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一九四六年七月二日の朝、四日市の焼け跡に建てられた店の前で、青年が落ち着かない様子で立っていました。戦後初めての大売り出しの日です。お客さまが来てくれるかどうか、気が気ではありませんでした。
心配は杞憂に終わります。開店前に、店の前には百メートル余りの列ができていました。
そのとき、一人の婦人がチラシを手に、涙を浮かべて話しかけてきます。
「やっと平和が来ましたね」
この一言で、青年の運命は決まりました。小売業は平和の象徴だ——そう感じた岡田卓也さんは、小売業を一生涯の仕事にしようと心を決めます。のちにジャスコを立ち上げ、イオンへと育てる男の出発点が、ここにありました。
『小売業の繁栄は平和の象徴—私の履歴書』は、二百年以上続く呉服店の七代目が、家業をどう業界へ、そして世界へ広げていったかを本人の言葉でたどった一冊です。
岡田卓也さんの経営を一言で表すなら、「大黒柱に車をつけよ」という家訓、つまり客の変化に合わせて店の形を変え続ける姿勢です。 動かないはずの柱を動かす——それが岡田屋の流儀でした。
目次 表示
- 岡田卓也さんはどのような人物か(基本プロフィール)
- なぜ待望の長男は、名前ひとつに父を悩ませたのか
- 土蔵から出てきた父の日記は、何を伝えたのか
- 学生社長は、何を最初の仕事に選んだのか
- 「大黒柱に車をつけよ」とは、どういう意味なのか
- 「小売り屋なんて雑魚や」——その侮辱に、どう返したのか
- 父が果たせなかった米国行きで、何を見たのか
- ジャスコという名は、どうやって決まったのか
- 規制とは、どう戦ったのか
- 桜七百本と九百九十万本——なぜ木を植え続けたのか
- 二十四人を負傷させた事故は、社内の何を変えたのか
- 岡田卓也さんのこだわりとは?
- 岡田卓也さんゆかりの地とは?
- 岡田卓也さんから学ぶ3つの教訓とは?
- この記事で語りきれなかった『小売業の繁栄は平和の象徴』の魅力
- まとめ
- よくある質問(FAQ)
- 関連記事
岡田卓也さんはどのような人物か(基本プロフィール)
| 氏名 | 岡田卓也(おかだ たくや) |
| 生年 | 一九二五年(大正十四年) |
| 出身地 | 三重県四日市市 |
| 学歴 | 四日市第一尋常高等小学校 → 富田中学(現・四日市高校)→ 早稲田大学 |
| 経歴 | 二百年以上続く岡田屋呉服店の七代目として生まれる → 一九四六年六月、早稲田在学中に社長就任(姉・千鶴子から引き継ぐ)→ 提携・合併を経てジャスコを立ち上げ → 二〇〇〇年五月に引退、名誉会長相談役 |
| 主な実績 | ジャスコ設立。イオンクレジットサービス、ミニストップ、米タルボットなど国内外で二十社を上場させる。マレーシアなど海外展開。イオン環境財団・岡田文化財団を設立し植樹活動を推進 |
| 著書 | 『小売業の繁栄は平和の象徴—私の履歴書』(日経文芸文庫) |
なぜ待望の長男は、名前ひとつに父を悩ませたのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』の出発点は、二百年続いた呉服店の家に生まれたことにあります。
岡田卓也さんが生まれた岡田家には、五人続けて女の子が生まれていました。
そこへ待望の男の子として生まれたのが卓也さんです。跡取りになる子だけに、父は名前をつけるのにも真剣でした。友人で大学の哲学科を出た地元の諏訪神社の神主に命名を依頼したところ、「大事な長男だから」と辞退され、結局は東京の有名な先生に願い出ることになります。
一九三二年、四日市第一尋常高等小学校に入学する直前、満州から黒光りするランドセルが届きました。贈り主は石崎広治郎。四日市商業学校以来の父の友人で、父と一緒に渋沢栄一に面会した人でした。少年は得意顔でそれを背負って通います。
その父の青春時代を知ることになるのは、ずっと後のことでした。
母は肺を病んで別宅で療養しており、本当はそばにもっといたかったのですが、それは叶いませんでした。母は一九三五年、帰らぬ人となります。母方の祖父・美濃部鏘次郎が、以後の後見人となりました。農科大学を出た農林技師で、見るからに威厳のある雰囲気を漂わせていた人です。
富田中学二年のころには、試験の成績を教室に張り出すことに反発し、仲間と紙を破り捨てたことがありました。自分の組だけならまだしも、よその組の成績表まで破ってしまい、父兄呼び出しと相成っています。おとなしい優等生ではありませんでした。
やがて戦争が生活を覆います。茨城・鹿島では毎日、塹壕を掘る日々でした。
土蔵から出てきた父の日記は、何を伝えたのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』で最も静かな転機が、この日記との出会いです。
一九四五年六月の四日市空襲で、岡田屋は店も自宅も灰燼に帰していました。
同年九月に復員した卓也さんが、焼け残った土蔵を整理していたときのことです。父の日記と、岡田屋の帳簿や店規則が出てきました。祖父は自分が生まれる前に鬼籍に入っており、どんな人物なのかも分からずにいた——その空白を埋める資料でした。
日記を読み進めると、ちょうど自分の年齢のころの父の青春時代の記述が多くありました。
父が通った四日市商業学校には行商の実地研修がありました。一九〇二年、父は友だち五人と相談し、日本の資本主義の基礎を作った東京商業会議所会頭の渋沢栄一に会おうと考えます。十六、十七歳の田舎小僧たちが、四日市や桑名の産物を売りながら日銭を稼ぎ、それを旅費に充てて東海道を東へ向かいました。
そして四日市を出て十一日目、面会が実現します。時間はわずか二分余り。一人ひとりと握手をしてもらっただけだったようですが、父は日記にこう書き残していました。
「コノ感激ヲ如何ニ伝ヘン」
渋沢との出会いが岡田屋の近代経営に結びついたことは間違いない、と卓也さんは書いています。そして日記を読み返しながら、自分も人生の志を立てねばならないと思いました。
学生社長は、何を最初の仕事に選んだのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』の題名は、この日の出来事から生まれています。
戦後の混乱のなかで、岡田屋は動き出します。
新円切替のとき、一月に大量に仕入れた商品は飛ぶように売れ、新円がどっと入ってきました。あの時もし旧円を持ち続けていたら、岡田屋はどうなっていたかわからない——本人はそう振り返っています。
物不足の時代らしい逸話もあります。福神漬けを樽で百キロほど仕入れたはずが、五十キロほど売ったところで中身が売り切れてしまいました。仕入れた百キロには汁も含まれていたのです。「大損した」と悔やんだものの、妙案を思いつきます。この汁を醬油がわりとして売ったのでした。モノ不足ですから、お客さまは貴重品として買っていかれたといいます。
店が軌道に乗り始めた一九四六年六月、卓也さんは社長に就任しました。早稲田も卒業しておらず、学生社長です。姉・千鶴子との「阿吽の呼吸のバトンタッチ」でした。
初仕事に選んだのが、冒頭の大売り出しです。「焼け野原から立ち上がり岡田屋は店を復興しました」という意味を込めたチラシを作り、キャッチコピーは「焦土に開く」。力んだコピーだったと今では思う、と本人は照れています。四日市で戦後にチラシを出したのは、岡田屋が初めてでした。
そして開店前の百メートルの列と、婦人の涙。
小売業のフィロソフィー(哲学)は平和である——この確信が、以後の生涯を貫くことになります。焼け跡から事業を立て直した点では、出光佐三の歩みとも重なります。
「大黒柱に車をつけよ」とは、どういう意味なのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』を貫く一本の柱が、この家訓です。
岡田屋には、代々受け継がれた家訓がありました。
「大黒柱」を広辞苑で引けば、家の真ん中にあって家や団体の支えになるもの、と書かれています。動くこと、揺らぐことのないという意味で使われる言葉です。ところが岡田屋の家訓は「大黒柱に車をつけよ」。不思議に思われることがよくあるが、不易なものだと確信している——卓也さんはそう述べています。
わかりやすく言えば、「お客の変化に柔軟に対応すべし」ということでした。
四日市は戦前と戦後で繁華街の場所が大きく移動しました。戦前は陣屋跡だった辻を中心ににぎわいができ、終戦直後は近鉄諏訪駅から市役所へ行く新道に商店街ができます。配給切符を求める人が市役所へ通ったからです。
そこで岡田屋は、復興したばかりの辻の店をわずか三年で閉鎖し、一九四九年に新道へ移設・開業しました。資金がなかったこともあり、先祖伝来の辻の店の土地と、新道の出店場所の地上権を交換する方式を採ります。土地が資産として価値を持つ時代に無形の地上権と交換するのはおかしい、と指摘する関係者もいましたが、断行しました。
その後、近鉄四日市駅が移転すると、再び人の流れが変わります。ためらいなく新道の店を閉鎖し、新しい駅前へ出店しました。その店もまた人の流れが変わったため、二〇〇二年一月に閉店しています。
変化に合わせて店の形を変え続ける姿勢は、鈴木敏文さんの変化対応の思想にも通じます。
店は時代の流れとともに、場所も姿もどんどん変えていく。 商業立地は社会・経済環境で大きく変わってしまうものだ、というのが本人の結論でした。
この家訓に従い、卓也さんは店舗のスクラップ・アンド・ビルドを推し進めました。ジャスコ社長在任中の十四年間で百八十店を閉め、ほぼ同数を大型化して開店させています。閉店を経営不振と噂されると、彼はこう反論しました。アメリカの小売業の年次報告書には、閉店数が新規出店よりも先に書いてある。閉店は重要な戦略である、と。
この家訓は、辻の店を久六町から移設した五世惣右衛門、さらに中町へ移ろうと考えて実行の矢先に亡くなった六世惣右衛門の時代に確立されたものです。家訓は引くことの大切さも教えてくれる、と卓也さんは言います。事業や業態をいくつもやめ、代わりの事業・業態の開発を積極化する——変化に対応する企業姿勢が、この家訓から生まれました。
「小売り屋なんて雑魚や」——その侮辱に、どう返したのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』が描く最大の発奮の場面が、この一言でした。
昭和二十年代の岡田屋は家訓を忠実に実践し、売上高は年率二ケタ増と急伸しました。
一九五四年、卓也さんは祖父が設立発起人の一人だった四日市商工会議所の商業部会長に選出されます。工業化とともに街並みが変わりつつあり、四日市の商業開発の在り方を議論しようと考えていました。
ところが、当時の会議所の議員五十五人のうち、小売りに携わっているのは自分を含めてたった二人。残りは紡績、油脂など工業関係者が大多数でした。
これでは消費者の生活を預かる小売業者の声を反映できない。「商工会議所という名前が付いているのなら商業関係者を増やすべきだ」と主張しても、賛同の声は上がりません。
そこで彼は、商工会議所法の条文に目をつけます。「議員は選挙で選ぶ」と書かれていたのです。それまで議員の選出は部会長会議の話し合いで決まるのが慣例でした。卓也さんは投票の委任状を会員から集め始めます。話し合いで決まるのが当たり前だったため、会員たちも気楽に委任状を渡してくれました。当選目標は十人と決めます。
議員改選の会議で、彼は意を決して「商業関係者を十人立候補させます」と発言しました。すると年配議員から「若いやつが二人から十人とは何事だ」と一喝されます。さらに工業担当の副会頭が、こう言い放ちました。
「岡田君。小売り屋なんていうのは雑魚やないか。誰が議員になるのか、ここに連れてこい」
士農工商の序列は厳然と残っている——怒りが込み上げましたが、彼は冷静に反論します。
「商工会議所法では議員は選挙で選ぶと書いてあります。ぜひとも選挙でお願いします」
このとき既に、選挙に持ち込めば十人は堅いという票読みができていました。彼は懐から委任状を差し出します。会議は紛糾して中断し、再開後に伊藤会頭はこう告げました。「君の言い分は九割聞こう。だから九人を商業部会に割り当てよう。一人だけ遠慮してくれないか」。卓也さんは「私が引かせてもらいます」と応じますが、会頭は会則の会頭推薦議員枠で彼自身を指名し、目標の十人が揃いました。
侮辱をそのまま燃料に変え、しかも制度の条文で押し切る——このやり方が、のちの規制との戦いにも通じていきます。
父が果たせなかった米国行きで、何を見たのか
岡田屋を大きく近代化した企業体にする——その決意を固めたもう一つの出来事が、一九五九年六月の初めての米国視察でした。
父が果たせなかった米国行きです。ただし当時は外貨の持ち出しに制限があり、岡田屋には割当がありませんでした。そこで取引のあった商社・瀧定の嘱託社員という形をとり、銀行から五百ドルを手に入れて渡米します。
雑誌「商業界」が主催した視察は、驚きの連続でした。最初に立ち寄ったハワイでは、どの公共の建物にも星条旗が掲げられています。サンフランシスコの高速道路は道の上に道があり、グルグル回るインターチェンジを走っていると自分がどこへ向かっているのか分からなくなりました。道路の周辺には廃車が山積み。まだ日本では車が貴重な時代です。
視察の目玉は、当時の米国最大の小売業でシカゴに拠点のあるシアーズ・ローバックでした。売上高は一兆四千五百億円(一ドル三六〇円換算)。我が国の国家予算と肩を並べる巨大企業です。
通信販売も手掛けており、厚さ三センチもあるカタログを持ち帰りました。載っている冷蔵庫、洗濯機などの家庭電化製品や衣料品、日用雑貨には、豊かなアメリカの消費社会が映っています。このカタログを見ていたら、日本にも経済成長とともに大衆消費社会がやってくると確信したと本人は書いています。
食品スーパー最大手A&Pの総店舗数は七千〜八千店はあったでしょう。一店一店の売上高が小さくても、鎖(チェーン)のように連携して多店舗展開すれば大きな存在になる——規模が必要だと痛感しました。
そのとき、岡田屋はまだ二店しかありませんでした。
合併という選択肢が頭をよぎるようになったのも、この頃です。戦前の四日市では合併により東洋紡績が誕生し、伊勢電気鉄道は大阪電気軌道などと合流して後の近鉄が生まれています。「賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの言葉を引きながら、彼は郷土の産業界の先輩の歴史に学ぶことにしました。米国で規模の必要を知り、地元で合併の前例を見た——二つが重なって道が決まります。
ジャスコという名は、どうやって決まったのか
一九六七年五月一日、岡田屋とフタギは覚書に調印しました。両社あわせた売上高は三百三十億円と、まだまだ小さな規模です。
そのため覚書には、こんな文言が盛り込まれました。
「今日以降、新しく参加される同志を平等に迎える。参加各社は将来合併する」
この門戸開放の一文が、チェーンストアを志す全国の経営者に大きな影響を与えます。効果はすぐに現れました。翌一九六八年五月上旬、フタギの二木一社長に、大阪府吹田市に本社を置くチェーンストア・シロの井上次郎社長から一本の電話が入ります。
大阪地区は空白のままでしたから、渡りに舟でした。五月十二日に大阪梅田のホテルで三人が会合し、提携の趣旨を説明します。井上社長の決断は素早く、翌年四月までに本部機能を結集して新会社を設立することで合意しました。
新社名は、元の社名に固執することがないよう社内公募されます。社員数をはるかに超える二千八百余通の応募が集まりました。選ばれたのがジャスコ——Japan United Stores Company の頭文字で、日本全国の小売企業と連邦制経営をする会社という意味です。応募したのは二木英徳フタギ本部長の夫人で、当時社員だった栄海さんでした。
企業の合併は、新会社の名称、トップ人事、本社所在地の決め方をめぐって時間がかかることがあります。だがジャスコはトラブルと無縁でした。 トップ人事について、記者の質問に二木さんはこう答えています。
「まあ、年の順から言って私(五十八歳)が会長、岡田さん(四十二歳)が社長、井上さん(四十一歳)が副社長ですかな」
これで決まりました。本社は三社の中間地点にあるシロ野田店の五階です。売り場だから仕切りがなく、開放感がある——三社の融和を図る環境として、オープンスペース型が本社に適しているという判断でした。その地名が大開町で、経営の神様・松下幸之助が商売を始めた由緒ある土地だったことも、縁起がよいと考えています。
規制とは、どう戦ったのか
一九三七年の第一次百貨店法以来、日本の小売業界では大型店の規制が半世紀以上にわたって続きました。
一九五六年施行の第二次百貨店法では、大都市で売り場面積三千平方メートル、中小都市で千五百平方メートルを超える店舗に通産大臣の許可が必要とされます。悪法ではあったが、岡田屋も法律を守る意味から申請を行ってきた——本人はそう書いています。当時勃興していたスーパーストアの中には、店舗のフロアーごとに会社を設立して合法的に大型店を作るところもありました。
一九六六年ころ、申請の説明で訪れた通産省の幹部から、こう質問されます。
「スーパーとはどういう人たちがやっているのか」
行政に業界の実像が伝わっていなかったのです。彼はチェーンストア経営者の多くが参加する研究会「ペガサスクラブ」を主宰する渥美俊一に相談しました。渥美はこう答えます。
「君らも少しは役所との関係をつくっていくべき時期にきたのではないだろうか」
そして業界団体設立の必要性を提言しました。一九六七年五月に設立準備委員会が発足し、ダイエー、イトーヨーカ堂、長崎屋など十四社が参加。八月には日本チェーンストア協会の設立総会が開かれます。岡田卓也さんが議長を務め、初代会長には業界最大手だったダイエーの中内功社長が選出されました。
協会発足の声明文は渥美が起草し、消費者重視、流通の近代化、価格決定の主導権の確立、公正取引の実現など、今でも通用する内容でした。規制の当事者になるのではなく、業界そのものを可視化することで戦う——この手口は、商工会議所で条文を持ち出したときと同じ発想です。
桜七百本と九百九十万本——なぜ木を植え続けたのか
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』の後半は、この植樹活動に多くのページを割いています。
一九六五年二月、四日市で創業した岡田屋が初めて県外に店を構えます。場所は愛知県岡崎市でした。
これを記念して、岡崎公園や伊賀川堤に桜の苗木七百本を植樹します。桜は立派に育ちました。日本やアジア各地で進めている植樹活動「イオンふるさとの森づくり」の原点が、この岡崎にあります。
一九九一年からは、ショッピングセンターの開業にあわせて地域の人たちと木を植え始めました。万里の長城など海外にも足を運んでいます。植樹の本数は九百九十万本を超え、活動に参加した人はのべ九十九万人にのぼりました。
海外展開も進みます。一九八三年一月、五島昇・日本商工会議所会頭とともに東京・赤坂の迎賓館で、マレーシアのマハティール首相と面会しました。首相は「マレーシア商業の近代化に協力してほしい」と語り、五島からも「君、やってくれないか」と話がありました。
直ちにマレーシアへ飛び、再び首相と会います。「スーパーマーケットを作ってほしい」と要請された場所は、クアラルンプールのオフィス街にある石油公団ビルの一階でした。なかなかスーパーが成り立つような立地ではありません。 それでも首相直々の要請であり、マレーシアが小売業にとって将来性を秘めた市場でもあったため、実験店として出店することを約束します。
一九八五年六月、合弁会社ジャヤ・ジャスコストアーズの一号店・ダヤブミ店がオープンしました。オープンにはラフィーダ公営企業相、ダイム大蔵大臣、駐マレーシア大使らが列席しています。この店舗は所期の役割を果たし、三年後に閉鎖しました。 一号店をたたむ判断もまた、家訓どおりでした。
その後ジャヤ・ジャスコは着実に業容を拡大します。「イオンふるさとの森づくり」発祥の地であるマラッカ店をオープンし、翌年にはマレーシアでは初めてともいえる核店舗が二つある本格的なショッピングセンターを開店。一九九六年にクアラルンプール証券取引所メインボードへ上場し、二〇〇四年二月には十一店舗となりました。二〇〇四年九月には出店二十周年を記念し、マハティール氏も招いて約三千人とともに三万本の記念植樹を行っています。
「二十世紀は戦争の世紀と言われますが、二十一世紀は環境の世紀であることに疑いの余地はありません。しかし、世界では依然として紛争が絶えません。戦争は最大の環境破壊です。やはり、ここでも平和が大切なのです」
焼け跡で婦人が流した涙から始まった確信は、半世紀を経て植樹という形に変わっていました。
二十四人を負傷させた事故は、社内の何を変えたのか
バブル経済は、ジャスコにも大きな教訓を与えました。
一九九〇年四月一日に開会した大阪・鶴見緑地の「国際花と緑の博覧会」(花博)で、ジャスコは会場内の交通システム「ウォーターライド」を運営することになります。ところが事故が発生し、二台が高架で宙づりとなって二十四人に重軽傷を負わせてしまいました。
「事故に遭われた方には今でも大変、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。心が痛む」——本人はそう記しています。マスコミは連日、事故を報道しました。
事故は有形無形の大きな損失をもたらしましたが、同時に社内の浮ついた気持ちを吹き飛ばしてくれた、とも書いています。当時のジャスコにはホテル建設、ゴルフ場やリゾートの開発が持ち込まれ、エンターテインメントを軸にした総合生活産業を目指そうとする雰囲気がありました。事故のあと、もはやそんなことを持ち出す者はいなくなります。
八〇年代後半から九〇年代初めは、流通業界にとって甘い誘いの多い時期でした。大店法の規制強化で出店が難しくなる一方、空前の好景気が店舗の売上高を押し上げます。日本経済はカネ余りとなり投資資金は潤沢でしたが、それを店舗投資に回せない。資金の向かう先は、値上がりが期待された不動産などの目に見える資産でした。海外出張帰りの飛行機の中で「ホテルを買ってきました」「ビルを二つ買ってきました」と話しかけてくる人もいたといいます。
バブルとその崩壊は、ジャスコにとって本業に徹するきっかけになりました。 企業にとっての「価値」とは何かを考えさせてくれた転換点だった、と総括しています。
その問いへの答えが、翌年の買収に表れます。一九八八年一月、米ゼネラルミルズから婦人アパレル専門店タルボットとアウトドア専門店エディー・バウアーの公開入札の連絡が来ました。応札したのはジャスコのほか、米シアーズ・ローバック、ドイツの通信販売大手オットーなど数社です。
二社とも欲しかったものの、そこまでの力はありません。最終的に、日本にはない三十歳代女性をターゲットにした本格的な専門店・タルボットに絞りました。店舗数は百二十六店、売上高は約四百億円。通常の企業買収と大きく違ったのは、土地や建物といった資産がほとんどなかったことです。日本のように出店に必要な保証金や敷金もありません。
目に見える資産ではなく、ブランドと顧客という見えないものに四百億円を投じる——不動産に群がった時代のなかで、彼が選んだのは正反対の道でした。
同じ発想で、専門店の国内展開も進めます。化粧品を扱う英国「ザ・ボディショップ」、ファッションアクセサリーの米国「クレアーズ」、スポーツ用品の「ザ・スポーツオーソリティ」——これらの事業には撤退したものもあると本人は正直に書いていますが、多くは九〇年代以降の大型ショッピングセンターの有力テナントとして成長していきました。撤退を織り込んで数を打つやり方も、家訓の「引くことの大切さ」の実践でした。
岡田卓也さんのこだわりとは?
本書『小売業の繁栄は平和の象徴』からは、経営者としてだけでない素顔も見えてきます。
岡田卓也さんのこだわりは、芽吹く季節にありました。
「木々が芽吹く季節が好きだ」——本書はその一文から始まります。三月末にもなれば岡崎公園や伊賀川堤に桜が咲き、市民でにぎわうことだろう、と。自分が植えた木が育っていく光景を、毎年心待ちにしていました。
もう一つは、父の日記です。空襲で焼け残った土蔵から見つけたこの日記を読み返し、志を立てました。渋沢栄一と握手した二分間の記録が、七代目の背中を押し続けたのです。
家族への言及も率直です。妻・保子との結婚生活は五十五年を迎え、「ここまで私が健康でこられたのも保子のおかげだ」と書いています。そして戦前戦後を通じて岡田屋の暖簾を守った姉・千鶴子について、「千鶴子がいたからこそ、現在のイオンの繁栄があることは間違いありません」と記しました。
その姉の仕事ぶりを示す逸話も残っています。空襲で売るモノがなくなったとき、千鶴子は「岡田屋の商品券をご持参の方は現金とお引き換え致します」と書いた紙を市内各所に貼って歩きました。売る商品がない以上、お客さまには現金をお返しする。仕立てなどの預かり品も、戦災を免れた京都で買い求めてすべて現物で弁済しています。信用を金に換えず、金で信用を守ったのです。
千鶴子は二〇一三年三月に九十七歳を迎え、三重県菰野町で池田満寿夫「般若心経シリーズ」や夫・三郎一の作品を展示するパラミタミュージアムを創設し、静かに暮らしていると本書は伝えています。
岡田卓也さんゆかりの地とは?
本書からたどれる、岡田卓也さんの足跡が残る土地を紹介します。
- 三重県四日市市(生誕地・岡田屋創業の地)——二百年以上続いた岡田屋呉服店の本拠。空襲で焼け、そこから戦後の再出発が始まりました。地図で見る
- 愛知県岡崎市(県外初出店の地)——一九六五年、初の県外店を記念して桜七百本を植樹。植樹活動の原点です。地図で見る
- マレーシア クアラルンプール(海外展開の象徴)——マハティール首相の要請を受けて進出し、二十周年に約三千人と植樹しました。地図で見る
岡田卓也さんから学ぶ3つの教訓とは?
一、動かないものにこそ、車をつける
大黒柱は動かないもののたとえです。その大黒柱に車をつけよ、と家訓は言いました。復興したばかりの店を三年で閉じ、土地を地上権と交換してでも移る。守るべきは場所ではなく、お客のいる場所に居続けることだったのです。
二、侮辱は、制度で返す
「小売り屋なんて雑魚や」と言われたとき、彼は感情でぶつからず、商工会議所法の「議員は選挙で選ぶ」という条文を持ち出しました。怒りを票読みに変えたことで、十人の当選という結果を引き出しています。
三、原点の一言を持ち続ける
焼け跡で婦人が言った「やっと平和が来ましたね」。この一言が生涯の指針になりました。九百九十万本の植樹も、その延長線上にあります。 自分の仕事を何のためにやるのかを一言で言えることが、長く続ける力になります。
この記事で語りきれなかった『小売業の繁栄は平和の象徴』の魅力
本書には、ここで紹介しきれなかった話がまだたくさん詰まっています。
ジャスコ誕生の舞台裏
第3章では、空白地区への門戸開放、三社融和のための労組説得、流通業の規制との戦いが描かれます。合併という選択肢をどう選び取ったのか、当事者の視点で語られています。
ダイエーとの競争と、出店凍結の判断
首都圏で攻勢をかけるダイエーに対し、建設費の急騰を前に出店を凍結する決断を下します。攻めどきと退きどきをどう見極めたのかが記されています。
マイカル支援と「思わぬ危機」
第5章では、自社が直面した危機と、その経験が生きたマイカル支援の経緯が語られます。競合を救うという判断の背景にあったものが見えてきます。
📚 [小売業の繁栄は平和の象徴—私の履歴書(日経文芸文庫)を読んでみる]
まとめ
二百年以上続く呉服店の七代目に生まれ、空襲で店を失い、早稲田在学中に社長となった青年が、ジャスコを立ち上げ、イオンへと育てました。
その根にあったのは、焼け跡で聞いた「やっと平和が来ましたね」という一言と、「大黒柱に車をつけよ」という家訓でした。動かないはずのものを動かし続けたからこそ、時代の変化を越えられたのです。
変化に取り残されそうだと感じている人にこそ、この一冊は効きます。二百年続いた店を守るために、店そのものを何度も捨てた七代目の判断は、いま何かを手放せずにいる人への具体的な処方箋になるはずです。
📚 [小売業の繁栄は平和の象徴—私の履歴書(日経文芸文庫)を読んでみる]
よくある質問(FAQ)
Q. 岡田卓也さんとはどんな人物ですか?
一九二五年に三重県四日市市で、二百年以上続く岡田屋呉服店の七代目として生まれた実業家です。一九四六年、早稲田在学中に社長へ就任し、のちにジャスコを立ち上げてイオングループへと育てました。国内外で二十社を上場させています。
Q. 「大黒柱に車をつけよ」とはどういう意味ですか?
岡田屋に代々伝わる家訓で、「お客の変化に柔軟に対応すべし」という意味です。動かないはずの大黒柱に車をつけるという逆説で、店の場所も業態も時代に合わせて変えていくべきだと説いています。五世・六世惣右衛門の時代に確立されました。
Q. なぜ「小売業の繁栄は平和の象徴」なのですか?
一九四六年の戦後初の大売り出しで、一人の婦人がチラシを手に涙し「やっと平和が来ましたね」と語りかけたことがきっかけです。この一言から小売業の哲学は平和であると確信し、小売業を一生涯の仕事にすると決めました。
関連記事
→ 同時代に流通の常識を組み替えた経営者
→ 変化対応を武器にした小売の経営者
→ 現場と数字で店を作り替えた経営者
→ 規制と正面から向き合ったインフラ経営者
→ 戦後の焼け跡から事業を立て直した経営者
→ 地方から全国へ広げた小売の経営者
参考文献:岡田卓也『小売業の繁栄は平和の象徴—私の履歴書』(日経文芸文庫)

