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昭和56年2月、徳島県上勝町の農家の軒下で、温度計はマイナス16度を指していました。気象観測史上2番目といわれる異常寒波が、四国で一番小さなこの町を襲ったのです。
町の主要産業だったミカンの木は、樹液が動き始めたところを凍りつかされ、枯死しました。被害面積は全栽培面積の82パーセント、その9割近くが激甚被害。被害総額は25億円を超え、のちに「上勝の226事件」と呼ばれることになります。
このとき町の農協にいた営農指導員は、ただ一人。二十歳で赴任してきた横石知二さんでした。
『そうだ、葉っぱを売ろう!—過疎の町、どん底からの再生』は、そこから始まる再生の物語です。山の葉っぱを料理の飾りとして商品化し、おばあちゃんたちが稼ぐ町へと変えていった二十数年が、本人の言葉でつづられています。
横石知二さんの発想を一言で表すなら、「地域にあるものはすべて価値のある資源だ」という確信です。 ないものを嘆かず、足元を見直したことが、すべての始まりでした。
目次 表示
- 横石知二さんはどのような人物か(基本プロフィール)
- なぜ二十歳の青年は、望まぬ町へ来ることになったのか
- 「帰れ!」と怒鳴られた青年は、何を思ったのか
- ミカン全滅の逆境で、なぜ「熱い力」が湧いたのか
- 年間4500時間——その働き方はどんなものだったか
- 一枚の葉っぱは、どこで「商品」に変わったのか
- 1パック5円——最初の出荷はなぜ全敗したのか
- 給料を1円も家に入れなかった男は、何に使っていたのか
- おばあちゃんがパソコンを使う町は、どう生まれたか
- おばあちゃんを料亭へ連れて行ったら、何が変わったのか
- 葉っぱは、町の何を変えたのか
- 成功のヒミツはどこにあったのか
- 横石知二さんのこだわりとは?
- 横石知二さんゆかりの地とは?
- 横石知二さんから学ぶ3つの教訓とは?
- この記事で語りきれなかった『そうだ、葉っぱを売ろう!』の魅力
- まとめ
- よくある質問(FAQ)
- 関連記事
横石知二さんはどのような人物か(基本プロフィール)
| 氏名 | 横石知二(よこいし ともじ) |
| 生年 | 1958年 |
| 出身地 | 徳島県徳島市 |
| 学歴 | 徳島県立農業高等学校(現・城西高校)→ 徳島県農業大学校園芸学科(1979年卒) |
| 経歴 | 1979年 上勝町農協に営農指導員として入社 |
| 主な実績 | 1986年 つまもの商品「彩」を開発・販売/1991年 特産品開発室長/1996年 上勝町役場産業課へ転籍/1999年 第三セクター「株式会社いろどり」取締役/2005年 同社代表取締役副社長 |
| 著書 | 『そうだ、葉っぱを売ろう!—過疎の町、どん底からの再生』(ソフトバンククリエイティブ、2007年) |
| 受賞・任命 | 2002年 アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー日本大会特別賞/2003年 日本ソフト化大賞/2007年「地域活性化伝道師」「地域中小企業サポーター」に |
なぜ二十歳の青年は、望まぬ町へ来ることになったのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』は、望んで来たわけではない町から始まります。
横石知二さんの出発点は、実は自分の意志ではありませんでした。
父が敷いたレールがありました。県庁に入るのは非常に狭き門で、一般職では4年制大学を出ても難しい。しかし農業改良普及員という専門職なら、県立の農業高校から県立農業大学校を出ていれば採用の確率がかなり高い——父はそのルートを勧めたのです。
本人にも異存はありませんでした。教える側に回る仕事は自分に向いているという気がしたからです。中学卒業後は徳島県立農業高等学校へ進み、そのまま県立農業大学校で農業を学びました。
ところが、そう思い通りにいくほど世の中は甘くありませんでした。普及員の資格試験にはパスしたものの、卒業した年だけ、たまたま県庁の採用がゼロだったのです。 翌年には5人も採用があったにもかかわらず。
そんなとき、上勝町農協から営農指導員として来ないかという、本人を名指しした就職の話が舞い込みました。父も「まあ2、3年、山へ勉強に行くか」という感じで了承します。数年後には本線に戻して、次こそ県庁の公務員に——そのつもりでした。
当時の上勝町は、人口の減り方が最も激しい時期にありました。昭和25年に6356人だった人口が、半分の3000人以下に減っていたのです。海外から安い木材が入るようになって林業は大打撃を受け、主力のミカンも産地間競争で伸び悩んでいました。
棚田の米と、伸び悩むミカン。 町の農業の先行きは、まったく明るくありませんでした。
「帰れ!」と怒鳴られた青年は、何を思ったのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』が描く最初の壁が、この拒絶でした。
赴任した若者を待っていたのは、歓迎ではありませんでした。
町の改革を訴えても猛烈な反発を受け、「帰れ!」と怒鳴られます。若かったこともあって、とても傷つきました。腹が立って、いっそ農協を辞めようかとも考えます。父からも「そろそろ上勝の仕事を辞めて戻ってこい」と言われていました。
しかし、そのまま何もせずに町を去るのはくやしく、自分の気が済みませんでした。
「くっそ〜、これはやっぱり何かやらなあかん」
何か一つでも改革を果たして、町の人々に認めてもらいたい。 その思いだけが、彼を踏みとどまらせました。
営農指導員として2年が経とうとする頃には、上勝町の地理や地形、すべての集落の農業の内容まで頭に入っていました。最も標高が低い集落から、標高600メートル以上の一番高い場所に家がある「雲の上の人」まで、名前も顔も覚えていたのです。
そして、その自信を持ち始めた年の2月に、異常寒波が来ました。
ミカン全滅の逆境で、なぜ「熱い力」が湧いたのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』の転回点が、この寒害です。
昭和56年2月25日から27日にかけて、局地的な大寒波が上勝の町を襲いました。
最低気温マイナス12度、農家の軒下ではマイナス16度を記録します。2月下旬は普通なら春の足音が近づく頃で、冬の間眠っていたミカンの木も、少しずつ樹液が動き始める時期でした。樹液が動き出す前なら耐えられたはずが、動き始めたばかりの木は一気に凍りつき、枯死してしまったのです。
町を根底から揺るがす被害でした。それでも横石知二さんは、こう振り返っています。ミカン全滅というものすごい逆境に直面したとき、内面から燃えたぎるような熱い力がグワッと湧いて出てきた、と。
農協にいる営農指導員は、自分ひとりだけ。逃げ場はありませんでした。
「なんとかせないかん、すぐに農家の現金収入になるものを作っていかんかん」
迅速な現金収入を第一に考え、大急ぎで農業振興計画づくりに取り組みます。酢ミカン類であるユコウやスダチ、ユズは被害が少なかったため、これらを特産にする方針は農協でまとまりました。しかし収穫できて収入が安定するまでには相当な時間がかかります。
そこで彼が目をつけたのが、農家が自家用に作っていた蔬菜類でした。山間部の上勝には、肉や魚を車で売りに来る行商人がいます。その逆をやろうと考えたのです。
「何か市場に出荷できる物はありませんか?」
農家を一軒一軒回って売りに出せる野菜をかき集め、徳島市中央卸売市場まで車で運びました。毎日通って早朝の競りに立ち会ううち、徳島大同青果の産地部長だった立石一さんが声をかけてくれます。上勝が寒害で大変な状況にあることを話すと、立石さんは親身になって相談に乗ってくれました。
現場に立ち続けたことで、味方が現れたのです。地域の一次産業を立て直そうと現場に飛び込んだ点では、宮治勇輔さんの取り組みとも重なります。
年間4500時間——その働き方はどんなものだったか
寒害からの復興期、昭和56年から数年間が、横石知二さんの人生で最も猛烈に働いた時期でした。
恐らく年間4000時間、多いときで4500時間は働いていたと本人が書いています。1年365日、休みなしで毎日10時間働いても3650時間ですから、毎日12時間以上という計算になります。実際、休みは1年に1回あるかないか。正月もお盆も働きました。
夕方に農協の仕事を終えてから山の農家を上へ下へと一軒ずつ回り、野菜を集めて徳島市内の市場まで車で運ぶ。翌朝5時、6時に競りへ立ち会い、また車を飛ばしてくねくねと坂道を上って農協へ出勤する。そして終業後はまた農家を回る——。
22、23歳の若さでがむしゃらにやっていたこの頃は、家に帰らず市場に停めた車の中で仮眠を取ることもたびたびありました。
ミカンの後作に切り干しイモを作ることが決まったときは、2トンのダンプを運転して茨城県まで種イモを取りに行っています。「種イモ取りに、いまから行ってきます」と農協を飛び出す行動の早さ。四国と本州がまだ橋でつながっていない時代で、フェリーは1日1往復のみでした。
帰り道、出発時刻に間に合わせようと飛ばしている途中で、ダンプのラジエーターのホースが切れ、車の前から白煙が噴き出したこともありました。
後年、この無理がたたって痛風になり、左半身が全部痛くなって歩けなくなります。生まれて初めて車椅子に乗り、ようようの思いで家に帰りました。それでも仕事は休まず、痛み止めの注射を打って歩けるようになると、すぐまた仕事にかかったといいます。
一枚の葉っぱは、どこで「商品」に変わったのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』の題名そのものが、この瞬間から生まれています。
転機は、意外な場所で訪れました。
28歳のとき、大阪の『がんこ寿司』でのことです。それまで彼は、和食の刺身についてくる大葉も、赤飯についてくる南天の葉も、あるのが当たり前で気に留めたことがありませんでした。
そこで、料理に添えられた葉っぱを見て大喜びし、持ち帰ろうとする女の子に出会います。その瞬間、料理についてくる葉っぱのすごい価値に気がついて衝撃を受けました。「つまもの」という言葉を知ったのも、そのときが初めてでした。
「そうだ、葉っぱを売ろう」
葉っぱなら軽いから、おばあちゃんでも扱いやすい。都会にはなくても、上勝の山にはいくらでもある。ひらめいたときには「これはいける、成功する」と確信しました。
のちに『がんこ寿司』創業者の小嶋淳司会長は、徳島の講演会でこう語っています。
「がんこグループの全店舗には、年間延べ800万人のお客様が訪れる。そのお客様みんなが、料理についてくる葉っぱ、つまものを目にされている。しかし、それを見て事業にしようと思い立ったのは、横石さんだけだ」
同じ光景を800万人が見ていて、動いたのは一人だけでした。もっとも、そう思い通りには進みませんでした。
1パック5円——最初の出荷はなぜ全敗したのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』は、成功譚だけでなくこの全敗も正直に記しています。
上司の松下高雄さんが「彩」と名付け、商品のシールや化粧箱も作って、昭和62年2月ごろから正式に販売が始まりました。
当初、横石知二さんはつまものの葉や花は自然のままがいいと考えていました。そこで山から採ってきた菊の花をそのまま見栄えよくパックし、大阪の市場へ出荷します。売れる見込みがあったわけではありませんが、とにかく何でもやってみようと、自然に生えていた山のモミジの葉も出してみました。
結果は惨敗でした。1パック5円、10円の値段しかつかず、大赤字。「彩」はまったく売れませんでした。
それでも、だからダメだとか、やめてしまおうという考えは一切浮かばなかったといいます。
「なんで売れないのかな、どうやったら売れるようになるかな」
頭にあったのは、『がんこ寿司』で見た女の子の姿でした。赤いモミジの葉を取り上げ、店のライトにかざしてうっとり眺めていた——アイロンをきちんとかけたピンクのハンカチに包んでまで持ち帰りたいほど、その子には価値があった。その様子が、はっきり記憶に残っていたのです。
暗中模索が続くなか、たまたま「彩」のパックを目にした料理人が、ひと目見て言いました。
「わしはこれは使わん」
バッサリとひと言で切り捨てられ、はっとします。そのとき初めて、つまものの現場を知らずに売ろうとしていた自分に気づいたのです。
敗因は明確でした。刺身のつまに付く食用菊でもないのに、山から採った野生の菊が売れるはずはない。そして何より、葉や花を大きさをごちゃごちゃに、大も小も一緒くたにしてパックに詰めていたことでした。
給料を1円も家に入れなかった男は、何に使っていたのか
つまものを商品にするには、料理の世界を知らなければなりません。
しかし当時20代の彼に、高級料亭に行けるはずもありませんでした。それでも横石知二さんは、自腹で料亭に通い続けます。 月18万〜19万円ほどの給料を、1円も家に入れずに。
「彩」の営業では全国各地を飛び回り、夜は飲食店街でパンフレットを配って売り込み、朝は市場へあいさつ回りに行く。農協終業後に農家を回って野菜を集め、市場へ運んで翌朝の競りに立ち合ってから出勤する——こうした働きは、ほとんど人目に触れませんでした。
一方で、農家からの要望には100パーセント応えました。寒害の後作の農業計画を立て、収穫が上がれば全国へ売り込みに走る。売り上げを伸ばすことで信頼を得て、そのうち売り上げが伸びることは当たり前になっていきました。
しかし、なぜ目標を達成できるのか、詳しい理由は誰も知らなかったと本人は書いています。
その事実が明るみに出たのは、彼が辞表を出したときでした。給料を家に入れていなかったこと、その額が18万〜19万円だったことが知れわたり、町の人々は驚きます。
翌朝、彩部会の部会長だった下坂美喜江さんが農協にやってきました。農協の選果場の横にある食堂で差し出されたのは、「横石様」と書かれた封筒。中には厚みのある紙の束が入っており、最初のページの右端には「嘆願書」と書かれていました。
「横石さん、辞表を出したんやってな。ほれ聞いて、びっくりした」
「これまで私ら、なんも知らなんだんよ」
見えないところで積み重ねた働きが、ようやく人の目に触れた瞬間でした。長く現場で信頼を積み上げた点では、荒くれ漁師をまとめた坪内知佳さんの歩みにも通じます。
ではなぜ、給料を入れずに生活が成り立ったのか。本書はそこも率直に書いています。
横石知二さんは昭和58年、24歳で結婚し、年子で3人の子を授かりました。妻の和子さんは結婚後も調理関係の仕事で病院や学校に勤め、両親とも同居した三世代の暮らし。生活費はすべて両親に頼っていたから、やっていけたのです。このことは今も深く感謝していると記しています。
そして何より、結婚当初から1円も給料を入れない夫を、妻はひと言も非難しませんでした。 それどころか、支えたのです。
「今回、仕事でようけ使たけん、もうカネがない」と言えば、自分の財布から1万円札を2枚抜いて渡してくれました。
「男の人は、いつもほれぐらい持っとらな、あかんよお」
自分の給料をおろして財布に3万円入れてくれたこともあります。
「お父さんが使た分は、あとになって返ってくるけん」
楽観的なのか、先見の明があったのか——本人はそう書いています。
皮肉なのは、妻の実家が上勝町でスダチを作る働き者の農家で、彼女は幼い頃から祖母に結婚相手の選び方を厳しく教えられて育ったことでした。「男の人は顔でない。真面目な人と結婚せなあかん」「とにかく真面目に働く人、ほれが一番じゃ」——そして、こう言われていたのです。
「給料を1円も家に入れんような人とは、結婚したらあかん」
「このおばあさんに、私は合わせる顔がない」と、横石知二さんは書いています。
おばあちゃんがパソコンを使う町は、どう生まれたか
「彩」が市場で値をつけ始めても、道は平坦ではありませんでした。
農家の人は厳しい自然を相手にしているだけに、新しいことを始めるには石橋を叩いて渡るように慎重です。さらに、山に自然に生えている葉っぱを売るという行為を、みじめなことのように受け取る人も少なくありませんでした。
「そのへんの葉っぱや草を売ってまで、お金を儲けたいんか」
そういう目で近所から見られるのは、田舎では逃げ出したくなるほどつらいことです。しかし、きちんと栽培して手入れをし、レベルが上がった「彩」は、もはや情けない商品ではなくなりました。料理に添えるものだから消毒も農薬も使えず、ビニールハウスには何重もの虫除けネットを張り、その中で捕虫網を年中振って栽培する——手間は相当なものになったのです。
パックに値段がつき始めると、葉っぱが売れることが口コミで広まり、様子をうかがっていた人たちも関心を持ち始めました。
1999年、第三セクター「株式会社いろどり」の責任者に抜擢された彼は、すぐ新たな仕組みづくりに取りかかります。コンビニエンスストアを参考にPOS(販売時点管理)システムを導入しました。葉っぱは必要とされない人のところに持って行くとごみになるため、需要と供給のバランスと納期管理が何より重要だったからです。
商品にバーコードを付けて在庫数や出荷数を管理し、農家にもパソコンを設置して会社とイントラネットでつなぎ、販売情報を農家側にも伝えて出荷調整を自らやってもらう。さらに、画面から農家それぞれの売上順位と金額が毎日分かるようにしました。順位が分かることで競争心が芽生え、やる気につながると考えたのです。
導入には多額の費用がかかり、町議会は当初これを通しませんでした。「わしらが使えんもんが、親の、じいさんばあさんに使えるわけがない」「パソコンが使われとる村を見てこいよ」と議員に言われます。
そこで、希望者全部の家にパソコンを導入して話題になったある村へ視察に行きました。ところが、行ってみるとあんまり使われていない。
「ありゃ、これはしまった。でも、うその報告はできんしなあ、困ったなあ」
仕方なく、見てきたとおりに報告しました。「ほれ見てみい」——やっぱりな、と話は打ち切られ、ますます導入は難しくなります。それでもこの視察で、ひとつ決定的なことを掴みました。目的が明確でない人にパソコンを使ってもらうことは、大切ではない。 用がない人に渡しても、パソコンはただの箱でしかないのです。
頭をひねっていると、耳寄りな情報が入ります。当時の通産省が「地域総合情報化支援システム整備事業」という実証実験事業を公募するというのです。防災無線ファクスで世話になった宝城通信に協力してもらい、とてつもなく分厚い資料を作って平成10年7月に応募。10月には当選が決まり、1億600万円が事業費として割り当てられました。全国15事業が選ばれましたが、いまでも有効に稼働しているのは上勝のシステムぐらいだといいます。
平成11年4月2日、「株式会社いろどり」が正式に設立されます。社長には山田良男町長が就任し、横石知二さんは取締役として実質的な責任者になりました。当初の社員はほかにもう一人だけ。事務所は役場の地下、食堂の横にある6畳ほどの小さな部屋でした。
パソコンはまず40台、売上金額が多かった農家から順に設置していきます。高齢者が初めて触っても使えるよう、宝城通信に頼んで改良を重ねました。電源ボタンを押せば自動的に情報ページが立ち上がる。文字は大きく、カーソルを乗せた部分の色が変わる。農家は情報を受信するだけで発信の必要がないためキーボードは必要最小限に減らし、マウスをやめて大きなトラックボールを特注しました。
なお、この会社を個人的な事業にしなかった理由も本書で語られています。そのほうが自分の収入は増えただろうに、と聞かれても、まったく考えなかった。農家一人ひとりが事業家になるほうが、いい結果が出る——その狙いは当たりました。
おばあちゃんを料亭へ連れて行ったら、何が変わったのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』で最も鮮やかな場面が、この料亭研修です。
「彩」を伸ばすうえで決定的だったのは、システムでも営業でもありませんでした。
平成元年12月、横石知二さんは農家に呼びかけ、バスを仕立てて大阪の一流料亭へみんなを連れて行きます。参加希望者を募るというより、「行くんじゃ」と、なかば強引にバスに乗せました。
集まってみると、もんぺをはいていたり髪はボサボサだったりと、見事なまでに山のばあさんという格好です。店に入れてくれるかと心配になりました。案の定、料亭の仲居さんは「こんな方たちは、初めて見ました!」と驚き、頭のてっぺんから足の先までじろじろ見てわなわな震えています。
額から噴き出る汗をぬぐいながら、それでも料理人に頼んで、おばあちゃんたちへ料理とつまものについて解説してもらいました。
「こんなふうに葉っぱは使っているんですよ」
「この料理には、こんな野草や山菜を使っています」
これが、ものすごく良かったと本人は書いています。自分たちが出荷した商品が、高級料亭の懐石料理に使われている。おばあちゃんたちは初めて得心しました。
「あ、ほんまじゃあ」
普段から現場で説明していることを、一流の料理人から直接その場で聞くと、効果は何倍も高かったのです。行って初めて、毎日何げなく踏んでいるノビルが高級料理になって出てくることが分かりました。それからは、道端のノビルも踏めなくなったといいます。
以来、年に1、2回は料亭の視察研修へ行くようになりました。『吉兆』『はり重』『美濃吉』『青柳』——普通の人がまず行かない店ばかりです。祇園の『白梅』では舞妓を呼んでもらい、みんなで記念撮影もしました。
上勝に帰ると、話はすぐ口コミで広まります。「舞妓さんと一緒に写真撮ったんじょ、ほれ」——大評判でした。商品の価値を、言葉ではなく体験で腹落ちさせたのです。
葉っぱは、町の何を変えたのか
事業が忙しくなるにつれ、上勝町の様子は目に見えて変わっていきました。
年金暮らしだったお年寄りは、「彩」で収入ができて所得税を納めるようになります。毎日のように通っていた診療所やデイサービスも、忙しくなってそれどころではなくなりました。
雨が降ると役場や農協に集まり、朝から酒を呑んで愚痴をこぼしていた人たちは、いつの間にかまったく来なくなります。朝から嫁や近所の悪口をおしゃべりしていた人たちも、そんなひまはなくなりました。それどころか、嫁や近所の人たちは一緒に「彩」をするパートナーになっていったのです。
町には「孫車」が走るようになりました。おばあちゃんの手伝いに来た孫が、「彩」の商品を車の後ろに積んで出荷を手伝う。女の子はお小遣いをもらって喜んで帰り、おばあちゃんも孫が手伝ってくれてニコニコです。
帰省した息子さんに手を合わされたこともありました。
「親がこの年でも元気で、老人ホームや病院に行かずに働けて、ほんまに感謝しています」
寒害からの復興で、上勝の農業の売り上げは伸び続けました。昭和58年に2億1500万円、翌年には3億3400万円と、1年に1億円前後のペースです。そして平成8年には15億円(第三セクター分を含めると17億円)に達するまで、15年間ずっと伸び続けました。
平成2年2月には、上勝町農協が「朝日農業賞」を受賞します。全国から選ばれた5つの農業集団に贈られる、農業関係者にとって最高の栄誉の一つでした。受賞決定のニュースは、町内あちこちの防災無線用スピーカーから厳かに放送されます。
「受賞が決定しました!」
それまで賞というものをもらったことがなかった町の人々にとって、それは新鮮で感動的な出来事でした。住民はみんな、自分たちの住んでいる町に誇りを感じ始めたのです。この受賞で上勝町産の品は信頼度を増し、市場での値段が上がったことも農家に大きな自信を植え付けました。
70歳になっても80歳になっても自分の出番があり、仕事をきちんと評価される。だから生き生きした、自然な笑顔が生まれてくる——おばあちゃんたちの笑顔が、自分にとっては最高の生きがいだと横石知二さんは書いています。
成功のヒミツはどこにあったのか
本書『そうだ、葉っぱを売ろう!』の終盤で、本人が方法論として語っている部分です。
本書で横石知二さんが真っ先に挙げているのが、現場主義です。
初めて上勝町にやって来て営農指導を始めたときは、すぐ農家を一軒一軒あいさつに回り、現場を知るところから始めました。葉っぱを売ろうと思いついた頃は先行きへの不安がありましたが、大阪駅や東京駅という現場に立ってみて「上勝とはこんなにも環境が違う、これなら葉っぱは売れる」と確信が生まれ、迷いが消し飛んだといいます。
予想に反してまったく売れなかったときは、つまものの現場を知るために料亭へ何度も通いました。その甲斐あって板場にまで入れてもらえるようになり、日本料理の伝統を教わることができたのです。
このとき、板場の厳しい下積み修業を目の当たりにして、これからの時代は修業の世界が続かない、料理人が自ら山へ葉っぱを採りに行くことは減るだろうという予感を持ちました。その読みは当たったと本人は振り返っています。
株式会社になって出荷を調整するようになった今では、現場体験を積み重ねてきた自分のほうが、市場の競り人の読みよりも当たるといいます。いつも現場へ自分が飛び込み、肌で感じて体験してきたから、ほかの人と意見が違っても「絶対こうだ」と考えがぶれることはありません。
「現場の人を、一番大事にせなあかん」——これは、公務員だった父親から懇々と教えられた言葉でした。県庁へ進むレールを敷いた父の教えが、まったく違う場所で生きたのです。
横石知二さんのこだわりとは?
横石知二さんのこだわりは、道具ではなく「足を運ぶこと」に表れています。
つまものの勉強のために、自腹で料亭へ通い続けました。当時20代の給料では負担が重く、月18万〜19万円の給料を家に1円も入れないという極端な形になっています。現場を自分の目で見なければ商品は分からない、という一点を譲らなかったのです。
市場通いも同じでした。農協の終業後に農家を回って野菜を集め、徳島市内の市場へ運び、翌朝の競りに立ち会ってから出勤する。この往復を、休みが年に1回あるかないかという頻度で続けました。
食生活はめちゃくちゃで、痛風になって車椅子に乗るまで両親にも妻にも知られていませんでした。それでも仕事を休まなかったところに、この人の性分が出ています。
横石知二さんゆかりの地とは?
本書からたどれる、横石知二さんの足跡が残る土地を紹介します。
- 徳島県勝浦郡上勝町(事業の舞台)——四国で一番小さな町。人口2000人余りのこの町で「彩」事業が生まれ、年間約4000人が視察に訪れるようになりました。地図で見る
- 徳島県徳島市(出身地・市場のある街)——生まれ育った街であり、中央卸売市場へ毎日野菜を運んだ場所でもあります。地図で見る
横石知二さんから学ぶ3つの教訓とは?
一、「ない」ではなく「ある」から考える
過疎、高齢化、ミカン全滅。ないものを数えればきりがない町でした。しかし彼は、山にいくらでもある葉っぱと、軽いものなら扱えるおばあちゃんという「ある」に目を向けました。地域にあるものはすべて価値のある資源だ、という確信が出発点です。
二、同じものを見ても、動く人だけが事業にできる
年間800万人が同じ葉っぱを目にしていて、事業にしようと思い立ったのは一人だけでした。ひらめきの価値は、見た瞬間ではなく、その後に足を運び続けたかどうかで決まります。
三、成果を独り占めしない
新会社を個人の事業にすれば収入は増えたはずですが、彼は選びませんでした。農家一人ひとりが事業主になる形にしたからこそ、やる気が続いたのです。順位を可視化して競争心を引き出す仕組みも、同じ発想の延長にありました。
この記事で語りきれなかった『そうだ、葉っぱを売ろう!』の魅力
本書には、ここで紹介しきれなかった話がまだたくさん詰まっています。
売り上げが急落した「ある出来事」
「彩」の売り上げは15年間ずっと伸び続け、驚異的といわれました。しかし、ある出来事によって一気に急落します。第5章で語られるその顛末は、順風だけではなかった事業の実像を伝えています。
独自のビジネス実践法
7章と8章では、上勝町で学んだことから掴み取った実践法と、これからの社会への提言が語られます。「みんなが働ける社会をつくらなあかん」という主張は、高齢者が働き、収入を得て税金を納め、元気になって医療費もあまり使わずに済む——という具体的な構想に裏打ちされています。
約320種類の商品ラインナップ
南天、ウラジロ、青モミジ、ハランといった通年商品から、梅、桃、桜、アジサイ、花椿などの季節の花物、フキノトウ、タラ芽、ワラビなどの山菜まで。どうやってこれだけの品目を揃え、季節に先駆けて出荷できるようにしたのか、その工夫が描かれています。
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まとめ
人口2000人余りの過疎の町で、ミカンが全滅するという絶望から始まった物語でした。山の葉っぱを商品に変え、おばあちゃんたちが事業主として稼ぐ町へ——年間売上高は約2億6000万円に達し、上勝町を代表する産業へと育っています。
足元にあるものを資源と見なし、動き続けたこと。 横石知二さんがやったのは、突き詰めればそれだけでした。
地域の課題に向き合う人にも、何もないと感じている人にも、この一冊は具体的な手がかりをくれます。
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よくある質問(FAQ)
Q. 横石知二さんとはどんな人物ですか?
1958年徳島市生まれ。1979年に上勝町農協へ営農指導員として入り、1986年につまもの商品「彩」を開発しました。1999年に第三セクター「株式会社いろどり」の取締役、2005年に代表取締役副社長へ就任し、過疎の町を再生させた人物として知られています。
Q. 「彩」事業とはどんなビジネスですか?
日本料理を彩る季節の葉や花、山菜などを、季節に先駆けて青果市場に出荷できるよう農家が栽培・販売する農業ビジネスです。商品は約320種類にのぼり、1パック十数枚入りで250〜300円ほど。年間売上高は約2億6000万円に達しています。
Q. 葉っぱビジネスはどうやって思いついたのですか?
28歳のとき、大阪の『がんこ寿司』で、料理に添えられた葉っぱを見て大喜びし持ち帰ろうとする女の子に出会ったことがきっかけでした。葉っぱなら軽くておばあちゃんでも扱え、上勝の山にはいくらでもあると気づいたのです。
関連記事
→ 赤字ローカル線を地域の資源に変えた経営者
→ 一次産業の現場を束ねた経営者
→ 農業を事業として組み立て直した起業家
→ 地方の産業を観光資源にまで育てた経営者
→ 地域の食材で事業を興した起業家
→ 逆風のなかで会社を作り替えた経営者
参考文献:横石知二『そうだ、葉っぱを売ろう! 過疎の町、どん底からの再生』(ソフトバンククリエイティブ、2007年)
