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なぜ「日本一のケチ会社」の主は、赤字企業ばかり任されたのか|土光敏夫『私の履歴書 土光敏夫』

なぜ「日本一のケチ会社」の主は、赤字企業ばかり任されたのか|土光敏夫『私の履歴書 土光敏夫』

夕食は、自宅で一汁一菜。食卓に刺し身が並ぶことはめったになく、豆腐とワカメの味噌汁に、イワシの丸干しか煮干しと野菜の油いため——それが、ある経営者の「定食」でした。着るものはよれよれの浴衣、靴は底を何度も張り替え、住まいは築50年以上のガタピシする木造平屋

その主が、石川島重工業を、東芝を、次々と赤字から立て直した男だと知れば、誰もが目を疑うでしょう。「日本一のケチ会社」と評された会社をつくった当人でありながら、稼いだお金のほとんどを、母が遺した女学校に注ぎ込んでいたのです。

その人こそ、土光敏夫です。この記事は、土光が技術者として、経営者として、そして80を過ぎてなお国家の改革者として歩んだ道のりを自ら綴った著書『私の履歴書 土光敏夫』をもとに、私心を一切もたずに危機を突破した経営を読み解きます。

土光敏夫の経営思想を一言で表すなら「合理と献身」です。ムダを憎み、道理だけで物事を決め、しかも自分の利益はまるで求めない——そんな筋の通った技術者経営者でした。

項目内容
氏名土光敏夫(どこう としお)
生年1896年(明治29年)9月15日
出身岡山県御津郡大野村(現在の岡山市)
学歴東京高等工業学校(通称「蔵前」、現・東京工業大学)機械科卒業
会社石川島重工業・石川島播磨重工業 社長/東京芝浦電気(東芝)社長
主な役職経済団体連合会(経団連)第4代会長/第二次臨時行政調査会 会長
本書の主題岡山の農家に生まれた技術者が、赤字企業の再建と国家の行財政改革に生涯を捧げた自叙伝
著書土光敏夫『私の履歴書 土光敏夫』(日本経済新聞社、1983年)

なぜ、3度も受験に失敗した田舎の腕白少年が、技術者を志したのか

土光敏夫の物語は、栄光ではなく、失敗の連続から始まります。

明治29年、岡山県の中の下くらいの農家に生まれた土光は、田や畑を遊び場に走り回る腕白な少年でした。60キロの米俵を軽々と持ち上げ、運動会ではほとんどの賞を独り占めする。相撲も走り幅跳びも得意でした。ところが、県下で一番競争率の高い県立岡山中学を受けると、みごとに失敗します。しかも一度ではありません。尋常高等科へ進んでから合計3回受験して、全部落ちてしまったのです。

その原因を、土光は本書のなかで飾らずに書いています。「もともと私の鈍才によるのであろうが、受験勉強より腕白の方が好きだった性格にもよる」。県立をあきらめて私立の関西中学へ入り、東京の蔵前高等工業に挑んでも、一度目はやはり失敗しました。

しかし、この田舎育ちの少年を静かに支えていたのが、強烈な信念をもった母・登美でした。

母は、70歳を過ぎてから戦時下の混乱のなかで女学校を独力で創立してしまうほど、一度決めたことは何があってもやり通す人でした。土光の学費のためには「一年に一反ずつ土地を売って、敏夫の学費に充ててやる」と即座に言い切ります。この母から受け継いだ「やると決めたら絶対にやり通す」意志こそが、後の土光の再建人生の芯になっていきました。

代用教員をしながら1年間受験勉強に励み、2度目の挑戦で蔵前に合格した土光は、しかも首席だったといいます。うれしくてすぐに母へ手紙を書いた——その素朴な喜びの記憶が、本書には温かく刻まれています。では、この技術者はどのようにして経営者へと変わっていったのでしょうか。

「国産だからダメ」と言われて、土光敏夫はなぜ引き取り保証まで口にしたのか

大正9年、東京石川島造船所に入社した土光が任されたのは、タービンの設計でした。

当時、タービンの技術書など翻訳されているはずもなく、土光は洋書を四苦八苦して読みあさり、実験も先生と一緒になって手探りで進めます。スイスのエッシャーウィス社への研究留学も命じられ、2年半のあいだ、現場で油にまみれるか、技師たちと議論を戦わせるか、そのどちらかに明け暮れました。この時代に、朝4時起床、夜11時就寝という5時間睡眠の生活が習慣づいたといいます。ドイツの科学雑誌を山ほど取り寄せて読みこなすには、それだけの時間しか眠れないと計算したからでした。

そんな土光が、技術者としての誇りを賭けた勝負に出たのが、昭和4年のことです。

秩父セメントが大型発電機用タービンの導入を計画すると、各社が激しい受注競争を繰り広げました。当時、大型発電機はほとんど外国製ばかり。石川島の純国産タービンなど、誰も相手にしません。「国産だからダメ」と言われたことに、土光は憤慨しました。秩父セメントの本社に自らのり込み、こう熱心に口説きます。「技術には絶対の自信がある。使ってもみないで外国製に劣るなどといわないでほしい」。

すると同席した役員が、からかい気味にたずねました。「それほど自信たっぷりなら、万一、欠陥が判明したときは、タービンを引き取ってくれるかね」。土光は、即座に答えます。「ええ、結構です。引き取りましょう」

この一言で交渉は成立しましたが、あとで石川島の社内は大騒ぎになりました。若造の一主任技師がとんでもない約束をした、欠陥があれば会社は莫大な損害をこうむる、と。それでも結局は「とにかく、土光にやらせてみよう」ということになります。数カ月間、毎日星を見ながら帰宅し、時には現場に泊まり込んで細部を手直しさせた末、試運転はなんの故障もなく成功しました。このタービンは、いっさい外国の設計や特許によらない、純国産としては類をみないものだったのです。

土光は、この経験からひとつの持論をもちました。舶来品はよく故障する。それを直しに日本中を駆けめぐった自分の経験からすれば、「外国製だって、驚くほど優秀なものは少ない」「もともと優秀な技術の下地は、日本に十分あった」——。後年、社長として数多くの技術導入をはかったのも、日本の技術レベルへの揺るぎない自信があったからでした。この現場叩き上げの技術者が、やがて経営の表舞台へと引き出されていきます。

1億円の赤字企業へ、土光敏夫は「有無を言わせず」据えられた

昭和25年、石川島重工業は1億円以上の赤字を出し、経営の危機に瀕していました

そこへ、前社長の笠原逸二がやってきて、役員会の最中の土光に告げます。「土光君、君はちょっと廊下へ出て行ってくれんかね」。何十分か後、別室で待つ土光のもとへ笠原が来て、こう言い放ちました。「君は、石川島の本社へ来てもらうからね。役員の連中に話はつけた」。土光個人の意思など関係のない、有無を言わせぬ成り行きでした。「私は、しょっぴかれるようにして、本社の社長に据えられた」と本人が書くほどです。

社長になった土光が、まず手をつけたのは徹底したムダの排除でした。

就任してすぐ、伝票や領収書を自分のところへ持って来させます。いちいち点検するわけではありません。「私の所へじかに持って来させるだけで引き締めの効果が出る」からでした。事実、翌月から石川島の冗費はガクンと減り、半分ぐらいになったといいます。提出される稟議書や計画書を、直ちにチェックしては押し戻す。それが3、4回になると、経費は最初の3分の1ほどに縮んでいました。こうして石川島は、ある財界年鑑に「日本一のケチ会社」に挙げられる名誉に浴したのです。

もっとも、土光の合理主義は、冷たい数字合わせではありませんでした

社長就任と同時に、石川島初の社内報「石川島」を発行します。「言ってきかせる」ための手っ取り早い方法だと考えたからでした。年頭の挨拶を全社員に配ったその日、土光は正月早々、自ら正門前に立ち、出社してくる従業員一人一人に「おめでとう」と声をかけながら社内報を手渡します。なかには、職場での祝い酒にと持参した一升ビンをオーバーの下に慌てて隠す者もいて、土光は苦笑いしながら見て見ぬふりをしました。

好んで引いたのが、山本五十六の言葉です。「やってみせ、言ってきかせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」。まず役員が経費節約の範を垂れ、あとは言ってきかせ、実行させ、ほめる。この順番を、土光は忠実に守りました。石川島は朝鮮戦争の特需にも乗って業績を伸ばし、土光が引き継いだ半期の売上は、わずか数年で5倍近くにはね上がっていきます。次に土光が挑んだのは、日本の造船史に残る大合併でした。

「一と一を足して二ではなく、三にも四にもする」——石川島・播磨の電撃合併

昭和35年7月1日、土光は東京会館で重大な記者発表を行います。石川島重工業と播磨造船所の合併でした。

この大型合併が、まったく秘密裏に、しかも短期間でスムーズに行われたことに、世間はあっと驚きます。石川島は隅田川河口にあって大型タンカーを建造する設備がもてず、造船比率9割の播磨は長期不況にあえいでいました。土光は「陸」と「海」の結婚だと見抜きます。「成り成りて成り合わざる処と、成り成りて成り余れる処とがあるわい。これならうまくゆく」

秘密裏の交渉で徹底されたのは、互いの弱点を洗いざらいさらけ出すことでした。公表している決算書ではわからない含み利益も含み損失も、すべて見せ合う。もし合併が破談になれば、それ以後は互いに競争ができないという、いわば背水の陣です。かつて川崎重工が播磨との合併話に半年以上ぐずぐずしているあいだに、土光はわずか3日で決断したと語り継がれるほど、その意思決定は速いものでした。

合併がなると、土光は「大進軍ラッパ」を吹きます。記者会見で放ったのが、あの言葉でした。「一と一を足して二ではなく、三にも四にもする。大エネルギーを起こす核融合を行うつもりである」

そして、合併でいちばん難しい「人の融和」の問題に、土光は独特の手を打ちました。両社の従業員をいったん本社にプールし、そのあとほとんど無差別に5つの事業部へ再配分したのです。世に「ミキサー人事」と呼ばれたこの荒療治によって、新しい職場では上役も同僚も、石川島の出身か播磨の出身かわからなくなりました。「案ずるより産むがやすし」で、組織のマンネリズムは一掃され、清新の空気がみなぎります。石川島播磨重工業は、やがて進水量で世界一の造船所へと駆け上がっていきました。合併が軌道に乗った土光に、次はさらに巨大な赤字企業からの声がかかります。

なぜ土光敏夫は、自社の3倍の規模の東芝を「大丈夫」とふんだのか

昭和40年、土光は石坂泰三の懇請を受けて、減配続きの東京芝浦電気(東芝)社長に「就かされ」ました。与えられた責務は、東芝の立て直しです。

東芝は、資本金も従業員数も石川島の3倍ほどある大所帯でした。その巨体が病気にかかっているのですから、病根を探すだけでも大変です。ところが、原因や対策を種々調べるうち、土光は大きく安心することが一つあったといいます。会社が擁している人材の優秀さでした。「これだけ有能な人間を抱えておれば、その活用さえはかれば、必ず再建できる」——土光はまず、会社が眠らせている力を信じたのです。

そこで打ったのが、100パーセントの権限委譲でした。

それまで事業部長は、上にいる担当役員の決裁を仰がなければ事が処理できませんでした。土光はこの仕組みを改め、決裁権まで事業部長に与えます。事業部を一つの会社と考え、部長をその社長と見立てる。自主的に目標を設定し、予算も作れば、その行使も自由。ただし最後の責任はトップがとる——。この方法を、土光はイギリスの歴史家トインビーの著書から得た言葉で「チャレンジ・レスポンス経営」と名づけました。目標を達成できなければ、なぜできなかったのかの説明を要求(チャレンジ)し、相手はすばやく応答(レスポンス)する。そのやりとりのなかに、活発な活力と相互の信頼が生まれると考えたのです。

土光の働き方は、率先垂範そのものでした。「一般社員は、これまでより三倍頭を使え、重役は十倍働く、私はそれ以上に働く」とハッパをかけ、毎朝7時半には出社しました。初出社の日には、まさか社長がそんなに早く来るとは思わない受付に「どなたでしょうか」といぶかられたほどでした。

「東芝は侍」と評されるほど礼儀正しい社風で、社長室に入る人間がみな最敬礼をするのに土光はどぎまぎし、自分も社員に最敬礼を返すことで、ようやくその慣習をやめさせたといいます。会社の組織は、社長を頂点に置くピラミッドではなく、太陽を中心に惑星が回る太陽系のようであるべきだ——。「仕事上では、社長も社員も同格なのである」という信念のもと、土光は自ら得意先へ売り込みに出向く「社長セールス」も厭いませんでした。いざなぎ景気の波にも乗って、東芝はみるみる回復し、8期連続の増収増益を記録します。

なお本書には、ここで語りきれなかった東芝再建の細やかな仕掛け——「トップ指針抄」と名づけて社内報に流し続けた千を超える指針の数々が、まだ数多く描かれています。

私心なき人が、なぜ経団連会長として石油ショックに立ち向かえたのか

昭和49年、土光は経済団体連合会(経団連)の第4代会長に推されます。就任したその年は、値段が一挙に4倍にもはね上がる石油ショックが訪れ、大インフレと大不景気を誘発した、まさに「経済乱世」でした。

土光が掲げたのは、「行動する経団連」の旗です。就任からの半年間、石油ショックで意気消沈している全国の経営者たちを元気づけるため、会員団体を丹念に回りました。自民党の党三役や関係官庁の大臣にも会い、精力的に進言と要望をくり返します。当時、副総理だった福田赳夫が「この一年間、私は土光さんに怒鳴られっ放しだった。ドコウさんではなくて、ドゴウ(怒号)さんだ」と述懐したほどでした。土光本人は、怒ったつもりはなく、もともと地声が大きく、議論に熱が入るとテーブルをたたく癖があるだけだと弁明しています。

そんな土光が、経団連会長として貫いたのが、筋を通す潔さでした。

就任からわずか3カ月後、「経団連は、政治献金の金集めの代理業はやらない。そもそも献金は個人レベルでやるべきである」と発言し、事態は紛糾します。「財界の金をバックに自民党を恐喝している」ときめつけられても、土光は動じません。保守党に正道を歩んでほしいがための正論で、「いささかも私心はない」という一点に迷いがなかったからです。

土光には、一貫した流儀がありました。「だれと会うにしても、堂々と表門から」。赤坂あたりの料理屋で夜こっそり会うようなことは、まっぴらだと言い切ります。表門からでありさえすれば、どこででも誰とでも話をする。だからこそ経団連会長時代には、一日に少ないときで10人、多いときで40人もの人に会いました。私心がないからこそ、誰に対しても堂々と道理をぶつけられたのです。

この筋の通し方の原点は、はるか若い日の苦い経験にありました。造船会社の社長だった時代、土光は造船疑獄事件で逮捕され、20日間の拘置生活を経験します。結局は「関係なし」となりましたが、担当検事は土光の家のボロ屋と電車通勤の姿を見て「あっ、この人は違うな、と直感した」と語ったといいます。土光がこのとき得た教訓は、生涯を貫くものでした。「公私を峻別して、つねに身ぎれいにし、しっかりした生き方をしておかねばならない」。この身ぎれいな生き方が、彼の最後の大仕事へとつながっていきます。

「暮らしは低く、思いは高く」——85歳の行革への挑戦

昭和56年、土光は第二次臨時行政調査会(土光臨調)の会長を引き受けます。すでに80を過ぎていました。

膨れ上がる国債と赤字財政を前に、土光は行財政改革を「一種の世直し」であり「国民の意識をかえる息の長い国民運動」だと位置づけます。会長を引き受けるにあたっては、鈴木総理に4カ条の「申し入れ事項」を突きつけました。その第1が、「行政改革の断行は、総理の決意あるのみである」。答申を必ず実行するとの決意を明らかにせよ、と迫ったのです。増税による財政再建ではなく、徹底的な合理化で「小さな政府」を目指す——石川島や東芝で貫いてきたムダの排除の思想を、土光は国家といういちばん大きな組織にぶつけました。

そして、この老いた改革者を国民が信頼したのには、理屈を超えた理由がありました。土光の暮らしぶりそのものです。

土光の食卓は、豆腐とワカメの味噌汁に、イワシの丸干しか煮干しと野菜の油いため。この質素すぎる食事は、後に「めざしの土光さん」という愛称で全国に知られ、清貧を体現する行革の顔となりました。夜の宴会はほとんど断り、住まいは築50年以上のガタピシする木造平屋のまま。冷暖房すら、東芝社長時代に「社長の家に東芝製品がないのは困る」と無理やり設置されるまで、なかったほどです。

土光の手帳には、英国の詩人ワーズワースの一節が書き付けてありました。「暮らしは低く、思いは高く」。生活はどこまでも簡素に、しかし希望と理想は高く掲げる。土光自身の言葉でいえば、「生活信条はただ簡素。しかし、希望は高くもつ」シンプル・ライフでした。

行革は息の長い運動であり、85歳を超えた自分は、多分その結果を見ることはないだろう——土光はそう書いています。それでも、方向をつけることはできる。ニーチェの「偉大なことは方向を付けることである」という言葉に励まされ、ただ邁進するだけだと。40年前に母・登美が「個人は質素に社会は豊かに」を標榜して女学校を建てたことを、土光は行革の基本精神そのものだと重ねていました。

なお『私の履歴書 土光敏夫』には、ここで紹介しきれなかった行革をめぐる各委員との攻防や、エネルギー・原子力政策への先見が、まだ数多く描かれています。

土光敏夫のこだわりとは?

経営の話が続きましたが、ここで少し、土光敏夫という人そのものに目を向けてみましょう。本書に描かれるその暮らしぶりには、この人の筋金入りの信条がにじんでいます。

まず、徹底した「もったいない」の精神です。革靴は底を何度も張り替えさせてできるだけ長くもたせ、髪ブラシは20年以上使い続ける骨とう品でした。宴席で出されたフルコースは一粒も残さずきれいにたいらげ、エビの皮までていねいに食べる。誰かが食べ残していれば「きみ、もったいないよ」と注意する。外国旅行では、洗濯もアイロンがけも全部自分でこなし、クリーニング代すらかけませんでした。ソ連へ行ったときには、入国時も出国時も所持外貨を「一〇〇〇ドル」と記入し、審査官をけげんな顔にさせています。土産の一つも買わなかったのです。

もう一つが、毎朝晩の読経の習慣です。土光家は代々熱心な日蓮宗の信者で、土光も毎朝と毎就寝前に二、三十分、お経を読みました。最も好きな言葉は、中国の古典「大学」にある「日新、日日新、又日新」。今日という日を昨日より新しくよくする、という誓いです。しくじった日には、その日のうちに反省して悔いを翌日に持ち越さない。読経は、いわば自分を律するための区切りでした。

土光はこれを「常に心を何の迷いもないニッポン晴れにしておくこと」と表現しました。机の上の理屈ではなく、日々の小さな律しの積み重ねこそが、この人の生き方を支えていたのです。こうした人となりは、彼が縁を結んだ土地にも刻まれています。

土光敏夫ゆかりの地とは?

土光敏夫の足跡は、いくつかの土地に残されています。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。

まず、生まれ育った岡山県(現在の岡山市)。中の下くらいの農家に生まれ、田や畑を遊び場に走り回り、家業の手伝いで小舟を曳いて足腰を鍛えた土地です。3度の受験失敗もこの地での出来事でした。(地図で見る

次に、青春時代を過ごした東京の蔵前。東京高等工業学校(現・東京工業大学の前身)が置かれ、下町のまっただ中で、土光は読書と実験に明け暮れました。ボートの応援団長として土手を走り回り、人形町末広の寄席と立ち食いすしを楽しんだのも、この界隈です。(地図で見る

そして、技術者としての礎を築いたスイス・チューリヒ。エッシャーウィス社への留学で、油にまみれて働き、各国の技師たちと議論を戦わせた土地です。苦手な社交ダンスから逃げてスキーを覚えたのも、この山国でのことでした。(地図で見る

土地をたどると、岡山の農家から蔵前へ、そしてスイスで得た技術を武器に日本の重工業と国家を支えた、一人の技術者の軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。

土光敏夫から学ぶ3つの教訓とは?

『私の履歴書 土光敏夫』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。

一つめは、ムダを憎むことは、人を活かすことであるという教訓です。土光は石川島を「日本一のケチ会社」に変え、東芝でも冗費を削りました。しかしその目的は、ケチることそのものではありません。ムダのない筋肉質の組織にし、権限を委譲して社員一人一人を主役にする。人材の優秀さを信じ、その力を解き放つための合理化でした。締めることと活かすことは、土光のなかで一つだったのです。

二つめは、私心を捨てた者だけが、堂々と筋を通せるという教訓です。土光は経団連会長として献金問題で正論を吐き、誰と会うにも表門から入りました。造船疑獄の拘置で得た「公私を峻別せよ」という教訓を、生涯貫いたのです。稼いだお金を母の女学校に注ぎ込み、自分は一汁一菜で暮らす——その私心のなさが、彼の言葉に揺るがぬ力を与えました。

三つめは、「暮らしは低く、思いは高く」生きるという教訓です。土光は生活をどこまでも簡素にしながら、志だけは高く掲げ続けました。85歳で行革という国家の大事業に飛び込み、自分は結果を見られないと知りながら「方向を付ける」ことに賭ける。この落差の大きさこそが、多くの人の心を動かしたのです。

これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません『私の履歴書 土光敏夫』には、ここでは紹介しきれなかった土光の歩みが、まだまだ詰まっています。

この記事で語りきれなかった『私の履歴書 土光敏夫』の魅力

土光敏夫の歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。

一つめは、戦時下のジェットエンジン開発の物語です。石川島は海軍とともに、潜水艦で運ばれたドイツの見取り図をもとに、驚くべき短時日で純国産のジェットエンジンを完成させます。戦後、土光はその開発を再建の一つの柱に据えました。技術への執念が凝縮した挿話です。

二つめは、ブラジル進出の冒険です。「狂気の沙汰」という反対を「すべて責任は私が負う」と押し切り、土光は現地に造船所を建設します。ブラジルの農産物に「土光大豆」という新種が生まれたという逸話まで残る、国際派経営者としての一面が描かれています。

三つめは、母・登美の壮絶な女学校創立記です。70歳を過ぎて戦時下に独力で土地を集め、寺子屋から始めた橘学苑。土光が生涯その理事長を務め、収入のほとんどを注ぎ込んだこの学校の物語は、彼の人格の源泉を教えてくれます。

これらのエピソードは、ぜひ本書で味わってみてください

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まとめ

土光敏夫は、3度の受験に失敗した田舎の腕白少年から身を起こし、赤字の石川島重工業と東芝を再建し、経団連会長として石油ショックに立ち向かい、85歳で行政改革に挑んだ経営者でした。

ムダを憎んで「日本一のケチ会社」をつくりながら、その本心は人材を信じ活かすことにありました。稼いだお金を母の女学校に注ぎ、自らはイワシの丸干しで一汁一菜を貫く。「めざしの土光さん」と親しまれたその私心のなさが、彼の言葉と行動に揺るがぬ説得力を与えたのです。

技術者として現場で叩き上げ、経営者として合理を貫き、最後は国家のために「暮らしは低く、思いは高く」を体現した——。土光自身の肉声で綴られた『私の履歴書 土光敏夫』は、筋の通った生き方とは何かを静かに問い直させてくれる一冊です。

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よくある質問(FAQ)

Q. 土光敏夫とはどんな人物ですか?

A. 石川島重工業・石川島播磨重工業と東芝を再建した技術者出身の経営者です。1896年に岡山県の農家に生まれ、蔵前(現・東京工業大学)を卒業してタービン設計に打ち込みました。経団連の第4代会長を務め、80代で行政改革の土光臨調を率い、質素な暮らしから「めざしの土光さん」と親しまれました。1988年に亡くなっています。

Q. 『私の履歴書 土光敏夫』はどんな本ですか?

A. 土光敏夫が日本経済新聞の連載「私の履歴書」をもとに、自らの生涯を綴った自叙伝です。岡山での生い立ちから、石川島や東芝の再建、経団連会長としての石油ショックとの闘い、そして行政改革への挑戦までが、飾らない筆致で描かれています。母・登美の女学校創立の記録も収められています。

Q. なぜ「めざしの土光さん」と呼ばれたのですか?

A. 財界のトップに立ちながら、夕食はイワシの丸干しや煮干しに一汁一菜という質素な暮らしを貫いたからです。稼いだお金の大半を母が創立した橘学苑に注ぎ込み、自分の生活費は月に10万円もかからなかったといいます。この清貧ぶりが、行政改革を訴える土光の姿と重なり、国民に広く親しまれました。

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参考文献

土光敏夫『私の履歴書 土光敏夫』(日本経済新聞社、1983年)