治の世界にも身を投じています。
大正6年、四十三歳の若さで商工会議所会頭となり、衆議院議員にもなりました。選挙の相手は、新聞社を持ち「しゃべることは商売のような男」と評された中野正剛です。周囲は分が悪いと見ていましたが、本人は「こっちも十四、五歳のときからしゃべって、弥次ってきた男だ」と自信を見せています。慶應対早稲田の選挙戦は、第一回は彼が勝ちました。
このとき所属したのは、後藤新平や田健治郎らの新政会。当時の「新しがり屋」、ある意味では野党であり、左派格の集まりでした。内政では普通選挙の即行を唱え、八八艦隊案やシベリア出兵には反対しています。陸相だった田中義一を捕まえては「シベリア即時撤兵」でケンカを吹っかけたと書いています。
そしてもう一つ、彼が心底から腹を立てていたことがありました。炭鉱の爆発事故です。
当時の日本の炭鉱は爆発ばかり起こし、数十人、数百人の犠牲者を出していました。ところがイギリスでは、坑内に柵をつくって砂を積み湿度を調節する、排水ポンプを蒸気から電気に替えるといった対策で、事故は著しく減っていたのです。
これらの改善は「なんでもないこと」だった——それなのにやらない。日本の炭鉱の保安対策の遅れに、彼は無性に腹を立てていました。石炭商として現場を知り、電気の力も知っていた男だからこその怒りでした。
「時代より一歩早すぎた」構想——東京進出で何が起きたか
大正の終わりから、松永安左エ門の視線は日本全体へ向かいます。
イギリスが戦争遂行のための電力不足対策として実施した仕組みを知り、これを日本に取り入れて送電網を相互接続(インター・コネクション)し、電気事業の経済性と合理的運営を実現しようと考えました。
東邦電力発足の翌年、大正12年には具体案を描いています。東京・名古屋・大阪・神戸の間を十五万ボルトないし二十二万ボルト線で繋ぎ、東北・関東・北越の水力を入れ、火力の多い関西と水力の多い関東を結んで各地のピーク差を利用する——「大日本送電株式会社」の創設案です。翌大正13年4月、桃介を創立委員長として発表されました。
ところが、肝心の各社社長がその気になりません。必要を認めたのは根津嘉一郎だけで、「キミと二人だけででもやろう」とまで言ってくれましたが、当の社長たちが消極的では実現しません。
根津はこう評しました。
「電力界の社長諸君は、やはり自己にとらわれすぎる。その意味で、キミの案は時代より一歩早すぎたんだ」
同じ頃、関東大震災の直後に、焼け残った帝国ホテルに仮事務所を置いていた東京電灯を訪ね、副社長の若尾璋八に勧告したこともありました。「この際、東電は東京の市街から電柱を一掃し、ロンドン並みに地下に配電線と変電所を設けて革新すべきだ」と。
返ってきた答えは、「オレは電気事業などにあまり興味がないんだ。それより政界で働き……」でした。
この構想を実現するために、彼は下調べを積み上げていました。 東邦電力発足と同時に本社へ臨時調査部を設け、副社長でありながら自ら部長を兼ね、北は只見川・阿賀野川から南は宇治川・琵琶湖まで、大きな河川や湖の流水量、各地の日の出・日没の時差を調べ上げていたのです。だからこそ東京が大震災に遭った一カ月後には、電力の復興案を作成できました。
配電室にベッドを持ち込んだ社長は、名古屋で何を見たのか
本書『電力の鬼』が伝える仕事の流儀が、この名古屋再建に凝縮されています。
東邦電力が生まれて早々、松永安左エ門が真っ先に手をつけねばならなかったのは、中京地方の電気事業の立て直しでした。
名古屋に乗り込んでまず驚いたのは、会社が体をなしていなかったことです。広小路にあった旧名古屋電灯の事務所は乱雑で、電工が使う自転車はどこにでも勝手に乗り捨ててあり、倉庫は廃品と新品がごちゃごちゃ。経理も雑で、サービスを提供するどころではありませんでした。
彼は事務所の整理整頓から手をつけます。自分で写真を撮ってまわり、それを示して改善を要望しました。 トイレには男女の区別をつけ、白壁に塗り替えるところまでやっています。
困ったのは停電でした。回数が多いうえ、故障するとなかなか直りません。需要家が怒るのも当然でした。そこで会社の配電室にベッドを持ち込み、実情を見ながら修繕作業の指揮も執ります。
原因を調べると、送配電線がとくにひどいことが分かりました。博多ですら市内配線は三千五百ボルトなのに、人口が三、四倍もある名古屋がなお千五百ボルト。容量が小さく、とても間に合いません。そこで配電線を一挙に五千ボルトへ昇圧し、それを全線でやりました。資金も膨大なものになっています。
一方で大口需要先の経営者、県や市の役所筋、有力者を歴訪して改善を約束してまわりました。前任者の福沢桃介に憤慨していた人たちは、最初は「同類が現われた」とばかりに好意を示しませんでしたが、いつとはなく打ち解けていきます。桃介排撃の急先鋒だった青木鎌太郎は、のちに熱心な支持者になりました。
なぜこんな状態だったのか。桃介は人物のスケールが大きいだけに細かい仕事に向かず、水力開発には興味があっても一軒一軒に電気を売ることは不得手で、「卸売り」を事業の中心に考えていたからだ、と本人は分析しています。現場に寝泊まりする流儀は、その対極にありました。
「国営化は親の仇なり」——なぜ国と戦い続けたのか
本書『電力の鬼』の核心が、この国家管理との対決です。
事業が大きくなるほど、松永安左エ門は国家と正面からぶつかることになりました。
昭和11年の広田弘毅内閣のとき、時の軍部に突き上げられ、総理大臣直属の内閣調査局が拡充されます。ここで電力を国家が握り、運営を一元化しようという流れが強まりました。東邦電力の松永安左エ門と日本電力の池尾芳蔵は、国家管理反対の強硬派と呼ばれます。
逓信大臣だった永井柳太郎は、こう持ちかけたといいます。
「松永さん、この際、あなたは勝海舟になって国家管理に賛成してくれ」
江戸城のごとく、民間の電気事業を無条件で明け渡せということです。しかし彼は即座にはねつけました。国営化は「親の仇」だと言い切るほどの信念がそこにありました。
彼の見立ては辛辣です。軍部勢力や観念右翼が、電気産業を奪うことで資本と資本主義体制を左右し得ると考えたのが電力国家管理の実相であり、「豊富低廉」などというのはその名目に掲げたものにすぎない——そう書き残しました。
事実、東邦電力は日本発送電(日発)に吸収される際、不当な評価を受けています。関係会社・子会社を多く持ち、業績を合わせれば旧東京電灯より内容がよかったはずが、評価は旧東電以下に扱われました。「もはや反対者に対する報復的措置だ」と本人は記しています。
昭和14年、電力は国家管理となりました。松永安左エ門は一切の公職から退き、埼玉県の山荘で隠遁生活に入ります。東邦電力の幹部には「日発には一切役員を出すな!」と厳命しました。
このとき六十四歳。論語の「六十にして耳順う」から「耳庵」という号をつけ、以後はひたすら茶を点てて田舎で遊ぶ日々を送ります。新聞も読まず、ラジオも聴かず、戦況すら知らない時期があったと本人が書いています。国の統制に抗い続けた姿勢は、戦中戦後に信念を通した出光佐三とも重なる生き方でした。
普通なら、これで人生の幕引きです。ところが、そうはなりませんでした。
七十歳を超えてからの大暴れ——電力九社体制はどう生まれたか
本書『電力の鬼』の後半は、この戦後の復活劇に費やされています。
戦後の昭和21年、隠棲していた埼玉の山荘を博物館に寄付し、小田原に移ります。近くには、のちに最高裁判所初代長官となる三淵忠彦、元蔵相の結城豊太郎、大倉組副頭取の門野重九郎という三人の引退人がいました。彼らと集まり、日本の歴史的変革や再建策を語り合う日々が始まります。
そこから、松永安左エ門は「忽然と甦った」と評されるほどの活躍を見せました。昭和25年10月25日、首相官邸で公益事業委員会の認証式が行われ、委員長代理に就きます。年の押し迫った12月28日に委員会は開業し、翌昭和26年1月8日、日発解体による再編成が実施へ移されました。
審議は難航しました。日発側は分割に強く反対し、審議会委員からも「九つに分割することは非常に不利益だ。総発生電力量の一割九分もの電力が無駄になる」という声が上がります。
そこで彼が取った手が、実に彼らしいものでした。GHQの意思を確かめるべく出頭し、アメリカから派遣されていたケネディ(オハイオ電力会長)に対して、「私流のハッタリ」を仕掛けたのです。
「自分は、十年ほど前は日本の五大電力でもいちばん大きい東邦電力の社長だった。電力国家管理に反対して軍部や、軍の威光を笠に着た官僚と戦った。結局負けて電力界、実業界から引退した者だ」
そう名乗ったうえで、「時にアメリカの会社であなたは幾らくらいのサラリーをとっていましたか?」と切り込みます。同席した水野委員が横から袖を引っ張り、通訳も困る場面でした。通訳が「アメリカでは、社長は常務や専務の五割増しくらいの俸給を貰う」と伝えると、すかさずこう返しています。
「私など社長時代は役員の十倍くらいとったものだ」
水野は最後まで袖を引っ張り通しでした。しかしアメリカ人は淡白で、不愉快がりもせず、のちにケネディは彼の説に賛成してくれたといいます。
なぜ、いきなり報酬額を聞いたのか。 それは「自由企業を原則とするアメリカの電気事業の方に会えて光栄だ」という前置きと一続きの問いかけでした。国家管理と戦って敗れた男が、自由企業の国から来た同業の経営者に、自分は同じ側の人間だと示してみせたのです。無礼すれすれの一言に、彼の立ち位置がすべて込められていました。
それでも日本側の審議会は反対論に加担する者が多く、大勢はすぐには動きませんでした。
「牛乳論」はなぜ荒れた国会を鎮めたのか
再編成が動き出しても、試練は続きました。
昭和26年夏に始まった渇水は秋まで続き、電産労組のストライキ——当時「山猫争議」と呼ばれた電力ストが加わって、国民生活は重苦しくなります。朝鮮戦争のさなかで電力需要はますます増大していました。
そんな状況で、昭和26年8月に電気料金の値上げを実施します。国会も政府筋も大反対でしたが、三割強の値上げを押し通しました。これに吉田内閣が反発し、首相から「公益委員会でなく私益委員会だ」と非難されます。長年の間柄だった松本委員長とも対立状態になりました。「私が『電力の鬼』ということにされてしまう原因となったのがこれからである」と、本人が明かしています。
二回目となる昭和27年5月の改定では、さらに大騒ぎになりました。婦人運動家・奥むめおたちの「主婦連」とも激しくぶつかります。参議院商工委員会で奥むめおの質問に答えた彼は、こう説明しました。
「電力再編成というのは、アメリカから九匹の乳牛を輸入したようなものである。これに適正な料金を払うということは餌を与えることだ。その飼料を充分与えず、また三度のものを二度にするというのであれば、長く国民を養ってくれる乳はとれない。親牛も死んでしまう」
このたとえ話が、荒れ狂う国会の反対論をいくらか鎮静させました。 後年、箱根で再会した奥むめおから「あの松永さんの牛乳論で、私どもは反対の気勢をだいぶそがれましたよ」と言われ、大笑いになったといいます。以来、二人は仲良くなりました。
ちなみに、値上げ案を「偽札」という隠語で呼んでいたことも本書に出てきます。昭和27年夏、只見のダム視察の帰りに立ち寄った新潟県小出町で、湯之谷村の村長から「以前、松永さんはソ連に偽札を注文したということを新聞で見たが、アレはいわゆる値上げの意味だったんでしょう」と見破られ、「地方にも勘の鋭い男がいるものである」と感心しています。
松永安左エ門のこだわりとは?
数字と権力の話ばかりの人物に見えて、その素顔は茶人でした。
号は「耳庵」。論語の「六十にして耳順う」から自らつけたものです。電力界を退いてからの日々は、ひたすら茶を点てて過ごしていました。
そして庭づくりを愛しました。本人の言葉によれば、その庭は「豪壮を誇る寺院のような大名庭」でも「金にあかすといった成金の庭」でもありません。貧乏人であるからには貧乏人らしい庭、茶人であるからには茶人らしい庭。おどかしや誇張のない、素直で、つつましやかで、野趣に富んだ簡素を生命とする庭だと語っています。
興味深いのは、この庭づくりを事業と重ねて見ていたことです。庭は本来が自然発生的なもので、初めから図面に描いたようには作れない。作ろうという意思の下にできあがるというよりも、知らずしらずのうちに一つの性格を持って自然にできあがってくる——「庭づくりも実は、事業計画や経済計画といったものによく似ている」と書いています。
庭は生きていて、常に動いているとも語りました。作られたまま静止しているものではない、という感覚です。一応の大掴みな計画を立てたうえで、あとは動きながら形を見つけていく。九十歳を過ぎてなお現役だった人の仕事観が、そのまま庭に表れていました。
松永安左エ門ゆかりの地とは?
本書からたどれる、松永安左エ門の足跡が残る土地を紹介します。
- 長崎県壱岐市 印通寺(生誕地)——玄界灘に面し、湾口の妻ケ島が波をやわらげる天然の良港。祖父が捕鯨の陣頭指揮を執った浜です。地図で見る
- 福岡県福岡市 博多(事業の原点)——福博電気軌道が走った街。東邦電力へと発展するまでの十数年、ここが根拠地でした。地図で見る
- 神奈川県小田原市(戦後の拠点)——昭和21年に移り住み、ここから戦後の電力再編成へ動き出しました。地図で見る
松永安左エ門から学ぶ3つの教訓とは?
一、逆境は「本当は何がやりたかったのか」を教えてくれる
炭鉱で大損し、株で破産し、自宅は全焼して裸になりました。しかしそこで気づいたのは、金が欲しかったのではなく、独力で生産事業をやりたかったのだという事実です。失うものがなくなって初めて、動機の芯が見えました。
二、速さは準備の量で決まる
博多の路面電車を五カ月で完成させたのは、勢いではありません。明治39年のうちに自ら調査を済ませ、東京・大阪・京都の市電を見て回っていたからです。河川の流水量から日の出・日没の時差まで調べ上げていた男だからこそ、震災の一カ月後に復興案を出せました。
三、退くことは終わりではない
六十四歳ですべての公職を捨て、茶を点てる日々に入りました。普通ならそこで終わりです。しかし七十歳を超えて戻り、電力九社体制を作り上げました。引退の期間があったからこそ、しがらみのない立場で全体を組み替えられたとも読めます。
この記事で語りきれなかった『電力の鬼—松永安左エ門自伝』の魅力
本書には、ここで紹介しきれなかった逸話がまだたくさん詰まっています。
孫文と張作霖に会った日々
本書には「孫文と張作霖に会う」「近衛文麿と遊ぶ」といった章が並びます。一介の実業家の枠を超えて、大陸の要人や時の政治家と渡り合った彼の交友の広さが、当人の視点で語られています。
東京電灯との全面戦争
「おごる東電」「東電の牙城に迫る」「東力、東電に宣戦」——目次に並ぶ言葉からして穏やかではありません。関東の巨大電力会社へ九州から挑んでいった、電力戦争の当事者による記録です。
九十歳を過ぎてからの人生論
第二部「老いの余話」では、定年制度や老人のあり方、秀吉や信長を引き合いに出した人物論まで、縦横に語られます。「人生も山のぼり」「退くことも進むみち」といった章題そのものが、九十五年を生きた人間の到達点を示しています。
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まとめ
壱岐の商家に生まれ、破産で裸になり、六十四歳で隠遁し、七十歳を超えて甦って日本の電力体制を作り替える——松永安左エ門の九十五年は、常識の尺度では測れません。
その根にあったのは、電気は民間が競って安く届けるものだという、生涯曲げなかった一点でした。国家管理を「親の仇」と呼び、総理大臣とも渡り合い、そして「電力の鬼」と呼ばれることを引き受けたのです。
働き続けることの意味を考えたい人に、この自伝は強い刺激をくれます。年齢を理由に何かを諦めかけている人ほど、この九十五年の記録は効くはずです。
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よくある質問(FAQ)
Q. 松永安左エ門とはどんな人物ですか?
明治8年に長崎県壱岐に生まれた実業家です。福博電気軌道を設立して電力事業に乗り出し、東邦電力を率いました。戦後は公益事業委員会の委員長代理として電力九社体制を実現し、「電力の鬼」と呼ばれました。昭和46年に満95歳で亡くなっています。
Q. なぜ「電力の鬼」と呼ばれたのですか?
本人によれば、昭和26年8月の電気料金値上げがきっかけです。この件で吉田茂首相から「公益委員会でなく私益委員会だ」と非難され、対立したことが「電力の鬼」と呼ばれる原因になったと自伝で述べています。信念を曲げない姿勢がその異名を生みました。
Q. 「耳庵」という号の由来は何ですか?
論語の「六十にして耳順う」から取ったものです。昭和14年に電力界から退いて埼玉県の山荘で隠遁生活に入った時期、茶の湯に親しみながらこの号を用いました。庭づくりを愛し、簡素を生命とする茶人らしい庭を理想としていました。
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参考文献:松永安左エ門『電力の鬼—松永安左エ門自伝』(毎日ワンズ)

