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昭和四十年の春、ソニーである一つの宣言が出されました。社員の「履歴書を焼いてしまう」というのです。焼くといっても、書類そのものを燃やすわけではありません。一度入社したら、その人がどこの大学を出たか、中学止まりか、そんな学歴を、人事記録から一切消してしまう——そういう意味でした。
この大胆な決断を下したのが、盛田昭夫です。焼け跡の小さな会社を「世界のソニー」へと育て上げた男が、なぜ社員の看板をあえて剝ぎ取ろうとしたのか。この記事は、盛田昭夫がその考えに至るまでの道のりを、自著『学歴無用論』をもとに、一人の経営者の物語として読み解きます。
盛田昭夫の経営思想を一言で表すなら「実力主義」です。人を、身につけた肩書きや看板ではなく、いま現に発揮している仕事の力で評価する——その一点を、生涯かけて日本に根づかせようとした経営者でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 盛田昭夫(もりた あきお) |
| 生年 | 1921年 |
| 出身 | 愛知県名古屋市 |
| 生家 | 350年以上続く造り酒屋・盛田家(清酒「ねのひ」)の長男。第15代当主 |
| 学歴 | 大阪帝国大学理学部物理学科 卒業 |
| 会社 | ソニー(前身・東京通信工業株式会社)共同創業者 |
| 創業 | 1946年、井深大とともに東京通信工業を設立 |
| 主な実績 | テープコーダー・トランジスタラジオの事業化、「SONY」ブランドの確立、世界市場への進出 |
| 著書 | 盛田昭夫『学歴無用論』(文藝春秋、1966年) |
焼け跡のデパートで、盛田昭夫は井深大と何を始めたのか
盛田昭夫と、後にソニーを共に率いる井深大が知り合ったのは、戦争のさなかでした。二人は、軍の科学技術研究会という場で出会います。熱源に命中する熱線爆弾の研究が進んでいたそのとき、ちょうど終戦を迎え、日夜心血を注いだ研究はすべて水泡に帰し、研究会のメンバーもちりぢりになってしまいました。
盛田昭夫は、いったん愛知県の郷里へ帰っていました。ところが昭和二十年十月、一本の新聞記事が二人の運命を結び直します。「一般家庭にある受信機でも、一寸手を加えれば短波放送を受信できる」という朝日新聞の小さな記事を通じて、盛田は、井深がすぐ東京に出て「東京通信研究所」を興したことを知ったのです。盛田はすぐさま駆けつけ、研究所に参加しました。
昭和二十年十月の東京は、無条件降伏から二カ月後、爆撃で見るかげもない廃墟でした。研究所があったのは、日本橋・白木屋デパートの三階の小部屋。このうすら寒い粗末な小部屋の中で、みな一様に、何かをつくり出したい意欲に燃えていました。
けれども、では何をつくるのか、となると、なにひとつはっきりしていませんでした。長い戦争で国民は消費財を喉から手が出るほど欲しがっていて、いろいろな案が飛び交います。そんななか、「われわれにできるもの、すなわちエレクトロニクスにあくまで専念するべきだ」という原則に徹するよう、井深が英断を下しました。この一線が、後のソニーのすべてを決めることになります。
満足な家もなく、白木屋の三階にふとんを持ち込んで泊まり込みで研究に没頭する日々でした。当時のすさまじい資材不足のなか、真空管一つ手に入れるのに、一日中焼け跡のヤミ市や進駐軍の払下げ品を捜し歩くありさまです。こうして苦労に苦労を重ね、やっとできあがった真空管電圧計が、本格的製品の記念すべき第一号となりました。
「われわれの造る物は、われわれが造り方を知っている最上の物でなければならない」「よその製品の模倣ではなく、可能な限り独自の新分野を開拓しよう」。この信念にのっとって仕事を始めて以来、はじめてその芽が出たのです。逓信省や鉄道省から大量の注文を受けるようになり、これを機会に会社組織にしようという話が持ち上がります。
そして昭和二十一年五月七日、ここに東京通信工業が設立されました。井深が専務、盛田が常務。従業員はわずか数十名。販売方針もなければ生産計画も行き当たりばったりで、全員が家族ぐるみで、ただ夢中で造り、夢中で売り歩いた——それが、後の世界企業の出発点でした。この井深大という稀有な相棒については、井深大の物語であらためて紹介しています。では、この小さな会社は、どうやって世界へ踏み出したのでしょうか。
テープコーダーは、なぜ「宴会のお伴」から生まれたのか
会社らしい形が整いはじめても、その日その日を生き抜くための苦しい生活は続きました。白木屋が営業を再開して立ち退きを迫られ、次は三鷹の小さな消防車置場を借りて、昼間は消防車を外へ押し出してやっと作業する、という具合です。当時専務だった井深と常務だった盛田は、ばらばらに散らばる社員が一カ所に集まって働ける工場が手に入ったら、どんなに嬉しいかと、よく語りあったといいます。
やがて盛田たちは、大メーカーと同じ土俵で無線技術を競っても勝ち目はない、と痛感します。生きる道はただ一つ、「どこでも製造していない、どこにも売っていない新製品を開拓する」という、無謀に近い方策でした。この、冒険に近い一つの大きな方針が、以後のソニーの信念として方向づけられていきます。
そこで目をつけたのが、録音機でした。旧知のアメリカ人が持っていたワイヤーレコーダー(針金に磁気録音するもの)に触れ、自分の声がすぐ録音されて聞こえる面白さに、盛田たちは魅了されます。ところが針金は金属ゆえに扱いが難しく、音質も編集性も悪い。「何とかして、テープにしたい」——そう考えたのが、苦闘の始まりでした。
最初の難関は、テープのベースそのものでした。国内ではプラスチックのベースがどうしてもできず、本州製紙の献身的な努力によって、クラフトと麻を混ぜた紙テープをようやくつくり上げます。次は磁気材料。酸化鉄を使うらしいとは想像できても、そのつくり方がわからない。苦心惨憺のあげく、「本日は晴天なり」という声が、雑音の中からかすかに聞きとれた時の喜びは忘れられない、と盛田は記しています。
こうして昭和二十四年、ようやく完成した録音機に「テープコーダー」という名をつけました。ところが、この一台は重さ35キログラム、値段は19万円までしか下げられません。これを回せば自分の声が記録されて聞ける、こんな面白いものはどこへ出しても売れるだろう——盛田はそう信じ、タイコモチのように宴会のお伴までして売り込みに持ち歩きました。
ところが、売れないのです。「面白いけれども、こんな高い機械は買えない」。そう言われれば当たり前でした。ここから盛田は、痛烈な教訓を得ます。新製品は、技術だけの独走では無意味に終わってしまう。 研究、開発に努力を注いで完成させると、つくった本人は「こんないいものを買わない奴はバカだ」と自信過剰になってしまう。当時の自分たちがまさにそうだった、と盛田は正直に書いています。
だからこそ盛田は、「最良のマーケティングは、マーケットをつくりだすことだ」という考えにたどり着きました。まったく新しい視聴覚教具として学校教育の場に売り込み、日本楽器の販売網を借りて全国へ広げていく。技術開発と同じだけの情熱を、市場をつくることに注ぐ——その姿勢が、次の大勝負を支えることになります。
トランジスタラジオという、「無謀」への賭け
昭和二十七年、アメリカでトランジスタの特許が公開されると、テープコーダーのマーケット開発のため渡米していた井深が、その発表に接して興味を持ち帰国します。多方面の技術力を発揮するにはトランジスタこそ最適だ——そう結論づけた盛田は、翌年みずから渡米し、特許を持つウェスタン・エレクトリック社と契約交渉を始めました。
ところが、いよいよ始めてみると問題が山積みでした。当時のトランジスタは補聴器などの低周波部門用ばかりで、ラジオに使える高周波トランジスタはまだ存在しません。研究グループが渡米して尋ねても、どこへ行っても「ラジオ用は生産ベースにはとてものらない」と否定的でした。生産の不良率は95パーセント以上。100個つくって5個しか使い物にならない。常識で考えれば、こんな割の悪い危険な計画を立てる企業家などいません。
それでも盛田たちは、退きませんでした。安価な電池で何カ月も使えるラジオができれば、電気の引かれていない中近東や東南アジアの広大な地域に、ニュースや音楽を届けられる。その大きな意義を信じ、「必ずやラジオをものにしてやるぞ」と決意を固めたのです。100個中5個しか使えなくても問題にせず、しゃにむにラジオに仕上げてしまえ——そんな商品化計画を立てました。
たしかに無謀でした。しかし盛田は、この歩どまりは必ず向上するという信念を持っていました。この信念が、ソニーを世界のトランジスタラジオメーカーにしたのです。 もしこのとき日和見主義をとっていたら、日本がトランジスタラジオ王国になることもなかったかもしれません。
世界初の座は惜しくも逃しました。昭和二十九年十二月にアメリカのリージェンシー社が最初のトランジスタラジオを発売し、ソニーは数カ月遅れて翌年の発売となったのです。けれどもリージェンシーのラジオは長続きせず、やがて姿を消しました。結果として、ソニーは世界最古の、いまも続くトランジスタラジオメーカーとなったのでした。
同じ時代に、日本の製造業の底力を世界へ示した経営者は、盛田だけではありません。町工場からエンジンを世界へ広げた本田宗一郎の物語も、あわせて読むと、この時代の日本のものづくりの気概が立体的に見えてきます。
「SONY」という四文字に、盛田昭夫が命をかけたわけ
トランジスタラジオという武器を手にした盛田は、海外へ打って出るにあたり、もう一つの根本問題と向き合います。ブランドと社名でした。
そもそも「東京通信工業」という社名は、アメリカで名刺を出しても誰一人正しく発音できません。井深は「アイビュカ」と呼ばれ、カメラのニコンは「ナイコン」と呼ばれてしまう。世界中で同じ発音で読まれ、耳に感じよく響く、短い名が要る。盛田はそう考えました。
決定の基準は二つ。字数はあくまで少ないこと、そして世界のどこでも同じ発音で読まれること。自社の録音テープにつけていた「ソニテープ」——音を意味するラテン語「ソヌス」から取った「ソニー」に、坊やという意味の「ソニー(Sonny)」の親しみを重ね合わせ、盛田たちは「SONY」という、世界のどの辞書にもない新しい言葉をつくり上げました。
社名が決まれば、次はマーク(社章)です。しかし盛田の考えは変わっていました。「文字というものは、会社が教えなくても、国家が金を出して学校で教えてくれる」。ならば妙な模様を使うより、「SONY」という四文字そのものを社章にして、それを徹底的に売り込むほうがいい。合理的にものを考えるこの姿勢は、後の経営のすべてに通じていきます。
そのブランドへの執念が、決定的に試される場面が訪れました。トランジスタラジオを持って渡米した盛田のもとへ、時計で名高いニューヨークの大手販売会社から、「10万台注文しよう」という引き合いが来たのです。10万台といえば、金額はソニーの資本金の数倍。目のまわるような大商談でした。
ところが相手は、条件として「自社のブランドをつけて売る」と言います。盛田は、断りました。「五十年かかって確立したこの有名ブランドを、なぜ捨てるのか」と迫る相手に、盛田はこう言い切ります。「五十年前には、貴社のブランドも、今のソニーと同様、誰一人知らなかったに違いない。わが社は将来のために、今、五十年の第一歩をふみ出すのだ。五十年後には、ソニーも貴社名同様、必ず有名にしてみせる」。
そして盛田は、10万台の注文を、自らの手で捨てました。相手の重役も、社内の人間でさえ、その態度をなかなか理解してくれません。しかし——目の前の大きな利益に屈していたら、今日の世界のSONYはなかったはずでした。この一件は、盛田が何を大切にする経営者だったかを、はっきりと映し出しています。
デパートに現れた「ソニー・チョコレート」に、盛田昭夫が激怒した理由
ブランドこそ販売の基本である——その信念を裏付ける事件が、後に起こります。デパートで、「SONY」の商標をつけたチョコレートが売られていると聞いて、盛田は文字どおり怒り心頭に発しました。
そのマークは、ソニーとまったく同じ書体で、しかも赤と黄のソニーカラーを用い、あろうことか「ソニー坊や」そっくりの「ゴルフ坊や」まで登場する——著名なデパートで、堂々と売られていたのです。ハナフジ製菓という菓子会社が「SONY」の商標登録を取り、社名までソニーフード株式会社と改め、全製品にそのマークをつけて売り出していました。
盛田は、ただちに戦いを始めます。特許庁に商標登録無効の審判を請求し、東京地裁に商号・商標使用禁止の仮処分を申請しました。多額の経費と労力が予想されても、迷いはありませんでした。
なぜそこまでこだわったのか。法廷で証人に立った人々の証言が、盛田の恐れていたことをそのまま裏付けています。「ソニーもついにこういうことを始めたか」「調子にのって手をひろげすぎて、内情が苦しくなってきたのではないか」——世間はそう受け取ったのです。偽物の横行を許すことは、長年かけて築いた信用を台無しにしてしまう。その予感が、現実だったのでした。
盛田にとって、社名や商標とは、その製品に責任を持ち保証するという、企業の生命ともいうべきものでした。「人の名前には、つねに信用がついてまわっている。商標も同じだ」。他人の商標にタダ乗りして、うまい汁を吸おうという行為は、断じて許されてはならない——盛田はそう考えていました。
昭和四十年十月二十日、特許庁はソニーフードの商標登録を無効とする審決をくだします。6年間にわたる努力が報われた瞬間でした。この審決は、他人の有名商標へのタダ乗りにストップをかける、新しい例をひらくものとして各紙に報道されます。盛田は、一杯のコーヒー——ならぬ一枚のチョコレートにまで、ブランドの尊厳を守り抜いたのです。
なぜ盛田昭夫は、テレビを「小さく」しようとしたのか
ブランドを守り抜く一方で、盛田は次々と「世界初」の商品づくりに挑みます。象徴が、手のひらに載るマイクロテレビでした。
当時、世界の流れはテレビの大型化に向かっていました。しかし盛田たちは、「これはおかしい」と考えます。画面をどんなに大きくしても映画のスクリーンには届かない。ならばテレビ本来の取り得は、手軽で、家庭的で、個人的なところにあるはずだ。一家の主人はスポーツを、主婦はドラマを、子供はマンガを見たがる。ならば一人一人がテレビを持てばいい——そんな逆張りの発想でした。
昭和三十四年、ソニーは世界で初めて8インチのトランジスタテレビの商品化に成功します。アメリカの市場関係者は大反対でしたが、実際には大好評を博し、アメリカのメーカーが真剣に小型化を考えはじめる端緒となりました。
盛田の真骨頂は、その次でした。8インチをすぐ真似てくるメーカーが現れたことから、5インチ・マイクロテレビの開発では秘密の保持に心を砕きます。機密がもれやすいブラウン管は自主製作に踏み切り、専門メーカーを避けて別の会社にガラス製造を依頼する。盛田自身が指揮をとって、緻密な計画を練りました。
こうして昭和三十七年に完成したマイクロテレビは、生産が追いつかないほどの売れ行きを示します。ニューヨーク五番街のショールームには、一日に6000〜7000人もの客が押しかけました。後に登場した本格的な家庭用モデルは、重さわずか15キロ、小売価格19万8000円という、当時の常識を破るものでした。
新製品の販売計画をめぐる会議は、夜を徹して何度も繰り返され、ときには同じ問題を最初からやり直すこともありました。しかもその会議には、セールス担当だけでなく技術者も加わり、全員が納得のゆくまで討議が続けられたといいます。世界初の商品を、細部の販売戦略まで詰め抜いてから世に出す——その執念が、ソニーらしさを形づくっていました。
なお『学歴無用論』には、ここで紹介しきれなかった、盛田がアメリカ市場で繰り広げた交渉術のエピソードが、まだいくつも描かれています。
なぜ盛田昭夫は、社員の「履歴書を焼く」と宣言したのか
ここまで見てきた盛田の歩みには、一貫した一つの姿勢がありました。人を、看板ではなく実力で見る——それが最も鮮烈な形で現れたのが、本書の表題ともなった「学歴無用論」でした。
小さなグループから出発したソニーでは、「何でもやれる人が、それをやる」という気持ちで仕事をしてきました。役員や部長は、電気屋あり、物理屋あり、大学出あり専門学校出あり、地球物理の専門家あり、芸術大学出の音楽家あり——実に多種多様な学歴の人々で構成され、いわゆる学閥は生まれませんでした。
ところが人数が増えるにつれ、盛田はある変化に愕然とします。社内で「大卒」「高卒」「中卒」という言葉がしばしば使われるようになっていたのです。係長に「君の部下は何人いるんだ」と聞くと、「大卒何名、高卒何名」という答えが返ってくる。社長以下全員が同じ紺の作業衣を着ているのに、直接の管理者には「何卒」というマークが見えるらしい。盛田は皮肉を言わずにいられませんでした。
盛田は、学校教育そのものを否定したわけではありません。良い学校でより深い専門知識を学ぶことは望ましい、と明言しています。彼が問題にしたのは、教育の「質」ではなく「場所」で人を評価するという日本の悪弊でした。わずか数年間の学校教育が、以後何十年もその人の看板として通用する——それは奇妙というほかない、と。
盛田自身が、この矛盾を体現していました。「私は学校では物理を修めたことになっている。しかし、いまやまったく物理屋としては通用しない」。もし物理屋として雇われたら、アメリカでは一日でクビになるだろう、と自嘲します。それでも、物理屋としてではなく、経営やその他の能力を見て採用してくれるなら、自分は充分働ける自信がある——学校で習ったことと実際の能力は、簡単には結びつかないのだ、と盛田は説きました。
そこで昭和四十年の春、盛田は「履歴書を焼く」という形で宣言します。書類そのものは人事部に保管するけれども、いったん入社したら、その人の学歴を人事カードその他の記録に一切記入しない。異動先の課長にまわる人事カードには、年齢や入社年月日はあっても、学歴はいっさい書いていない——そういう仕組みでした。
部長会での議論では、反対も出ました。「学歴がわからないと、採点に困る」「人を要求するときの表現に困る」。しかし盛田は、それこそが本質だと考えます。まっさきにハシゴをはずしてしまえば、はじめて人は、いかにして登るかを真剣に考える。 学歴という安易なよりどころを取り去ってこそ、管理者は部下の働きを自分の目で正しく評価する姿勢を、身をもって身につけるのだ、と。
盛田はこう言い切りました。「東大へ行く社会的必要は、毫もない」。どこの大学でもいい、本当に学びたいことを学び、その実力が評価される社会になれば、過度の試験地獄も解消するだろう。この願いこそが、盛田昭夫という経営者の根っこにありました。理念を軸に人と組織を動かした経営者としては、稲盛和夫の理念経営と読み比べても、深い示唆が得られます。
盛田昭夫のこだわりとは?
学歴で人を区切ることを嫌った盛田は、日々の仕事の場でも、ある習慣を大切にしていました。『学歴無用論』には、その人となりがにじむ流儀が描かれています。
一つは、部長以上の30名近くが、毎日一緒に昼食をとるという習慣です。この昼食会では、社長も副社長も常務も部長も、一切分け隔てなく勝手なことを言い合う。会社経営について、まるで全員が社長であるかのように意見をぶつけあうのが、いつしか社のならいとなっていました。自由にものが言える雰囲気こそが、会社が伸びる大きな要因だったと盛田は振り返ります。
もう一つは、「協調」ではなく「個性」を尊ぶという姿勢です。日本の多くの会社が「協調性」をうたうとき、それは往々にして個性の抹殺を意味する——盛田はそう見抜いていました。ソニーでは個性は一切殺さず、全員がそれぞれの信念と個性を完全にぶつけあう。その衝突の果てに、かえって高い次元のまとまりが生まれる、と信じていたのです。
人を看板で区切らず、遠慮なく本音をぶつけあう場を大切にする。この流儀そのものが、学歴で人を序列づけることを嫌った盛田らしい姿勢でした。こうした人となりは、彼が縁を結んだ土地にも刻まれています。
盛田昭夫ゆかりの地とは?
盛田昭夫の足跡は、いくつかの土地に刻まれています。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。
まず、生まれ育った愛知県名古屋市。350年以上続く造り酒屋・盛田家の長男として育ち、後にエレクトロニクスの世界へと飛び込んでいく、その出発点となった土地です。(地図で見る)
次に、東京・日本橋。戦後の焼け跡の中、白木屋デパートの三階の小部屋で東京通信研究所が産声をあげ、真空管電圧計という記念すべき第一号が生まれた場所です。ソニー創業の物語は、この街の廃墟から始まりました。(地図で見る)
そして、盛田がトランジスタラジオを抱えて売り込みに渡ったアメリカ・ニューヨーク。「SONY」ブランドを守るために10万台の注文を捨て、マイクロテレビのショールームに人だかりを生んだ、世界進出の主戦場でした。(地図で見る)
土地をたどると、名古屋の造り酒屋から、焼け跡の日本橋、そしてニューヨークの五番街へと駆け上がった、一人の挑戦者の軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。
盛田昭夫から学ぶ3つの教訓とは?
『学歴無用論』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。
一つめは、人は「看板」ではなく「実力」で見るということです。盛田は、社員の履歴書から学歴を消してまで、目の前の仕事の力で人を評価する習慣を根づかせようとしました。肩書きや出身校という安易なよりどころを取り去ってこそ、人を見る目は磨かれる。この発想は、いまの組織にもそのまま突き刺さります。
二つめは、「無謀」の先にしか、新しい市場はないということです。100個つくって5個しか使えないトランジスタでラジオをつくる——常識ではあり得ない賭けに、盛田は信念一つで挑みました。どこにも売っていない新製品を、自らの手でマーケットごとつくり出す。その茨の道こそが、無名の会社を世界のソニーへと押し上げたのです。
三つめは、目先の利益より、長い信用を守るということです。資本金の数倍にもなる10万台の注文を、ブランドを守るために捨てる。チョコレートの偽物に6年がかりで戦いを挑む。盛田にとって「SONY」の四文字は、その日の売上より重い、企業の生命そのものでした。信用を守り抜く覚悟が、結果として世界的ブランドを育てました。
これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません。『学歴無用論』には、ここでは紹介しきれなかった盛田昭夫の思索が、まだまだ詰まっています。
この記事で語りきれなかった『学歴無用論』の魅力
盛田昭夫の歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。
一つめは、日本とアメリカの「事業は人なり」の違いです。盛田はアメリカで自ら会社を経営した経験から、雇用の流動性や職務分掌のあり方が、日本といかに根本的に違うかを、身をもって論じています。年功序列制がなぜ生まれ、どこへ向かうべきかという考察は、いまなお示唆に富みます。
二つめは、「働かない重役追放論」です。盛田は、経営者や重役こそ厳しい評価の対象であるべきだと説き、株主総会や連結決算のあり方にまで踏み込みます。神様に近づいてしまう日本の重役と、緊張度の高いアメリカの重役——その対比は痛烈です。
三つめは、スペシャリストをめぐる思想です。「スペシャリストになりたまえ」と若者に呼びかける盛田は、企業がその道の専門家をどう遇するかに、日本の未来がかかっていると考えていました。学歴無用論と表裏一体をなす、もう一つの柱です。
これらのテーマは、ぜひ本書で味わってみてください。
まとめ
盛田昭夫は、焼け跡のデパートの一室から出発し、テープコーダーとトランジスタラジオを武器に、無名の会社を「世界のソニー」へと育て上げた経営者でした。
その歩みを一本に貫いていたのが、人を看板ではなく実力で見るという信念です。社員の履歴書から学歴を消し、資本金の数倍の注文よりブランドを選び、偽物には6年がかりで戦いを挑む。そのすべてが、目先の安易さを退け、本当に価値あるものを見極めようとする姿勢から生まれていました。
学歴という安易なハシゴを外してしまえば、人ははじめて、いかに登るかを本気で考える——盛田昭夫が投げかけたこの問いは、半世紀を経たいまも、私たちの働き方の核心を突いてきます。彼の肉声で綴られた『学歴無用論』は、肩書きの奥にある「本当の実力」とは何かを問い直させてくれる一冊です。
よくある質問(FAQ)
Q. 盛田昭夫とはどんな人物ですか?
A. ソニー(前身・東京通信工業)を井深大とともに創業し、世界的ブランドに育てた経営者です。愛知県名古屋市の造り酒屋に生まれ、大阪帝国大学で物理を学びました。テープコーダーやトランジスタラジオを事業化し、「SONY」ブランドと世界市場を切り拓きました。1921年生まれ、1999年に亡くなっています。
Q. 『学歴無用論』はどんな本ですか?
A. 盛田昭夫が1966年に著した経営書です。日本企業に根強い学歴偏重や年功序列を批判し、人を出身校ではなく実力で評価すべきだと説きました。ソニー創業から世界進出までの実体験を交えながら論じられており、当時ベストセラーとなった一冊です。
Q. 「履歴書を焼く」とは何を意味するのですか?
A. 盛田が昭和四十年に打ち出した方針で、入社後は社員の学歴を人事記録に一切残さないというものです。書類を燃やすわけではなく、どの学校を出たかという先入観を取り払い、仕事の実力だけで人を評価する習慣を根づかせるための宣言でした。
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参考文献
盛田昭夫『学歴無用論』(文藝春秋、1966年)
