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出井伸之|「消去法です」と言われて社長になった男が、二度の左遷から掴んだもの

夜明けの都市と遠くへ伸びる道。ソニー元社長・出井伸之を象徴するアイキャッチ画像

記者会見の席で、社長交代の理由を問われた大賀典雄は、こう答えました。

「消去法です」

新社長に指名されたばかりの出井伸之が、その場にいました。続けて大賀は「出井君一人で社長ができるとは思っていない」とも述べています。説明する大賀の苦しそうな表情がすべてを物語っていた——社内外に反発があったことが、はっきりと見て取れる会見でした。

その男は、ソニーで二度の左遷を経験しています。文系出身で、技術者集団のなかでは「麻雀の手配で言う端牌みたいなもの」だったと自ら書いています。上司から「お前なんかクビだ」と言われた回数は、自分ほど多い社員はいないだろう、とも。

『人生の経営』は、その出井伸之が八十代になってから、サラリーマンとして働くすべての人に向けて語った一冊です。

出井伸之の考え方を一言で表すなら、会社に人生を預けず「自分の人生を経営する」という、越境をいとわない姿勢です。 会社に人生を預けるのではなく、自分で舵を取る——それが繰り返し語られます。


出井伸之はどのような人物か(基本プロフィール)

氏名出井伸之(いでい のぶゆき)
生年一九三七年十一月(東京生まれ)
出身地東京
学歴成城学園 → 早稲田大学第一政経学部
経歴一九六〇年ソニー入社(当時の年商は約八十億円、上場二年目)→ 三十一歳でフランス現地法人設立を任される → オーディオ事業部長 → 二度の左遷を経て社長就任 → 退任後にクオンタムリープを創業
主な実績ソニー社長として、デジタル・インターネット・コンテンツへの転換を主導。退任後は投資・支援を通じてベンチャー企業百社超に関わる
著書『人生の経営』

なぜ文系の学生が、技術者の会社を選んだのか

本書『人生の経営』の出発点は、父が敷こうとした道から外れる決断でした。

出井伸之の父・盛之は、早稲田大学で教鞭を執る経済学者でした。

早稲田で教える一方、東洋経済新報社の経済研究所の所長も務め、ILO(国際労働機関)の職員としてスイス・ジュネーブに赴任した経験も持つ人です。

家には、十六歳で夭逝した兄がいました。飛び切り優秀だった兄への期待も弟にかけられ、父は息子を学者か外交官にしたいと思っていました。

しかし本人の気持ちは違いました。口にこそ出さなかったものの、机にしがみつく経済ではなく、生きている経済、つまりビジネスの世界に飛び込みたかったのです。

就職先を探すとき、彼は父のツテを頼って東洋経済新報社の研究所を使わせてもらい、企業研究をしました。そこでソニーを分析し、「これはとてつもない成長企業だ」と感じます。しかもインターナショナルな視点を持っているという点に強く惹かれました。

きっかけは、意外なところにもありました。井深大の長女が、成城学園の小学校で同級生だったのです。井深志津子——本人は「シーちゃん」と呼んでいました。

その縁を頼りに、早稲田四年の夏休み、品川にあったソニー本社を訪ねます。若気の至りですが、行けば井深は会ってくれるだろうと思っていました。

当然ながら井深が出てくるはずもなく、人事部長が対応します。そこで彼は、本当に失礼なのですが、と断りながらこう言いました。

「もっと偉い人に会いたいんですが」

すると、なんと井深と盛田昭夫に面会できてしまいます。二人は机を並べて同じ部屋にいました。

「君はどんな仕事がしたいんだ」

そう聞かれ、井深には「ソニーのトランジスタというものに魅力を感じました」と熱意を示し、盛田には「ソニーはこれから海外に出ていく会社でしょうか」と問いかけています。相手によって、刺さる言葉を変えていました。

翌年の春、そのままソニーに入社します。父には内緒でした。 言えば反対されることがわかっていたからです。


三十一歳の若造は、なぜフランスへ送られたのか

本書『人生の経営』で最も鮮烈な場面が、この抜擢です。

入社して十年も経たない三十一歳のとき、社長だった盛田から突然、社長室に呼ばれました。

行ってみると、並木政和と水嶋康雅の二人がすでに来ています。何なんだろうかと訝っていると、盛田がやおら口を開きました。

「並木はイギリス、水嶋はドイツ、出井、お前はフランス。三人で協力してそれぞれの場所に現地法人を作ってきなさい」

本当に「えっ?」という感じだった、と本人は書いています。まだビジネス経験の少ない若造だったのですから。

盛田は本気でした。現地の代理店を通じて売るのではなく、自社の販売会社から小売店へ直接製品を売りたい。そのためのソニー百パーセント出資の現地販売会社を「お前たちが作ってこい」というのです。

入社十年未満の社員にすべてを任せる——盛田さんは肝が据わっていたと、今でも思うと述懐しています。他の会社なら、三十一歳の小僧にそんなチャンスはくれないでしょう、と。

盛田の考え方は明快でした。

海外に進出するならば、その国のインサイダーにならなければダメだ——インサイダーになるには、まず現地法人を作って、その国の人を雇え。雇うからには一流の人間を雇え。だから、一流の人が来てくれるような会社を作らないとダメだ、と。

その徹底ぶりは、送り出し方にも表れていました。フランスに行く時点で、出井はソニーを退社した扱いになっています。世界を相手にした経営者としては、盛田昭夫の思想がここに凝縮されていました。


退職金の積立が止まった——放り出された先で何を得たのか

異変に気づいたのは、母からの電話でした。

「あなた、何か悪いことでもしたの? 退職金の積立が打ち切られているわよ」

会社の命令で海外に行くのに、処遇としては退社扱いです。「会社ってここまで追い立てるのか」と、いきなり海に放り出されたような気分だった、と本人は書いています。

ところが、そこからが違いました。

人間って不思議なもので、放り出されたら泳ぎ方を知らなくても必死に泳ごうとして、いつの間にか泳ぎ方を覚える——フランスでは大学や大学院で学ぶ数百倍の経験をさせてもらった、と振り返ります。ソニーの文系の花形部署は「外国部」「財務部」「業務部」で、東大卒やMBA卒ばかりでした。しかし東大やMBAで学ぶことの何十倍もパリで学んだ、と。

そして、こう付け加えます。これもサラリーマンだからこそできた経験だ、と。会社だからこそ大きな仕事を任される。自分で興したベンチャーだったら、絶対にそんな経験はできなかっただろう、と書いています。

任務は、販売代理店契約を解消して会社を設立することでした。しかし現地法人を作るのは日本からの直接投資にあたり、当時のフランス政府はそれを認めていません。優秀な弁護士を連れて当局と交渉し、フランス資本と五〇対五〇の合弁企業なら認可されるという見解を引き出しました。


「絶対に愚痴は言わない」と誓ったのは、どんなときか

やがて彼は、本社と決定的に対立したまま、強制送還のようにしてフランスから帰国させられます。納得しないままの社命でした。

実のところ、合弁相手を探してフランスの金融機関を回るうちに金融の世界に魅せられ、ある銀行の入社試験まで受けてソニーを辞める気でいました。最終的に盛田に説得されて辞めなかったといいます。

帰国した彼を待っていた辞令は、ソニー本体ではありませんでした。国内営業を担当する「ソニー商事」の、横浜の物流センターへの出向です。

「会社ってこういうことをする組織なのか」と大変勉強にはなったものの、三十五歳でこれからというときですから、やはりがっかりした——これでソニーでのサラリーマン人生は終わりかもしれないと思い、フェアレディZを買って物流センターに乗りつけて出社していた、と笑っています。

物流センターの隣にはソニーの中央研究所がありました。盛田や岩間、大賀が研究所に来たついでに顔をのぞきに来ます。「出井、元気か」と。

このとき彼は、ある誓いを立てていました。

出向の辞令を受けたとき「なぜ自分が」と思ったけれども、それを顔や言葉に出したら終わりだと思ったから、絶対に愚痴は言わないと誓ったのです。

サラリーマンで定年までずっと順風満帆なんてことはない。必ず人格を試されるような出来事が起こる。逆に起きないとおかしい。 そのときに愚痴をぶちまけたり不平不満ばかり口にしていると、その後のサラリーマン人生は辛くなるだけだ——そう書いています。

だから盛田が来たときも、内心はもやもやしながら、ニッコリ笑ってこう答えました。

「いやー、物流がこんなに楽しいとは思わなかった。女の子たちに囲まれて、楽しいことばかりです」

半分は本当だった、とも記しています。物流センターの女子社員たちは本当に親切にしてくれ、当時のメンバーとは今も年に一度は集まって旧交を温めているそうです。そして実際に、物流の仕事は初めての経験で勉強になりました。

この時期については、本人も長く知らされていなかった話があります。パリから帰国した直後、盛田が彼の妻を呼び出していたのです。「くれぐれも出井には言うな」と念を押したうえで、盛田はこう頼んだといいます。「今度の人事で、出井は会社を辞めると言い出すから、引き止めて欲しい」。妻がそれを打ち明けたのは、五十年近く経ってからでした。周囲は「いい話じゃないですか」と言うけれど、悪いことをした覚えもないのに左遷され、本気で辞めるかどうか悩んでいた当時を思うと、複雑な思いが渦巻いて「ふ〜ん」としか思わない——そう率直に書いています。


「路線バスよりタクシーの運転手」——なぜ本社への復帰を断ったのか

岩間和夫が社長のとき、こんなことがありました。

「出井、そろそろ本社に戻ってきてくれ」

彼は即座に断ります。

「いや、結構です」

さすがの岩間も、まさか即答で断られるとは思わなかったようで、しばらくぽかんと言葉を失っていたといいます。子会社から本社に戻れというのですから、サラリーマン的には断る理由がないように思えます。

それでも断ったのは、その時点で本社に戻ると自分のバリューを高められなくなると思ったからでした。技術やものづくりから離れるのが嫌で、ここでもう少し勉強したかったのです。

岩間には、こう説明しました。

「岩間さん、本社の仕事って路線バスの運転手みたいなもので、決まった仕事しかできないでしょう? 僕はまだどこに行くかわからないタクシー運転手でいたいんです」

岩間は「う〜ん、そうなのか。お前、面白いこと言うな」と唸ったといいます。目をかけてくれていた相手ですから、驚きもし、がっかりもしたはずですが、最後は納得してくれました。

普通の会社ならこうはいかない、と本人は分析しています。自分のバリューにこだわれたのは、当時のソニーは中途入社の社員が多い会社だったという背景もあったから、と。

肩書きへの考え方も一貫しています。子会社だろうと親会社だろうと、自分が輝いて働けるなら会社なんてどこでもいい。大会社が良くてベンチャー企業がダメみたいな考え方も捨てた方がいい。どこでなら自分が輝けるかが重要だ——そう説きます。


「越境」した文系の事業部長は、何を仕掛けたのか

本書『人生の経営』が繰り返し説く「越境」の実例が、この事業部長就任です。

その後、彼はオーディオ事業部長になります。

事業部長は技術系の人がなるのが伝統でした。そこへ素人の、しかも文系の事業部長が初めて誕生したわけですから、社内は大騒ぎになります。「僕がソニーの社長になったときよりもインパクトは大きかったと思います」と本人は書いています。

まったく無縁だったわけではありません。オーディオが趣味で、高校や大学の頃は秋葉原に出かけてオーディオ部品を買い、自分でスピーカーを作ったりしていました。幼少の頃からバイオリンをやっていたので、ある程度は音の違いを聞き分けられます。

余談として、世界的指揮者の小澤征爾が成城学園中学校の二つ上の先輩で、カルテットを組んでいたというエピソードも記されています。小澤はもともとピアノをやっていましたが、ラグビーで指を骨折してピアノを断念し、指揮者に転向したのだそうです。

それでもプロの技術者とは知識に雲泥の差がありました。ではなぜ、オーディオをやろうと思ったのか。

「未来はない」といわれていたこの分野に、大きな変化が訪れる予感があったからです。デジタルの波でした。アナログからデジタルになれば、すべてが一新される。だから越境してオーディオ事業部にやってきたのだ、と。

「これはチャンスだ」

彼は事業部長になってすぐ、アメリカに技術者三人を送って勉強させます。デジタルになれば、アナログ時代の技術は通用しなくなる。だから文系の自分と技術者たちが、横一線に並んでイチから学ぶことになる——社内の研究所から異なるジャンルの技術者を引っ張ってきて、一緒に学びました。

知識で劣ることを、彼は不利ではなく機会と見なしました。全員が初心者になる領域を選べば、出自の差は消えるからです。

そして運よく、CD(コンパクトディスク)という新しいデジタル技術の製品を手掛けることになります。CDはあっという間にアナログレコードを置き換え、大成功を収めました。

CDを作るにはLSI(大規模集積回路)が必要でしたが、当時のソニーでは作れません。そこで富士通に設計を依頼しに行きます。数多くの富士通の技術者と知り合い、「やはり会社によって技術者のメンタリティは違うもんだな」と感じました。松下電器(現パナソニック)の技術者たちとも、この開発を通じて知り合っています。

CDは規格製品ですから、どの会社が作ったCDでも、どのメーカーのプレーヤーでもちゃんと音が出なければなりません。このとき彼はこう考えていました。

「CDで新たな市場を立ち上げて、ソニーはマーケットシェアを半分取ろう。だけど、他社にも製品を作ってもらって、ソニーは他社に材料、部品を徹底的に売りまくろう」

狙いどおりでした。 他社からもプレーヤーが発売されて市場が拡大し、ソニーは部品を売ってさらに利益を得ます。

事業の成功以上に大きかったのは、文系の自分がそれまで付き合ったことのなかった大手電機メーカーの技術者たちと親しくなれたことでした。他社からソニーがどう見られているかを知り、考え方の違いに驚き、人脈と見聞を広げられた——本当に勉強になった、と書いています。

当時、ソニーから見れば松下電器や富士通は比べ物にならないほど大きな会社でした。ソニーが何となくライバルだと思っていたのは、パイオニアやビクターなどの音響機器メーカーです。個人的に松下幸之助を尊敬していた彼は、松下電器の研究を随分としました。事業部制などの組織がなぜ可能だったのか、労働組合対策がどうしてあれほど上手だったのか——人事経理の制度までとことん調べています。

そこから出した結論は、「すべてにおいてソニーは松下電器に劣っている」でした。だけど、と続けます。ソニーは若い盛田昭夫と偉大な研究家・井深大が率いる面白大好き集団で、劣ってはいたけれど他社ではできないことができる会社だと改めて思った、と。

他社の社員は「江戸時代で言うなら他藩の人たちで、本当に宇宙人のように見えた」といいます。向こうも、ソニーの代表として出てきたのが文系の自分を見て、そう思っただろう、と。会社にいると社内の上司や部下など「縦」ばかり意識しますが、サラリーマンにとっては「横」のつながりがいかに重要かをこのときに教わりました。後に社長になったとき、この人脈に助けられたと書いています。


墓石に半導体チップを貼った先輩は、何を教えたのか

CD開発の恩人として、出井伸之は岩間和夫の名を挙げています。生粋の技術者で、のちにソニー四代目社長となった人です。社長在任中の一九八二年に六十三歳の若さで亡くなられたため、井深・盛田に次ぐ創業者世代の一人でありながらあまり記憶に残っていないように思う、と惜しみつつ、「ソニーを語るとき、岩間さんは絶対に欠かしてはいけない人です」と記しています。

その理由を象徴するのが、鎌倉にある岩間の墓です。墓石には、岩間が心血を注いで開発した「半導体チップ」が貼り付けられているといいます。

岩間はデジタルカメラやビデオカメラのイメージセンサーとして使われるCCD(電荷結合素子)を世界で初めて実用化した人物です。当時は欧米のどのメーカーも二〜三年で開発を断念するほど、技術的に困難を極めていました。

「ソニーで開発をさせてくれ」と訴えた岩間に対し、井深大は真っ向から反対します。「CCDの開発は絶対に無理だ。だから、無駄な投資はやめよう」と。

それでも岩間は諦めませんでした。井深は顔を見るたびに「やめろ」「諦めろ」と言い続けましたが、岩間ほど地道で、真面目で、辛抱強い人を知りませんと出井は書いています。実用化に成功したのは一九七六年。この成功をベースに一九八九年の8ミリビデオカメラ「ハンディカム」が生まれ、そこからデジタルカメラ、CMOSイメージセンサー、携帯電話用カメラへとつながっていきました。

そして、もう一つ。オーディオ事業部長をやりたいと出井が手を挙げたとき、社内の多くが反対するなかで後押ししてくれたのが岩間でした。

「あいつだったら面白いな。千三つ(千のうち三つしか本当のことを言わない、大風呂敷を広げる人)で、何かやるかもしれん。よし、やらせてみよう」

この話を聞かされたのは、岩間が亡くなった後のことでした。僕は号泣しました——そう記しています。

このCD開発を通じて、彼はある確信を得ます。「サラリーマンこそ、挑戦すべきだ」ということです。

「独立したい」「起業したい」と言う若いソニー社員には、こう話していました。

「君はいい家に飼われているウサギみたいなものなんだよ。ライオンなんて見たことがないだろう」

会社を辞めて起業しようと思っても、外にはライオンやらトラやら猛獣がうろうろしていて、すぐに食われてしまう。外では誰も守ってくれない——だから、もう少しソニーの中で頑張って経験を積め、と。守られている環境のうちに、守られていなければできない大きな挑戦をしておけ、という趣旨でした。


二度の左遷は、何をもたらしたのか

本書『人生の経営』の核心が、この挫折の受け止め方にあります。

順風だけの経歴ではありません。彼はソニー時代に二回の左遷を経験しています。

なかでも派手に飛ばされたときは、社内の誰もが「出井が飛ばされた」と知っていたほどでした。初めは相当にショックだったと書いています。サラリーマンを辞めなさいと言われているようなものですから。途中から「どうせ数か月だろう」と高を括りましたが、そういう境地になるまではかなり深刻に受け止めていました。

それでも、自分から諦めてなるものかとは思っていた、と。三か月ほどで異動になり、レーザーディスクの開発に携わることになります。

だからこそ、大賀が自分を社長に指名した理由が当時はよくわからなかった、と本人は振り返ります。

ソニーはハイレベルな技術者が集まるエンジニア集団で、当然エンジニアに重きが置かれる会社でした。当時は文系なんて、麻雀の手配で言う端牌(切り捨て候補)みたいなものだったのです。上司から「お前なんかクビだ」と言われた回数は、自分ほど多い社員はいないと呆れています。実は大賀からも言われたことがありました。

後年、大賀は自著のなかで「消去法で選んだ」の意味をこう説明しています。

「私がソニーの社長に必要な条件として挙げた項目をクリアできない人を順番に消していったら、最後に出井さんが残ったという意味である」

左遷も、端牌扱いも、消去法も——本人はどれ一つ恨み言として書いていません。腐らずにいたことが、結果として残る側に回らせました。


「社長なんてすぐに替わる」と言われた改革は、どう進んだのか

本書『人生の経営』には、社長時代の十年の戦いが率直に記されています。

社長として彼が掲げたのは、ソニーの姿を変えることでした。

入社式で新入社員に向けて、こう話しています。

「ソニーはこれからデジタルの会社になる、インターネットの会社になる、コンテンツの会社になる」

このメッセージに素直に感動した新入社員がいました。のちに「マネーフォワード」を起業する辻庸介です。彼は配属先の部署で、上司にこう言いました。

「ソニーは変わるんですね。デジタルやインターネットの会社になるなんて、本当にソニーを選んで良かったです」

返ってきたのは、意外な言葉でした。

「何を言ってるんだ、お前は。うち(ソニー)は、製造業なんだよ。インターネットの会社なんかじゃないんだよ。社長(出井)なんてすぐに替わるんだよ」

出井はこの逸話を、率直な意見だと笑いながら紹介しています。こういう意見を自由に言えるところがソニーの良さだ、と。

なぜこの体験を書いたのか。当時の空気が伝わってくるからだ、と説明しています。社長が表明した方針を社員が全否定している。おそらく多くの社員が同じように考えていただろう、と。

「僕の戦いは、社員の意識を変える戦いでもありました。」 本業そのものを組み替える難しさは、古森重隆さんの挑戦とも重なります。 周りからは「十年早い」と言われ続けてきた、とも書いています。それでもソニーは、こうした大きな変化を受容できる、面白がれる会社だと思っていた——社長時代の十年間はその戦いだったと総括しています。


退任後に選んだのは、なぜ「真逆」の道だったのか

本書『人生の経営』の題名どおり、引退後こそが本題です。

ソニーを離れたあと、彼が作った会社はクオンタムリープといいます。

オフィスは品川ではなく丸の内に構え、現在は乃木坂に移りました。規模が大きくなったソニーとは真逆のことをしたいと考えたからです。

社名の由来も語られています。クオンタムリープとは、量子力学の世界で「非連続の飛躍」を意味する言葉です。ソニーが成長を遂げてきたように、企業にはあるときパーンと伸びることがある。ベンチャー企業のそういう非連続の飛躍を手助けしたい——そう思ってこの会社をつくりました。

若い世代との交流が増え、関わってきたベンチャー企業は百社を超えたといいます。肩書きや過去の常識を手放す姿勢は、中野善壽さんの考え方にも通じます。

年を取ってからチャレンジなどできるのか、それは経営者だからできることではないか——そう思われるかもしれないが、そんなことはない、と彼は書きます。ある仕事のノウハウを身につけ、しっかり会社に貢献してきたサラリーマンであれば、これまで培ってきたキャリアはとても大きな価値を持っている。多くの人はそれに気づいていないだけだ、と。

実例も挙げられています。あるベンチャー企業から経理ができる人がいないと相談を受け、大企業で経理をやっていたベテラン社員を紹介して再就職してもらったことがありました。

企業経営にはビジョン、実行力、そして管理の三角形が必要ですが、ベンチャー企業に足りないのは財務および管理です。技術やサービスのアイデアから始まるため、会社が大きくなると途端に人材が足りなくなる。そこに、大企業で管理を担ってきた人の居場所があるという指摘でした。


出井伸之のこだわりとは?

本書『人生の経営』からは、経営者としてだけでない素顔も見えてきます。

出井伸之のこだわりは、にありました。

高校や大学の頃は秋葉原に出かけていってオーディオ部品を買い、自分でスピーカーを作っていました。幼少の頃からバイオリンを続けており、そのおかげである程度は音の違いを聞き分けることができた、と本人が書いています。成城学園中学校では、二つ上の小澤征爾とカルテットを組んでいました。

趣味と仕事が交わった瞬間が、オーディオ事業部への「越境」です。文系の事業部長という前例のない立場を選べたのは、この素地があったからでした。

もう一つは、ゴルフです。盛田から金曜の朝に突然電話がかかってきて、「出井、明日ゴルフやるから時間を空けてくれ」と誘われました。当時はゴルフをやるサラリーマンが少なく、自分のような若造でやる人間はほとんどいなかった、と書いています。井深が「会社でのお父さんのような存在」だったのに対し、盛田は兄貴分でした。経営陣と若造が友だちのように付き合っていたため、社内では目立っていたようだ、と懐かしんでいます。


出井伸之ゆかりの地とは?

本書からたどれる、出井伸之の足跡が残る土地を紹介します。

  • 東京都世田谷区 成城(学生時代)——成城学園に通い、井深大の長女と同級生だった縁がソニー入社につながりました。地図で見る
  • 東京都品川区(ソニー本社)——早稲田四年の夏、就職活動でこの本社を訪ね、井深大と盛田昭夫に直談判しました。地図で見る
  • フランス(現地法人設立の地)——三十一歳で送り出され、ソニーを退社した扱いのまま現地法人を立ち上げました。地図で見る

出井伸之から学ぶ3つの教訓とは?

一、全員が初心者になる場所を選ぶ

文系の彼がオーディオ事業部長として通用したのは、デジタルへの転換期を選んだからでした。アナログの技術が通用しなくなる領域では、技術者も自分も横一線に並びます。知識で劣る不利は、変化の大きさで消せるのです。

二、左遷を、自分の物語から外さない

二度の左遷も、「消去法」という指名理由も、彼は隠さず書いています。腐らずにいたこと自体が実績になりました。評価は自分で決めるものではなく、周りが決めるもの——だからこそ、堂々としていることが大事だと繰り返します。

三、キャリアは終わらない

退任後に選んだのは、ソニーとは真逆の小さな会社でした。ベンチャーに足りない財務・管理を、大企業で培った人材が埋める。自分の経験を、必要としている場所へ移すだけで価値になるという発想です。


この記事で語りきれなかった『人生の経営』の魅力

本書には、ここで紹介しきれなかった話がまだたくさん詰まっています。

「社内起業」「社内転職」のすすめ

第1章では、会社を辞めずに挑戦する方法が具体的に語られます。「簡単に辞めてはいけない」「会社は可能性の宝庫」という主張の背景に、彼自身の越境体験があります。

井深大・盛田昭夫・大賀典雄という三者三様

創業者世代とどう向き合ってきたかが、それぞれの人柄とともに描かれます。「井深さんは会社のお父さん」「盛田さんは兄貴分」という表現が、その距離感を伝えています。

定年という考え方をやめよ

本書全体を貫くテーマです。「人生に引退はない」「自分の人生を”経営”する」という視点から、リタイア後のキャリアをどう設計するかが語られます。

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まとめ

「消去法です」と公の場で言われて社長になり、二度の左遷を経験し、文系であることを終始ハンデとして扱われた人でした。

それでも出井伸之は、腐らずにいることと、全員が初心者になる場所を選ぶことで道を開いています。そして退任後は、規模の大きさとは真逆の場所で、次の世代の「非連続の飛躍」を支える側に回りました。

いま組織のなかで評価されていないと感じている人にこそ、この一冊は響きます。左遷も、望まぬ出向も、消去法の指名も、受け止め方ひとつで次の材料に変わる——八十代の本人がそう言い切っているところに、この本の重みがあります。

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よくある質問(FAQ)

Q. 出井伸之とはどんな人物ですか?

一九三七年に東京で生まれ、早稲田大学卒業後の一九六〇年にソニーへ入社した経営者です。三十一歳でフランス現地法人の設立を任され、オーディオ事業部長を経て社長に就任しました。退任後はクオンタムリープを創業し、ベンチャー企業百社超に関わっています。

Q. なぜ「消去法」で社長に選ばれたのですか?

大賀典雄が記者会見でそう答えたためです。後年、大賀は自著で「社長に必要な条件として挙げた項目をクリアできない人を順番に消していったら、最後に出井さんが残ったという意味である」と説明しています。社内外に反発があったことも本書に記されています。

Q. 「クオンタムリープ」という社名の由来は何ですか?

量子力学で「非連続の飛躍」を意味する言葉です。ソニーが成長したように企業にはあるとき急に伸びる瞬間があり、ベンチャー企業のそうした飛躍を手助けしたいという思いから名付けられました。オフィスも規模も、あえてソニーと真逆にしています。


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参考文献:出井伸之『人生の経営』