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益田孝|なぜ佐渡の下級役人の子が、二十九歳で三井物産の初代総括になれたのか

三井物産を創業した益田孝と、明治初期の横浜港のイメージ

慶応四年の初夏、二十一歳の男が江戸の屋敷を出て、まっすぐ横浜へ向かいました。前の年まで、その男は騎兵頭並という肩書を持っていました。陸軍でいえば中佐に当たる位です。将軍・徳川慶喜から直接、江戸城内で辞令を読み上げられた身でした。

幕府が倒れ、徳川の家臣たちは駿河へ移るか、農民か商人になるかを選ばされました。多くの者が迷いました。その男は迷いませんでした。士族の道と決別して、商人になる——それが益田孝の、一人の男としての決断でした。

『益田孝天人録—横浜で実学を修め三井物産の誕生へ』は、その決断に至るまでの二十一年と、そこから三井物産が生まれるまでの八年を、丹念にたどった一冊です。著者の松永秀夫は、佐渡、箱館、横浜と、益田孝が歩いた土地をみずから訪ね、幕末外交の文書や新聞記事、益田本人の口述『自叙益田孝翁伝』を突き合わせながら、一人の少年が商人になっていく過程を復元しています。

益田孝の商いを一言で表すなら、思惑で相場を張らない商売です。 売り手と買い手を結び、手数料で立つ。それが三井物産の出発点でした。


益田孝はどのような人物か(基本プロフィール)

氏名益田孝(ますだ たかし)/幼名・徳之進、号・鈍翁
生年月日嘉永元年(1848年)10月17日
没年月日昭和13年(1938年)12月28日
出身地佐渡・相川(相川金山の奉行所役宅)
学歴正規の学校教育は受けず。箱館で名村五八郎、江戸で西吉十郎、横浜でヘボン夫人の家塾に英語を学ぶ
経歴外国奉行支配通弁御用出役/アメリカ公使館詰/横浜鎖港談判使節随行/騎兵頭並/ウォルシュ・ホール商会/大蔵省四等出仕・造幣権頭/岡田組頭取/先収会社頭取/三井物産総括
主な実績明治9年7月1日、三井物産を発足させ初代総括に就任。『中外物価新報』(現・日本経済新聞)を創刊
栄典大正7年11月26日、男爵
著書口述『自叙益田孝翁伝』(長井実編)

なぜ佐渡の医家は、金山の坑夫に薬を配ったのか

本書『益田孝天人録』の出発点は、佐渡の医家に流れていた気質にあります。

益田孝という人を理解するには、佐渡から始めるほかありません。

益田家の歴史は、孝が生まれるより二百年ほどさかのぼります。上州から佐渡に渡り、相川陣屋の出入医師となった益田甚政が初代です。その子の代に、家の性格を決めるような人物が出ました。益田玄皓、「医術の達人」と呼ばれた男です。

『佐渡奇談』が伝えるところによると、玄皓はもともと富者ではなく、若い頃は貧しいまま、師を訪ね道を求めて十余年も各地を歩いた人でした。腕を認められて富裕になってからも、身の回りの調度は貧しかった頃のままだったといいます。

そして玄皓は、相川金山で働く金穿大工たちに目を向けました。硬い石英の岩脈に鑽と槌で挑む彼らは、鉱塵と煤煙を吸い続けます。寿命は三年、長くて五年、四十歳を越える者はまれだったと本書は記しています。玄皓はこの症状を見て、「紫金丹」と名づけた薬を調合し、施薬に出しました。謝礼は受け取りませんでした。

塵肺という病を認知して薬を施した記録として、これは世界的にも最も古い部類に入るのだと本書は紹介しています。佐渡の益田家には、目の前の困りごとに手を動かして応える、そういう気質が流れていました。

孝の祖父・亦太郎については、こんな話が残っています。剛直な人で、何かが忌諱に触れて鷲崎という僻地へ左遷されたことがありました。その時期、祖母が糸繰車で糸を紡いでいると、どこからか鷹が一羽飛んできて頭に泊まった。ちょうどその頃に懐妊した子だったので、鷹之助と名づけた——孝の父の名前は、そんなふうにして決まったのです。

亦太郎は目付役を勤め、毎年みずから江戸へ金を納めに行きましたが、本郷の宿屋で赤痢にかかって亡くなりました。孝はまだ生まれていません。


八歳の少年が、二十日かけて北へ向かった理由

「私は相川で生れた。相川の家はなかなか大きい家で、玄関なぞも立派なものであった」——孝はのちにそう回想しています。ただし、それは満五歳と十か月までの記憶でした。

嘉永七年、父の鷹之助に辞令が下りました。箱館奉行支配調役下役。佐渡の地役人が幕府に召し出されるのは、当時「未曾有の事」と羨まれるような出来事でした。佐渡奉行だった内藤茂之助が「益田のような人物を佐渡の地役人にしておくのは実に惜しい」と幕府に推薦した、と孝は聞いています。

もっとも、本書は別の伝えも並べて記しています。佐渡の地元には、鷹之助はカタモッコ——佐渡の言葉で頑固——な人で、同僚と江戸行きを約束し、相手が親戚の反対で取りやめたあとも、誰の言うことにも耳を貸さずに一人で決行した、という話が残っているのです。どちらが正しいかは断定できません。ただ、この父が動かなければ、佐渡の役人の子はそのまま佐渡で終わっていたはずです。

父が単身で箱館へ発ち、残された家族は江戸で一年ほど待機しました。安政二年の秋口、八歳の徳之進は祖母と母、三歳の弟と四人で、江戸から青森まで二十日をかけて旅をしました。

「東北を通って、あの地方が実に貧しい生活をしているのに驚いた。障子の紙はみなやぶれてほとんどない」。八歳の子どもが、この国の広さと貧しさを最初に見たのが、この旅でした。

青森からは風待ちで足止めされ、三厩でさらに二十日ほど泊まってようやく出帆しました。それでも箱館へは直接入れず、津軽海峡を東へ流されて、御用船の提灯を揚げて小舟の出迎えを受けました。迎えてくれたのは、箱館一番の金持ちといわれた杉浦嘉七の家です。「実に大家で子供心に驚いた。主人は品のよい福々しい老人であった」と孝は書き残しています。

翌年、父が河汲の銀山開発を担当することになり、一家はそこへ移りました。漁場の網元の家の座敷を借りての暮らしです。

「私は子供の時分に始終鰊の臭いを嗅いでおったから、あの臭いは気持がよい。今でもそうである。間食には甘い物なぞはない。乾した鱈や胡瓜の生などをかじっておった。これは身体によかったと思う」

九十一年を生きた男の体は、この北の漁場で作られたのだと、本人は考えていたようです。


なぜ十六歳の少年は、「病気」と偽ってまで船に乗ったのか

本書『益田孝天人録』が描く最初の転機が、この密かな乗船でした。

十一歳で箱館に戻った徳之進に、決定的な出来事が訪れました。英語です。

きっかけは父の仕事でした。箱館奉行所は鷹之助ともう一人に通弁の稽古を命じたのですが、指導役の名村五八郎は上申しています。役目を勤めながら折々学ぶ程度では、とても異人と対話などできない。むしろ幼年の者に稽古させたほうがはかどる、と。大人には無理だから子どもにやらせろ、という判断が、益田孝の運命を変えました。

孝は安政五年から一年間、名村五八郎に英語を教わりました。十一歳から十二歳にかけてのことでした。

安政六年、一家は江戸詰となり、孝は十二歳で「外国奉行支配通弁御用出役」を命じられました。この年、外国奉行の通訳御用出役として初めて出動した日に、寺島陶蔵と福沢諭吉が会談しているところへお茶を届けにいった記憶がある、と本書は伝えています。

やがて孝は麻布・善福寺のアメリカ公使館に「宿寺詰」となりました。「ハリスはなかなかむつかしい人で、みな叱られた。よく机を叩いておった」。ハリスの帰国後に着任した公使については「この人は好人物であった」と、少年らしい率直さで人物評を残しています。

文久三年、公使館が焼失し、公使とともに横浜へ移りました。この頃、ヘボン夫人の家塾に通っています。「ミセス・ヘボンに英語を習ったことがある。お婆さんで、ひまがあったから英語を教えてもらった。林董と一緒に行った」。ヘボン夫人は当時四十四、五歳でしたから、十六歳の少年の目にはそう見えたということでしょう。

そしてその冬、幕府が横浜鎖港談判使節をフランスへ送ることになり、父の鷹之助が随行員に加えられました。孝の行動は素早いものでした。

「好機逸すべからずと考え、早速病気というて宿寺詰を辞し、父の家来という名義で付いて行った。その頃は、親子ともに外国へ行くことはならぬ制度故、別名益田進という父の家来になった」

役目を病気と偽って辞め、名前を変えてまで、十六歳はヨーロッパ行きの船に乗り込んだのです。 身分は「小遣」、つまり雑用係で、帯刀も許されませんでした。


スフィンクスの前に立った少年が、パリで最も驚いたもの

使節団はまず上海まで送られました。甲板に畳を敷き、厩のようなものを造ってもらっての船旅です。「日本風に唯甲板の上に寝具をのべて、之に寝たり起たりという風で上海までの困苦は実に名状すべからざるものであった」と孝は語っています。

エジプトに着いた一行は、ピラミッドとスフィンクスを見学しました。孝は父とともに、ピラミッドの中途まで登ったようです。そのあとスフィンクスの下で撮られた一枚が、のちに”スフィンクスと侍”として知られる写真になりました。本書は横浜美術館蔵の写真を検討し、裁付袴を穿いた二人が「小遣」役の孝とその隣の人物であろう、と推定しています。帯刀を許されなかった少年は、刀の見えない位置に立っていました。

エジプトでは、孝は日本との共通点に目を留めています。「此埃及人は宛然日本人の如く床の上に胡坐をかいて、長い煙管で煙草を喫んで居る」「又日本人と同じであったことは提灯であった、夜は必ず提灯を点けて歩いた」。異国で違いではなく似ているところを探す目は、のちに商人として物を売買するときの目に、そのままつながっていきます。

マルセーユに上陸した一行が息を呑んだのは、街路のガス灯でした。「故に仏国市街は夜も昼の如し、更に灯燈を用うる人なし」と随員の日記は記しています。

しかし孝が最も驚いたのは、明かりではありませんでした。

「その間に驚いたのは四十何人という同勢が、何処の停車場で飯を食うというと、停車場に着いた時分にはちゃんと支度が出来て待って居る。汽車の待合中に食事をするということは電信のあることなど知らぬ時であるから、どうしてそういうことが出来るかと思って驚いた」

先回りして情報が届いている——十七歳の少年を最も揺さぶったのは、通信の速さでした。 のちに彼は、江華島事件の一報を電信で掴んで米を買い越し、経済専門の新聞を自ら創刊することになりました。この驚きは、生涯消えなかったようです。

フランス滞在中、孝は「通弁御用当分御雇益田進」として五十一両の増給を受けました。この待遇を受けたのは彼だけだったと本書はみています。帰国前には、使節三役から署名を求められる十六名の一人に加えられました。小遣として乗り込んだ少年は、士分として認められ、二刀を差すことを許されて帰ってきたのです。


なぜ二十一歳の騎兵頭並は、刀を捨てて横浜へ行ったのか

本書『益田孝天人録』の副題にある「横浜」は、この決断から始まります。

帰国後の孝は、横浜で英語の稽古を続け、フランス軍事顧問団による三兵伝習に応じて騎兵を志願しました。慶応三年から騎兵差図役、騎兵差図役頭取勤方と進み、慶応四年一月二十八日、江戸城内で徳川慶喜から直々に「騎兵頭並」の辞令を受けました。

騎兵惣目付を飛ばした二階級特進です。しかも軍服を着たまま辞令を受け取った初めての例でした。「慶喜公が辞令をお読みになったその声が、底力のある実によい声であった」と、孝は述懐しています。

その一週間前、江戸城内で開かれた和戦の会議で、孝は「名古屋まで出掛けて行って、あの平原で勝敗を決する他にない」と主張しました。賛成する者は一人もいませんでした。「これはとても駄目だと思った」——これが二十一歳の結論です。

五月十四日、上野戦争の前日に、孝は金剛寺坂でえいと結婚式を挙げました。翌日、上野の方角から砲声が聞こえ、戦争が始まったことを知ったと、妹のしげがのちに手記に書いています。新婚の翌朝に、彼が仕えてきた世界が終わりました。

そして五月二十九日、騎兵頭並の御役御免。徳川宗家が駿河へ移ると、幕臣たちは駿河へ移住するか、帰農・帰商するかを選ぶことになりました。孝が選んだのは横浜でした。

理由は義兄の父の一言でした。「私はこの中山のおやじから、横浜はこれからだんだん発展する所で、これからいろいろ面白いことがあるから来いと言われた」

発展する場所へ行く。それだけの理由で、千石取りの中佐は商人になりました。 同じ明治という時代に、国の仕組みと正面から渡り合った事業家に松永安左エ門がいますが、益田孝はその半世紀前の世代として、まだ何の制度もない場所から商いを始めています。

横浜での暮らしは、決して華やかなものではありません。この頃、妻のえいは古着店を開いていました。旧幕臣の福地源一郎が駿河へ様子を見に行く際、妻子を預けた先が益田家で、その妻が古着店をやっていたと本書は伝えています。商人・益田孝の出発点は、妻が開いた古着屋の隣にありました。


五千円を失った汽船が、益田孝に教えたこと

本書『益田孝天人録』は、成功譚だけでなくこの失敗も率直に記しています。

明治二年の夏頃、孝はアメリカ系の貿易商社ウォルシュ・ホール商会に入りました。当時「亜米一」と呼ばれた会社です。入社にあたって、彼は二つの条件をつけました。「西洋人のクラークと同様の価値でなければ困る。また一年くらいにしてもらいたい」

給料は外国人と同額に。期間は一年でよい。最初から、腰掛けではなく修業として入ったことがわかります。

この一年で、孝は何を得たのか。本人の言葉が残っています。

「折柄米の大凶作で、ウォールシ・ホールはベヤという店員を海外に派遣して、ラングーン米やサイゴン米を輸入した。これで私は米の商売がわかり、また外国から直接に物を輸入する手続きもわかった。手紙をコピィに取ることなぞも覚えた。この時のことが後来私に大変役立った」

米の商売、輸入の手続き、そして書類の複写。のちに三井物産の最初の半年で取扱高の四割を占めることになる米穀の商いは、この一年の観察から始まっています。

在職中、孝はもう一つの仕事に関わりました。庄内藩が蒸気船を欲しがっているという話を掴み、買い付けを周旋したのです。船は「善宝丸」と名づけられました。

ところが最初の航海で、痛い目に遭いました。明治三年、米を積みに伊勢の四日市へ向かったところ、凶作で米価が高騰しており、領主が津止め——米の移出入の停止——を命じていたのです。「買った米を他領へ出すこと出来ぬので大困りした」。

手詰まりになった孝は、思いがけない手を打ちました。汽船が珍しいというので見物人が押しかけてきたのを見て、観覧料を取って船を見せたのです。「小舟へ毛氈を敷いて、なかなか盛んに見に来た」。天保銭が数十樽たまったといいます。しかし本業は動かず、切干大根を買って東京へ帰りました。「これで五千円損した」。

損はしましたが、この経験は無駄になりませんでした。船を買いたい人を見つけ、資金の保証先を米穀問屋に求め、商品の売り先まで組み立てる——本書はこの一連の動きを、いまでいう産業オルガナイザーの役割だったと評しています。取引そのものより、取引の仕組みを作る側に立つ。この立ち位置は、以後ずっと変わりません。

同じ頃、孝はもう一つ先を行く提案をしています。明治三年、廻漕会社の頭取として、「海上受合会社」の元金下付を願い出たのです。日本の船はたびたび難破するのに「請合」の仕組みがなく、大金が海底の藻屑になっている。西洋では船を点検したうえで会社に請け合わせ、年々船代の一割二分を納めれば、破船しても代価が払われる——そういう趣旨でした。

日本初の海上保険会社が生まれるのは、この願書のおよそ九年後です。主張は取り上げられずに終わりましたが、時期尚早の提案を二十三歳で出していたことになります。なお、のちに東京海上保険会社の設立に協力し、支配人・監査役を務めたのは、孝の弟の益田克徳でした。


なぜ井上馨は、二十五歳の商人を造幣寮の次席に据えたのか

明治五年、孝の人生に井上馨が現れました。

出会いは偶然に近いものでした。造幣寮や金銀分析所の仕事を通じて互いに存在は知っていましたが、井上は孝と話すうち、この男を使おうと決めたようです。三月二十八日に大蔵省四等出仕、その十日後の四月八日には造幣権頭——大阪の造幣寮でナンバー2の職を与えられました。二十五歳の、つい先頃まで横浜の商人だった男が、です。

『井上公伝』は、造幣寮では外国人技師と日本の官吏との間がとかくうまくいかず、井上は英語ができて外国人と渡り合える人物を探していた、と説明しています。孝本人も「私を造幣権頭にしたのであろう」と、同じように受け止めていました。

就任から二か月足らずの六月四日、明治天皇が造幣寮に行幸しました。このとき明治天皇は二十二歳、迎える造幣寮の最高責任者は二十五歳の益田孝でした。

しかし、この官職は長くは続きませんでした。翌明治六年五月、大蔵省の実権者だった井上馨が渋沢栄一とともに辞任すると、孝も辞表を出し、六月十七日付で免官となりました。引き上げてくれた人物が去るとき、一緒に去る。この身の処し方は、以後の彼の人間関係を貫いています。

のちの時代に、企業の経営者でありながら国の仕組みそのものに切り込んだ人物として土光敏夫がいます。官と民のあいだを行き来した経験が、その後の判断を支えるという点で、益田孝はその先駆けにあたる一人でした。


「猗頓」と渾名された会社は、なぜ二年半で消えたのか

本書『益田孝天人録』の後半は、この二年半の助走に多くのページを割いています。

官を離れた井上馨は、明治六年八月、横浜の商人・岡田平蔵の勧めで東北の鉱山視察に出発しました。同行者のなかに益田孝がいました。「その年の八月に、井上さんが東北地方の鉱山を視察に行くからと言うから」——一行は馬に乗って旅を続けましたが、騎兵頭並だった孝にとって乗馬はお手のものでした。

この旅を経て、明治七年一月一日、井上馨を総裁、岡田平蔵を社長、益田孝を頭取とする「岡田組」が発足しました。資本金は十五万円。規則には「此商会ハ万邦交通ノ一大商業ヲ開キ専ラ皇国ノ物産ヲ外国ヘ配賦シ」と、はじめから貿易商社の志が書き込まれていました。

ところが発足からわずか二週間、一月十四日に岡田平蔵が大阪で急死してしまいました。社名は変転し、三月一日に「先収会社」の名で落ち着きました。本店は東京、支店は横浜・大阪・神戸。東京本店の頭取が益田孝です。

先収会社の商いは、輸出が米、のちに生糸と茶。輸入が武器、羅紗、米、肥料、古銅。とりわけ米穀が大きな比重を占めました。ロンドン向けに米約七千石を外国船二隻以上で積み出すことに成功したと『三井物産沿革史』は記録しています。

輸入では武器が双璧の一つでした。イギリスからスナイドル銃を輸入して陸軍に納めたのです。孝は「これが西南戦争の時大いに役立った」と語っていますが、本書の著者は注文数について「十万挺の注文数は別として」と留保を付けており、数量は確定できません。

孝の『備忘録』には、両国の武庫で入荷した銃を検分する記録が残っています。「ナル程多く之内筒ノ内疵アルアリ、又表ニ顕ルゝアリ、照尺不合之分アリ」——傷や照準の狂いを一挺ずつ見て、後から着いた二百箱四千挺のうち二箱を開けて検査し、「此銃者美事ニシテ決シテ申分ナシ」と確かめています。書類の上で商いを済ませず、現物を開けて見る。この手つきは、のちの三池炭の視察にもそのまま現れています。

明治八年三月、『横浜毎日新聞』が名士・名社にあだ名をつける記事で、先収会社に「猗頓」の名を与えました。中国・春秋時代の大富豪の名です。年の暮れには『東京日日新聞』が「勢ひの能い者は三菱商会に先収社と大倉組」と書きました。設立から二年足らずで、三菱と並べて語られる会社になっていたのです。

同年九月、孝は一本の電信を掴みます。江華島事件の第一報でした。『備忘録』にはこう書かれています。「是ニ於テ歟我輩等の着手ハ先ツ米ニ在リ」。ここから米の買い越しが始まりました。パリの停車場で驚いた通信の速さを、彼はこうして使いました。

しかし、その先収会社は長続きしませんでした。井上馨が官界に復帰する意向を固めたためです。明治九年、井上は先収会社の閉社を決めました。


二十九歳の総括が、三野村利左衛門に告げた一線

本書『益田孝天人録』の核心が、この三野村利左衛門との約定です。

閉社の話が漏れると、しきりに井上のもとを訪れる人物がありました。三井組の三野村利左衛門です。三井の商業を担当してほしい、と繰り返し迫りました。

井上は乗り気ではありませんでした。三井は旧家で譜代の家臣も多く、新たに他人を入れてもうまくいく見込みは薄いだろう、と。孝自身も、はじめは惜しんで問い返しもしませんでした。

この時期、孝は自分の身の振り方を決めかねています。四月十一日から十六日にかけて横浜から箱根、熱海をめぐった旅の途中、彼は考えを固めました。『備忘録』にはこうあります。

「たとえ井氏に随従して欧行ヲ許サルルモ世の決シテ取ラサル処ニシテ、井氏の為ニモ又己レ之為ニモ却テ不可ナラン、寧退隠シテ一両年ヲ健康ヲ養フカ、或ハ再ヒ商事ニ従テ努力スルニシカス」

井上について洋行するのは、井上のためにも自分のためにもならない。ならば隠居して養生するか、もう一度商いに戻るか。二十九歳の決断でした。

五月一日、井上邸で孝は三野村と会い、望むところを書き出して約定を交わしました。そこには「此会社ハ新ニ組立ルモノニシテ、従来ノ三井組トハ全ク身代ヲ異ニスルモノナリ」と明記されました。三井の暖簾は借りるが、身代は切り離す。この一線が引かれたうえで、益田孝を「会社ノ惣括」とすることが取り決められました。

そして孝が三野村に告げた核心が、次の言葉でした。

「私は三野村に、コミッション・ビジネスでなければいけない、売と買との組み合せ商売でなければならぬ、自分で危険を負担するような商売をしてはいけない、思惑をしてはならぬと言うた」

自分で相場を張らない。売りと買いを組み合わせて、手数料で立つ。この考えはそのまま社則に書き込まれました。第一条第一節は「専ラ他人ノ依頼ヲ受ケテ物産ヲ売捌ク事ヲ務メ、或ハ買収シテ其手数料ヲ得ル、即チ問屋欧州謂フ所『コムミツシヨンエジェンシー』ノ商売ナリ」。そして条文中で最も多くの分量を割いた第八条は、「尤空相場、見込商及他人ノ為メニ危険ノ損害ヲ受合フ等、一切ナスヘカラス」と釘を刺しています。

空相場を張るな、見込みで商うな。創業の規則で最も長く書かれたのが、やってはいけないことの列挙でした。禁じ手を先に決めるという発想は、時代を超えて経営者の言葉に繰り返し現れます(経営者の名言まとめ)。

会社の目的を謳った緒言も印象的です。「国各産スル所ノ者アリ、民各作ル所ノ者アリ、然而我余ル所ヲ以テ彼カ足ラサル所ニ供シ、彼ノ多キ所ヲ以テ我少キ所ニ足ス、是此ヲ商家ノ真法ト為スヘシ」。余っているところから足りないところへ渡す、それが商家の真法である——十六歳でエジプトの提灯に日本を見た少年が、三十を前にして書いた商いの定義でした。

明治九年七月一日、三井物産が業務を開始しました。本店を坂本町四番地に定めたのは翌二日。当時の使用人は十六名でした。孝の肩書は「総括」で、正式に社長と改めるのは明治十三年三月一日からです。


三池の安宿で、七輪の石炭を焚いてみた男

本書『益田孝天人録』の副題どおり、三井物産の誕生はここに至って完結します。

発足から十日あまり、孝はもう次の仕事に取りかかっていました。三池炭です。

工部卿の伊藤博文から「今度益田が三井物産会社というものを創立して外国貿易をやるそうだから、三池炭鉱の石炭の販売を益田に引受けさせるのがよい」と話が来ていました。孝は七月十二日に横浜を船で発ち、十八日に三池到着。馬関まで汽船、門司から先は人力車を走らせる強行軍です。

泊まったのは、頭がつかえるような低い天井の二階でした。「下が風呂で、塩浜の水夫だの何だのその辺の人がみなその風呂へ入りに来る」というような宿です。

そこで孝がしたことが、この人らしいのです。

「まず石炭を焚いてみようじゃないかというて、属僚に石炭を持って来させて、下から七輪を借りて来て焚いてみた。煙がツーと立つ。窓をみな明け放して、団扇で煽ぐとよく燃えて灰になってしまう。ボイラーで本当に焚く時にはフォーストドラフトを送るのだからよく燃えるだろう。これなら大丈夫、よろしい、引受けようと決心した」

安宿の七輪で石炭を焚いて、それで一手販売を引き受けると決めた。三池炭の一手販売権を政府から得たのは、七月三十一日のことです。創業一か月の会社が、国の炭鉱の販売を担うことになりました。

その年の十二月二日、孝はもう一つのものを世に出しました。『中外物価新報』です。内務省の河瀬秀治から「商業上の通信がちっとも来なくて困っている。商業上の知識を普及する新聞を作れ」としきりに勧められ、「よろしゅうござります、作りましょう」と応じました。発行所は兜町六番地の三井物産会社内、週刊、一部五銭、創刊時の部数は五百七十部。

この新聞がのちに『中外商業新報』と改題され、現在の『日本経済新聞』になりました。 日本の商品を世界に売り込んだ後年の経営者に盛田昭夫がいますが、その市場に必要な価格情報の土台は、益田孝が創刊したこの週刊紙から始まっていました。

三井物産の最初の半年、七月から十二月までの取扱高は五十四万五千円、利益金は八千円に満たない額でした。取扱高の内訳を見ると、米穀が四割強を占めています。横浜の「亜米一」で覚えた米の商売が、そのまま新会社の柱になっていました。

本書にはほかにも、佐渡奉行所の地役人の家格や町割の考証、幕末の遣仏使節に随行した若者たちの群像、東洋銀行との百万ドルをめぐる三井組の危機など、この記事では触れきれなかった記述がたくさん収められています。


益田孝のこだわりとは?

益田孝の人となりは、彼が身につけた習慣によく表れています。

一つは、銃猟です。『備忘録』には明治八年から九年にかけて、たびたび銃猟に出かけた記録が残っています。明治九年の元旦は午前七時の汽車で外国人の知人と多摩川へ向かい、二日、三日と続けて出かけました。長男が生まれて三か月余、風邪で診察を受けた翌日にも出かけているのですから、相当なものです。馬と銃は、騎兵頭並だった頃からの続きでした。

もう一つが、帳簿への執着です。横浜の商会で「手紙をコピィに取ること」を覚えた彼は、その後も学び続けました。明治十一年九月から翌年十月末まで、造幣寮時代からの知人であるブラガという簿記の専門家を「私雇」として、記簿法の教導を受けています。すでに三井物産の総括だった三十代の男が、私費で簿記の家庭教師をつけていたのです。

そしてです。益田孝は明治四十一年十二月一日から「鈍翁」の号を用いました。本書の冒頭で著者は、茶を愛して鈍翁と号し、九十一歳まで長寿を保った人物として彼を紹介しています。

食べ物についても、はっきりした記憶を残しています。北海道の漁場で嗅いだ鰊の匂いを「今でも気持がよい」と言い、甘いものではなく乾した鱈や生の胡瓜をかじって育ったことを「これは身体によかったと思う」と振り返りました。

さらに一つ。少年時代に北海道で食べたアララギの実を、彼は大正時代まで覚えていました。鉛筆製造所を見に行った際、軸材が「オンコ」ではないかと聞いて相手を驚かせたといいます。オンコとはアララギの地方名です。五十年以上前に口にした木の実の名を、現場で言い当てる。そういう記憶の持ち主でした。


益田孝ゆかりの地とは?

益田孝の足跡は、日本列島を南北に大きく横切っています。

佐渡・相川(新潟県)。相川金山の奉行所役宅で生まれた土地です。生家があったのは奉行所正門から東へ延びる弥十郎町通りと推定されています。平成十三年八月二十九日、相川町に「鈍翁益田孝碑」が除幕されました。三井物産、三井住友銀行、日本経済新聞社が費用を負担しています。本家の菩提寺である大乗寺には、「明治四十三年一月東京品川御殿山益田孝改建立」と刻まれた先祖代々之墓があります。

川汲(北海道)。父が銀山開発を担当し、一家で移り住んだ漁場です。孝が鰊の匂いを覚えたのはこの海辺でした。現在は函館市の一部で、昆布の産地として知られます。

横浜(神奈川県)。アメリカ公使館詰めとして初めて足を踏み入れ、士族と決別してから商人として立った土地です。ウォルシュ・ホール商会に勤め、庄内藩の汽船を周旋し、廻漕会社の頭取を務めました。本書の第五章から第七章は、もともと『かながわ風土記』に「横浜と益田孝」として連載されたものです。

銀座四丁目(東京都)。先収会社が煉瓦造二階建の角地を購入して本拠とした場所で、現在は教文館ビルが建っています。「煉瓦楼上に大旗を掲げ」たと当時の新聞は伝えました。

日本橋兜町(東京都)。三井物産が創業の年に三度も移転を重ねた界隈です。『中外物価新報』の発行所も兜町六番地に置かれました。

ゆかりの地をたどる旅を考えている方は、経営者の記念館・生家44か所もあわせてご覧ください。相川の「鈍翁益田孝碑」のように、経営者の足跡は静かな場所にこそ残されています。


益田孝から学ぶ3つの教訓とは?

一つめは、「発展する場所へ行け」ということです。

騎兵頭並という千石取りの地位を捨てて、益田孝が横浜を選んだ理由は単純でした。義兄の父から、横浜はこれからだんだん発展する所だと聞いた、それだけです。しかし彼は、そこで英語を使い、外国商社に入り、汽船を周旋し、やがて商社を興しました。変化が起きている場所に身を置くこと自体が、能力を作ります。

二つめは、「一年でいいから、本物のなかで働け」ということです。

ウォルシュ・ホール商会に入るとき、彼は給料を外国人と同額にすることと、期間は一年でよいことの二つを条件にしました。そしてその一年で、米の商売と輸入の手続きと書類の複写を覚えました。期間の長さではなく、そこで何を持ち帰るかを最初から決めていたのです。この一年がなければ、三井物産の最初の半年の取扱高の四割を米が占めることもなかったでしょう。

同じように、貿易の現場で外国の大手を相手に商いを覚え、のちに自分の会社を興した経営者に出光佐三がいます。他人の商売のなかで、自分の商売の設計図を描いていたという点は共通しています。

三つめは、「やらないことを、最初に決めよ」ということです。

三野村利左衛門に対して益田孝が真っ先に告げたのは、何をやるかではなく、何をやらないかでした。自分で危険を負担しない、思惑をしない。三井物産の社則で最も長く書かれた条文も、空相場や見込み商いの禁止でした。四日市で五千円を失った男が、会社の設計図にまず書き込んだのは、損の出る道を塞ぐ設計だったのです。


この記事で語りきれなかった『益田孝天人録』の魅力

本書には、この記事で触れきれなかった読みどころがまだ多く残されています。

一つめは、弟・益田克徳の救出劇です。克徳は榎本艦隊に稽古人として乗り組み、宮古湾海戦の失敗後に捕らえられて、江戸の糾問所に入牢しました。讃岐へ流罪になると聞いた孝が、荒れる海を渡る和船から弟を奪い返そうと計画するくだりは、この本のなかでも屈指の緊迫した場面です。

二つめは、横浜の顔役・高島嘉右衛門をめぐる群像です。高島は「多少気骨のある者」を選んで十四人を客分として旅館に招き、そのなかに益田孝と矢野次郎の名がありました。大隈重信と伊藤博文が訪れ、鉄道敷設の話が転がり出すまでの一連の経緯は、明治初年の人脈の生々しさを伝えています。

三つめは、幕末外交の細部です。アメリカ公使館の焼失と横浜移転、鎖港談判の九回にわたる交渉と「パリ約定」、そして帰国後に使節三役が受けた蟄居・逼塞・閉門の処分。少年の益田孝がその現場の隅に立っていたことが、当時の記録から一つずつ確かめられていきます。

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まとめ

佐渡の下級役人の家に生まれた徳之進という少年は、父の転勤で北海道へ渡り、そこで英語に出会いました。名前を変えて乗り込んだ遣仏使節の船で通信の速さに驚き、二十一歳で刀を捨てて横浜の商人になりました。外国商社での一年で米の商売を覚え、汽船で五千円を失い、造幣寮の次席を務め、三十を前に三井物産の総括となりました。

その出発点にあったのは、思惑で相場を張らないという一つの約束でした。 手数料で立つ商いを選び、やってはいけないことを社則の最も長い条文に書き込んだ男の、二十九年間の実学の記録です。

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よくある質問(FAQ)

Q. 益田孝とはどんな人物ですか?

嘉永元年に佐渡・相川の奉行所役宅で生まれた実業家です。幕臣として騎兵頭並まで進みましたが、明治維新で士族と決別して横浜の商人になりました。明治9年に三井物産を発足させ、二十九歳で初代総括に就任しています。昭和13年に小田原で亡くなりました。

Q. 益田孝はなぜ三井物産を「コミッション・ビジネス」にしたのですか?

自分で相場を張ると損を負う危険があるためです。売りと買いを組み合わせ、他人の依頼を受けて売買して手数料を得る形なら、会社が危険を抱え込まずに済みます。三井物産の社則には、空相場や見込み商いの禁止が最も長く書き込まれました。

Q. 益田孝と日本経済新聞にはどんな関係がありますか?

明治9年12月2日、益田孝が三井物産会社内で『中外物価新報』を創刊しました。内務省の河瀬秀治から商業知識を普及する新聞を作るよう勧められたのがきっかけです。この新聞がのちに『中外商業新報』と改題され、現在の『日本経済新聞』になりました。


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参考文献:松永秀夫『益田孝天人録—横浜で実学を修め三井物産の誕生へ』(新人物往来社、2005年)