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昭和二十年の夏、日本は焼け跡になりました。出光という石油の会社も、大陸や南方に広げた事業をすべて失い、内地の石油業は統制会社に取り上げられ、残ったのは800人の店員だけという状態に追い込まれます。
普通の経営者なら、まず人を減らすはずでした。ところが、この会社の主人は社員の前でこう言い切ったのです。「一人も辞めさせない」。事業も資産も消えた会社が、なぜ人だけは手放さなかったのか。
そう宣言したのが、出光興産の創業者、出光佐三でした。この記事は、佐三が七十年にわたる経営を自らの言葉で語った著書『人間尊重七十年』をもとに、金よりも人を主役に据えつづけた、その一貫した経営を読み解きます。
出光佐三の経営思想を一言で表すなら「人間尊重」です。資本にも法律にも屈しない、人こそがすべての中心であるという確信を、事業を通して七十年間ためしつづけた経営者でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 出光佐三(いでみつ さぞう) |
| 生年 | 1885年(明治18年) |
| 出身 | 福岡県宗像郡赤間町(現・宗像市赤間) |
| 学歴 | 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業(1909年) |
| 会社 | 出光興産(創業者・会長) |
| 創業 | 1911年(明治44年)6月20日、門司にて出光商会を開業 |
| 主な事業 | 石油の販売・精製。徳山製油所などを擁する石油元売会社に発展 |
| 著書 | 出光佐三『人間尊重七十年』(春秋社、2016年) |
出光佐三が生きた時代と歩みは、出光興産の公式サイト(創業者 出光佐三)でも概略をたどることができます。ここからは、本書に刻まれた言葉をたよりに、その原点へ入っていきます。
目次 表示
- なぜ丁稚奉公を選んだ青年は、「金の奴隷になるな」と叫んだのか
- 8000円を「返さなくていい」と渡した男が、出光に遺した2つの言葉
- 「私でなかったら、2、3年で廃業していた」——理想と現実の30年戦争
- 出光佐三が「大家族主義」で、店員をクビにしなかったわけ
- ラジオ修理からタンク底さらいまで——800人はどう食いつないだのか
- 全責任で「日章丸」を出した、国家百年の石油国策とは
- わずか3、4人の経験者で、なぜ徳山製油所は10カ月で完成したのか
- 出光佐三のこだわりとは?
- 出光佐三ゆかりの地とは?
- 出光佐三から学ぶ3つの教訓とは?
- この記事で語りきれなかった『人間尊重七十年』の魅力
- まとめ
- よくある質問(FAQ)
- 関連記事
- 参考文献
なぜ丁稚奉公を選んだ青年は、「金の奴隷になるな」と叫んだのか
物語は、福岡県宗像郡の小さな町から始まります。佐三は宗像大社のご神域に近い田舎で、藍問屋を営む父・出光藤六の次男として生まれました。名校長や名教員を輩出することで知られた土地で、佐三は「先生の尊さ」「人間の尊さ」を身にしみて教えられて育ちます。
やがて佐三は神戸高等商業学校へ進みます。ここで運命を決める二つの言葉に出会いました。一つは校長・水島鏡也先生の人柄です。「一見弱く、そうして内心非常に強い」その徳の力に、佐三は深く感化されました。
もう一つは、卒業直前に内池廉吉博士から聞いた予言でした。「今後、商人はなくなる」。商人を志していた佐三には青天の霹靂でしたが、博士は言葉を継ぎます。社会が複雑になれば、生産者と消費者のあいだに介在する、ただ一つの真の商人だけが残る、と。「私はこれだと思いました」と佐三は書いています。のちの出光の営業方針は、まさにここから出発したのでした。
在学当時は日露戦争の直後で、欧米崇拝と拝金思想が世を覆い、投機と成金万能の時代が現出していました。若い佐三は、これに強く反発します。金銭の奴隷になるな、人物本位に帰れ、事業に生きよ——。ただ、こうした理想論は、当時「黄金の光の前には太陽に対する月の淡きに等しく」、書生の物笑いの種にしかならなかったといいます。
それでも佐三は真理を信じ、正直にそれを実行に移そうとしました。この「金より人」という信念こそが、のちに彼を何度も金融の死線へと追い込み、同時に何度も救う軸になっていきます。では、無一文に近い一青年は、どうやって自分の店を持つに至ったのでしょうか。
8000円を「返さなくていい」と渡した男が、出光に遺した2つの言葉
神戸高商を卒業した佐三が向かったのは、大企業でも役所でもありませんでした。兵庫の酒井商会という、角帯前垂れ姿の小さな店への丁稚奉公でした。
当時の神戸高商といえば実業学校の王座で、卒業生は相当の見識をもって威張っていた時代です。そこへ佐三が丁稚に入ったのですから、同級生からはむしろ狂人扱いをされました。しかしこの店で、佐三は大切なものを手に入れます。主人は朝7時から夕方7時まで、太陽の明るい間はずっと働く人でした。「これが私の一生に、働く癖をつけたのであります」と、佐三は振り返っています。
同じ頃、家業は日露戦争の悪影響で致命的な打撃を受け、再起の望みは絶えていました。独立自営の夢を追いながらも資金の当てはなく、佐三の志はややもすれば挫けそうになります。そんなとき、神戸で懇意になった淡路の日田重太郎という人物が、思いもよらぬ話を持ちかけました。
別荘を売って、そのお金を無条件で佐三にやる、というのです。「これは噓だ」と忠告する人もいましたが、別荘は本当に売られ、佐三は現金を手にします。金額はおよそ8000円。決して裕福ではない日田が、返済も利潤も求めずに差し出した、桁外れの厚意でした。
このとき日田が佐三に授けた教訓は、たった2つでした。一、主義を貫徹せよ。一、家族仲よく暮らせ。 そして「貸した金は返すに及ばず」「営業の内容など通知するに及ばん」「金をもらったことを他言するな」と付け足したといいます。この無尽蔵の大教訓は、味わえども尽きぬ人生修養の資料であり、出光商会の主義と方法はこの基調の上に立つ、と佐三は記しました。
こうして卒業から2年後、明治44年6月20日、門司で出光商会が開業します。父の教訓、先生方の教え、日田の厚意、そして世相から受けた痛みが、しぜんと理想となり、店の主義方針となっていきました。すなわち、人間尊重、大家族主義、独立自治——。この3つの柱が、以後の歩みを貫くことになります。しかし、掲げた理想は、開業直後から現実の壁にぶつかりました。
「私でなかったら、2、3年で廃業していた」——理想と現実の30年戦争
華々しい船出ではありませんでした。「開店後直ちに自分の不明を知りました」と、佐三は正直に書いています。世間をあまりに軽く見すぎていたことに気づいたのです。
独立自営の第一歩を印したときは、財界がどん底の不況期でした。学窓からはとうてい想像もつかない難路が、次から次へと襲いかかります。しかも佐三が掲げた「金より人」という理想は、実業界の大勢だけでなく、投機万能の社会思想とも真っ向から逆行していました。あまりに乱暴で、あまりに無分別で、無益にさえ見えた——本人がそう認めるほど、理想は現実から遠かったのです。
だからこそ佐三は、こう言い切ります。「これが私でなかったなら、二年で廃業し、楽な給料生活に転向したと思います」。しかし彼は逃げませんでした。次々に襲いくる艱難と戦い、よく苦労を忍んで、今日までやってきた——その自負が、この一行にはにじんでいます。
とりわけ苦しかったのが、資金でした。出光商会は終始一貫、資金の欠乏に苦しみ、金融の死線を彷徨します。それでも佐三は、一度たりとも資本家の援助を仰ぎませんでした。資本家の膝下に伏せば、主義方針は直ちに踏みにじられ、生ける屍となる。むしろ閉店廃業したほうがましだ、と考えたからです。
この戦いは予想以上に苦しく、店内の結束が乱れたこともたびたびでした。「顧みて戦慄を感ずる」とまで佐三は書いています。理想論に走った青年の主張は、当時の実業界からは「少々狂人じみて」見え、学校も友人も相手にしてくれなかった、と佐三は正直に明かしています。それでも彼は、掲げた理想を一つずつ現実の店の主義方針へと鍛え直していきました。
やがて創業10周年を迎えるころには、ひととおりの自信も生まれます。30年に及ぶ生きるか死ぬるかの苦労を、佐三は後年、こう振り返りました。「人は努めて苦労すべきである」。苦労こそが物事に動じない胆力を育て、判断を誤らせず、人生を楽しく見る余裕を与えてくれた、と。「私がいつも楽観的だと評されるのは苦労の賜であります」とも書いています。この確信が、佐三の経営を最も鮮やかに体現する一つの主義へと結晶していきます。
出光佐三が「大家族主義」で、店員をクビにしなかったわけ
『人間尊重七十年』を読んでいて胸を打たれるのは、佐三が店員のことを語るとき、まるでわが子を語るような口ぶりになることです。「いったん出光商会にはいりたる者は、家内に子供が生まれた気持でゆきたい」——これが、彼の言う「大家族主義」でした。
その根っこには、人を金で釣らないという哲学があります。金をやって働かせるのは二、三年のこと。やがて金は要求を際限なく膨らませ、ついには店員を去勢してしまう。「真に働くのは仕事を与えることです。仕事に興味をもたせることです」と佐三は言い切ります。人を煽てて使うことは、人を馬鹿にすることだ、とも。
だからこそ、出光商会には「首を切らない」という常識が根づいていました。世間では仕事の失策はクビにつながりますが、出光では仕事上の失策をとがめない。平素からまじめに全力を尽くしていて、それでも失敗するのは人間に当然あることだ——一所懸命にやった末の失敗なら、責めるどころか、慰めていたわってやりたい、と佐三は考えました。
なぜここまで人を守るのか。佐三は使用者と父兄の立場を対比してみせます。一店員をクビにすることは、雇う側から見れば大した問題ではないかもしれない。しかし、その父兄から見れば、本人にとっては重大問題である。「私は父兄からその子弟を預かっている心持である」。だから病気の店員はことさらいたわり、素行の乱れた若者には合宿所で互いに忠告させ、店長や自分の総力を挙げて必ず改心させる。それでも救えないときにだけ、父兄が子を勘当するように、やむなく袂を分かつ。それが「肉身の慈悲恩愛」だというのです。
そして、この哲学が真価を発揮したのが、あの終戦の焼け跡でした。大東亜地域の全事業は消滅し、内地の石油業も取り上げられ、800人の店員に与える職がない。重役からは「大部分に辞めてもらったら」という声も出ました。それでも佐三は、軽々と、しかしきっぱりと事業も資産も失った会社が、それでも一人の店員も辞めさせないと言明したのです。
それは合理的な熟考の結果ではなく、即興の直感でした。「私の心の底に潜在している、人の力に対する信頼感がかくせしめた」と佐三は書きます。事業も資産もなくなったが、多くの店員が残っている——重役たちのその言葉に、彼は慰められました。人さえ残っていれば、必ず復興できる。この確信は、決して精神論ではありませんでした。
ラジオ修理からタンク底さらいまで——800人はどう食いつないだのか
「辞めさせない」と言った以上、800人分の仕事をつくらねばなりません。石油を取り上げられた会社が、次に何をしたか。ここに、出光という会社のしぶとさが表れています。
仕事はなかなか見つかりませんでした。山陰の開墾、紀州の漁業、印刷業——芽をふきかけては手探りが続きます。そんななか持ち込まれたのが、全国に100以上の店を新設して店舗網を張るラジオ修理販売の話でした。誰もやらない、無謀に近い計画で、重役はだいたい不賛成。佐三は四面楚歌のなかで、それでも軽々と決断し、すぐ実行に移します。
やがて海外に取り残されていた社員たちが、続々と引き揚げてきました。マレーから帰った石田君と江藤君が突然部屋に顔を出したときの喜びを、佐三は「実にうれしかった」と素直に綴っています。復員した彼らは、印刷業に、そして全国的なタンク底の残渣整理にと、目ざましく働きました。
外地から帰った軍人や役人は、異口同音に出光の店員の働きぶりと家族主義を激賞したといいます。南方帰りに南方ぼけがなく、大陸帰りに放漫さがない。「出光の転業ぶりは実にあざやかである」——これが外部の一致した評でした。石油をやっていた会社が、看板を下ろしてラジオを直し、タンクの底をさらってでも、人を食わせて生き延びる。その姿こそ、佐三の言う「人の力」の証明でした。
佐三はこの時期に、有名な一節を残しています。「出光は石油配給そのものを目的とするにあらずして、人の真に働く姿をもって社会国家に示唆を与うるものなり」。石油業はあくまで手段であって、目的は人が真に働く姿を世に示すことだ、と。なお、日本の製造業を人の力で世界へ押し上げた経営者の生き方は、本田宗一郎の物語とも響き合うところがあります。焼け跡を生き抜いた出光は、やがて戦後最大の勝負に打って出ることになります。
全責任で「日章丸」を出した、国家百年の石油国策とは
戦後の石油業界で、出光は徹底的に干されていました。外国の巨大石油会社と、それに従う日本の各社を敵に回して孤軍奮闘したため、「出光をノックアウトしてしまえ」というのが敵側の一致した意見だったと佐三は書いています。
製油所は許可されず、原油を買う道も塞がれ、銀行は金を貸しません。原油の優先輸入という政策のもとで、出光は競争相手である製油会社から製品の供給を仰ぐしかなくなりました。佐三はこれを、「敵から弾丸をもらって戦争するという窮地」と表現しています。追いつめられた出光にとって、原油をどこから買うかは、まさに死活の問題でした。
そんな折、イランで石油の国有化が起こります。国際的には英国との紛争で油の輸出が止まり、日本は供給不足に苦しんでいました。佐三はこの問題を冷静に見極めます。イランの石油国有はすでに各方面で認められている——ならば、それを買い取ることは世界中の誰にとっても差し支えないはずだ、と。
しかし、日本政府の承認が得られるかは不明で、金融界も海運界も難色を示すことが予想されました。それでも佐三は決断します。「出光の全責任においてイラン石油の輸入を決行」する、と。こうして昭和28年、大型タンカー日章丸がイランへと向かいました。
世間はこれを単なる商売、金儲けと見ましたが、佐三の考えはまったく違いました。「出光の目標とするところは、石油業そのものにあらず、もちろん金儲けそのものでもなく、石油業を通じて国家社会に示唆を与えること」だというのです。彼にとってこれは、創業四十数年の歴史から必然的に生まれた結果であり、日本がはじめて世界の石油資源と直結し、国家百年の石油国策を打ち立てるための一手でした。
利権や事業の売却が目的ではない。日本の消費を合理化し、産業立国に役立てる。石油業者としての使命を果たすことこそが狙いだ、と佐三は繰り返します。だからこそ、政府の承認も金融の裏づけも不確かなまま、彼は一企業の責任で世界の資源へ手を伸ばしたのでした。出光が挑んだのは石油そのものではなく、石油業を通じて国家社会に示唆を与えることでした。 「消費者本位」を旗印に外国の巨大資本と正面から渡り合ったこの闘いには、理念を経営の軸に据えた凄みがにじみます。理念を貫くことで事業を強くするという発想は、稲盛和夫の経営にも通じる日本的な経営の系譜といえるでしょう。そして出光の力は、次に「時間」との勝負で世界を驚かせます。
わずか3、4人の経験者で、なぜ徳山製油所は10カ月で完成したのか
念願だった徳山の製油所建設は、常識を超えた計画から始まりました。製油所を、10カ月で完成させるというのです。業界の人々に告げると、「実に乱暴な計画をやるものだ」「無茶苦茶だ」とあきれられました。
しかも、それを担うのは石油の製油を経験した者3、4人と、若い人が60人ほど。わずかな人数でした。それでも佐三には勝算がありました。いろいろ計算した結果、10カ月という数字が出た。ならば、一致団結して10カ月でやり上げる——それ自体が徳山製油所の真の目的なのだ、と考えたのです。
無理と思われた計画は、しかし現実になりました。経験の浅い若い集団が、驚異的な短時日で世界を驚かせる製油所を完成させたのです。佐三はその秘密を、技術でも資本でもなく、「一致団結」と「協同一致」の力に見ていました。関係する業者たちも、その熱意に共鳴し、約束以上の協力を実現したといいます。
この徳山製油所を、後年ある英国の高名な美術批評家が訪ねたとき、佐三は来賓に向けてこう挨拶しました。「この製油所は、日本人独特の”愛情”によって、従業員を育てている」。愛情によって育てれば、互いが信頼し合い、一致団結する。だから、この工場には首切りもなければ、定年制もなく、出勤簿もない。労働組合もむろんなく、給料さえ発表されていない——と。
普通の会社なら管理の道具であるはずの出勤簿も定年も、出光にはない。人を規則や監督で縛るのではなく、信頼で結ぶ。「規則らしいものはない。進むに有形の軌道はなく無軌道である。人の頭の中の軌道である。はずれっこはない」。この徹底した人間への信頼こそが、少人数で世界を驚かせた原動力でした。ここで少し、そんな佐三という人そのものに目を向けてみましょう。
出光佐三のこだわりとは?
経営の話が続きましたが、本書には佐三の人柄がにじむ習慣が描かれています。とりわけ有名なのが、江戸期の博多の禅僧・仙厓和尚の書画を蒐集するという、生涯を通じた愛好でした。
佐三がこれを集めはじめたのは、二十歳くらいの学生時代からです。子供が描いたような、飄々とした絵——最初から、佐三はその書画そのものが好きでした。禅にあこがれて集めたのではなく、絵が好きで集めるうちに、和尚の境地を知ったのだといいます。出光商会を創めてからも、旅行から帰ってきたとき骨董屋が和尚の画を持ってきていないと、なんとなく物足りない。そう感じるほど、仙厓は佐三の暮らしに溶け込んでいました。
このこだわりは、思わぬ広がりを見せます。佐三が蒐集した仙厓の書画は、やがてヨーロッパの11カ国、14の美術館で展覧会が開かれ、大きな反響を呼びました。行き詰まった現代社会に、面倒でないものを面倒にせず素直につかめと説く仙厓の禅——それを、佐三は一枚の絵から受け取っていたのです。
もう一つ、佐三の人となりを映すのが、その最晩年の言葉です。亡くなる年、95歳を迎えた昭和56年の元日、佐三は仙厓の描いた酉年のカレンダーを前に、こう年頭の辞を綴りました。夜明けを告げる鶏が、大声で「はよふおきんかあ」と怒鳴っている、と。日本人よ、目を覚ませ——その一喝を、彼は死の2カ月前まで発しつづけていました。こうした佐三の足跡は、いくつかの土地に刻まれています。
出光佐三ゆかりの地とは?
出光佐三の生涯をたどると、いくつかの象徴的な土地が浮かび上がります。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。
まず、生まれ育った福岡県宗像郡赤間町(現・宗像市赤間)。宗像大社のご神域に近いこの土地の空気が、「人間の尊さ」を知る佐三の原点になりました。佐三は郷土の氏神である宗像神社を生涯篤く崇敬し、その復興にも力を注いでいます。(地図で見る)
その信仰の中心である宗像大社は、今も宗像市に鎮座しています。佐三が「国民の祖神」として深く敬った社であり、宗像大社の公式サイトでその由緒に触れることができます。(地図で見る)
次に、出光の原点となった福岡県門司(現・北九州市門司区)。明治44年、佐三はこの港町で出光商会の看板を掲げました。後年、佐三は門司の名誉市民に推戴されています。(地図で見る)
そして、戦後の再起を象徴する山口県周南市の徳山。わずかな人数で10カ月完成という驚異をやってのけた徳山製油所は、「愛情による育成」を体現する現場でした。(地図で見る)
土地をたどると、宗像の田舎で人間の尊さを学んだ少年が、門司で理想を掲げ、徳山で人の力を証明した——一人の商人の軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。
出光佐三から学ぶ3つの教訓とは?
『人間尊重七十年』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。
一つめは、人を「コスト」ではなく「力」と見よということです。終戦の焼け跡で、事業も資産も失った佐三が最後まで手放さなかったのは、800人の店員でした。人減らしが常識のなかで、彼は「一人も辞めさせない」と言い切り、ラジオ修理からタンク底さらいまでして人を食わせます。人こそが復興の原資だと信じ抜いた順番に、出光再生の本質があります。
二つめは、信頼で縛れば、規則はいらないということです。徳山製油所には首切りも定年も出勤簿もなく、給料の発表さえありませんでした。人を管理の道具で縛るのではなく、愛情と信頼で結ぶ。その一致団結が、わずか3、4人の経験者で10カ月完成という奇跡を生みました。管理を減らして信頼を増やすという逆説は、いまの組織にも重い問いを投げかけます。
三つめは、目先の利益ではなく、大義に賭けよということです。日章丸によるイラン石油の輸入も、消費者本位の石油政策も、佐三にとっては金儲けではなく「国家百年の石油国策」を立てる行為でした。事業を手段と割り切り、その先の大義を見据える。だからこそ、巨大な敵を相手に一歩も引かなかったのです。
これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません。『人間尊重七十年』には、ここでは紹介しきれなかった佐三の闘いと哲学が、まだまだ詰まっています。
この記事で語りきれなかった『人間尊重七十年』の魅力
出光佐三の歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。
一つめは、「敵をして味方たらしめよ」という交渉哲学です。主義に妥協しないがゆえに多くの敵をつくった佐三が、それでも熱意と誠実さで相手を溶かし、ついには敵を味方に変えていく。満洲でも、戦後の国際舞台でも実践されたその生き方が、本書には生々しく描かれています。
二つめは、世界を巡って得た文明論です。佐三は生涯に何度も世界を旅し、各国の人々に「世界は行き詰まっているか」を問い続けました。物質文明の行き詰まりを日本人の精神で打開するという壮大な構想は、一経営者の枠を超えた、思想家としての佐三の顔をのぞかせます。
三つめは、故郷・宗像神社への深い崇敬です。佐三は郷土の氏神を「国民の祖神」と仰ぎ、荒れていた社殿の復興に私財と情熱を注ぎました。事業と信仰、経済と精神を切り離さなかった佐三の全体像が、この一章から立ち上がってきます。
これらのエピソードは、ぜひ本書で味わってみてください。
まとめ
出光佐三は、宗像の田舎で「人間の尊さ」を学び、門司で理想を掲げ、七十年にわたって「金より人」を貫いた経営者でした。
終戦の焼け跡で800人を誰一人辞めさせず、徳山では首切りも定年も出勤簿もない工場を10カ月で立ち上げ、日章丸で世界の巨大資本に挑みました。その軌跡は、事業とは人を尊重するための手段であり、目的は人が真に働く姿を示すことだ、と静かに語りかけてきます。
会社が事業も資産も失ったそのときに、佐三が最後まで守ったのが「人」だったという事実は、経営の順番について深い示唆を与えてくれます。彼の肉声で綴られた『人間尊重七十年』は、人を中心に据えて生き抜く覚悟をくれる一冊です。
よくある質問(FAQ)
Q. 出光佐三とはどんな人物ですか?
A. 出光興産の創業者で、明治から戦後にかけて活躍した実業家です。1885年に福岡県宗像郡に生まれ、1911年に門司で出光商会を開業しました。「人間尊重」「大家族主義」を掲げ、店員を家族のように守る経営を七十年貫いた人物で、1981年に満95歳で亡くなりました。
Q. 『人間尊重七十年』はどんな本ですか?
A. 出光佐三が創業から晩年まで語った講話や講演をまとめた一冊です。1962年刊の『人間尊重五十年』を再編集し、その後の言葉を加えて2016年に春秋社から刊行されました。金より人を主とする経営哲学が、佐三自身の言葉で率直に語られています。
Q. 日章丸事件とは何ですか?
A. 昭和28年(1953年)、出光が大型タンカー日章丸をイランへ送り、国有化されたイラン石油を輸入した出来事です。本書で佐三は、これを金儲けではなく「国家百年の石油国策」を立てる行為だと位置づけ、出光の全責任において決行したと記しています。
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参考文献
出光佐三『人間尊重七十年』(春秋社、2016年)
