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「私がスターバックスを作ったのは、父が決して働くことのできなかった会社を作りたかったからだ」
ハワード・シュルツさんは、そう語っています。
1961年1月の寒い日。7歳の少年は、足首を骨折して職場で解雇された父親が、ギブスをはめたまま長椅子にうずくまっている姿を目に焼き付けました。医療保険なし、失業手当なし、頼れる人もなし。借金取りからの電話には「両親は留守です」と答えるよう言い含められていた。母は7カ月の身重で働けず、夕食の卓上で両親がお金のやりくりを相談する声を黙って聞いていた子ども時代。
「私の脳裏には、仕事もできず、収入もなく、世間から見捨てられたまま、足にギブスをはめて長椅子にうずくまっていた父の姿が鮮明に焼き付いている」
ブルックリンの国営低所得者共同住宅で育ったその少年は、やがて世界最大のコーヒーチェーンを作る経営者になります。
本書『スターバックス成功物語』(原題:Pour Your Heart Into It)は、シュルツさんがいかにしてスターバックスを6店舗から世界規模のブランドへと育て上げたかを語った自伝的経営書です。コーヒーの品質への徹底したこだわり、パートタイマーにも医療保険を与えた決断、「第三の場所」というビジョン——その根底にあったのは、父親への誓いでした。
目次 表示
- ハワード・シュルツさんの基本プロフィール
- ミラノのエスプレッソバーで人生が変わった日
- 242人に断られながら資金を集めた1年間
- 「父が働けなかった会社を作る」——パートタイマーへの医療保険
- 「第三の場所」——家でも職場でもない空間を作る
- 「ウォール街が評価するのは価格であって、価値ではない」——1992年のIPO
- 「成長しても、小さなときの心で」——人間の顔を失わない拡大とは
- ハワード・シュルツさんのこだわり
- ハワード・シュルツさんゆかりの地
- ハワード・シュルツさんから学ぶ、3つの教訓
- この記事で語りきれなかった『スターバックス成功物語』の魅力
- まとめ|ハワード・シュルツさんが教えてくれること
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ハワード・シュルツさんの基本プロフィール
| 氏名 | ハワード・シュルツ(Howard D. Schultz) |
| 生年 | 1953年7月19日、米国ニューヨーク州ブルックリン生まれ |
| 学歴 | ノーザンミシガン大学(フットボール奨学金) |
| 経歴 | ゼロックス→ハマープラスト社(スウェーデン家庭用品会社)マーケティング本部長→1982年スターバックス入社→1983年イル・ジョルナーレ設立→1987年スターバックス買収→1992年株式公開→2000年CEO退任→2008年CEO復帰→2017年退任→2022年暫定CEO→2023年退任、現在名誉会長として活動 |
| 主な実績 | スターバックスを6店舗から世界80カ国4万店舗超に拡大。パートタイマーへの医療保険・ストックオプション導入。「第三の場所」コンセプトの確立。IPO(1992年)で時価総額2億7100万ドル |
| 著書 | 『スターバックス成功物語』(日経社)原題:Pour Your Heart Into It(ドリー・ジョーンズ・ヤングとの共著) |
ミラノのエスプレッソバーで人生が変わった日
1982年、ニューヨークでスウェーデンの家庭用品会社のマーケティング本部長を務めていたシュルツさんは、シアトルの小さなコーヒー豆販売店が自社製品を大量に注文していることに気づきます。不思議に思って店を訪ねると、それがスターバックスでした。
コーヒーへの情熱と知識に圧倒されたシュルツさんは、スターバックスへの転職を希望します。給料は大幅に減少しましたが、「スターバックスの未来の一部を手にした」という確信がありました。
翌1983年、シュルツさんはイタリア・ミラノの文房具展示会に出張します。そこで目にした光景が、その後の人生をすべて変えました。
「ミラノのエスプレッソ・バーでは、バリスタが客と冗談を言い合いながら、まるでアーティストのようにエスプレッソを作っていた。客は毎朝決まった店に来て、馴染みのバリスタに挨拶する。コーヒーは単なる飲み物ではなく、日常の儀式であり、出会いの場だった」
シアトルでもこれができる——シュルツさんは確信しました。コーヒー豆を売るだけの店ではなく、イタリアのエスプレッソ・バーのように人々が集まる場所を作れる。それが後に「第三の場所」と呼ばれるコンセプトの原点です。
しかし、スターバックスの共同経営者たちはこのアイデアに乗り気ではありませんでした。「リスクが大きい。あまりに革新的だ」という言葉で断られます。
「まるで結婚式の途中で新郎に逃げられた新婦のような心境だった」
シュルツさんは諦めませんでした。翌日、もう一度電話をかけます。「ジェリー、あなたはとんでもない間違いを犯していますよ」——そう言い切り、長時間の説得の末、参加を認めてもらいます。
「一生のうちにニアミスは何度もある。幸運とは計画の副産物だ。しかし、幸運が訪れても準備をしていなければ活かすことができない」——本書『スターバックス成功物語』のこの一節に、シュルツさんの行動哲学が凝縮されています。
242人に断られながら資金を集めた1年間
1985年、スターバックスを離れたシュルツさんはイタリア式のエスプレッソ・スタンド「イル・ジョルナーレ」を独立して開業する計画を立てます。
問題は資金でした。
「私は一年かけて、242人と会った。そのうち217人はノーと言った」
拒絶される理由はさまざまでした。「コーヒー・ビジネスで成功できるはずがない」「実績がない」「アイデアが革新的すぎる」。しかしシュルツさんは「不可能を証明することは不可能だ」という信念を持ち続け、諦めませんでした。
「悲観的な人間には大企業は築けない」——本書の章タイトルにもなっているこの言葉が、この時期のシュルツさんを象徴しています。
1986年4月、イル・ジョルナーレはシアトルに1号店をオープン。本物のエスプレッソを提供するこの小さな店は、シアトルのビジネスパーソンたちの間で瞬く間に人気を集めました。
1987年、スターバックスが売却されることになります。シュルツさんは必死に投資家を集め、約400万ドルでスターバックスを買収。イル・ジョルナーレとスターバックスを合併させ、「スターバックス」の名前の下に新たな会社をスタートさせます。この時点での店舗数は6店舗でした。
「父が働けなかった会社を作る」——パートタイマーへの医療保険
スターバックスが急成長を遂げていた1988年、シュルツさんは取締役会に対して異例の提案を行います。
「パートタイマーを含むすべての従業員に、医療保険を提供したい」
当時、小売業ではパートタイマーへの医療保険はほぼ存在しませんでした。利益が出ていない段階での経費増加に、取締役たちは一斉に反発します。「どうして社員にそんなに気前がいいんだ。われわれの金なのだよ」。
シュルツさんは本書でこう語っています。「社員を家族のように扱えば、社員は誠実に働き、もてる能力のすべてを発揮してくれる。会社が社員を支えれば、社員も会社を支えるようになる」。
そして彼は経営の観点からも説明します。当時の小売業・ファーストフード業界では年間離職率が150〜400%に達していました。スターバックスは新入社員一人当たり3000ドルの研修費用をかけています。医療保険にかかる費用は一人当たり最大1500ドル——つまり、離職率を下げれば投資以上の効果が得られます。
取締役会は最終的に承認しました。1988年末、スターバックスは当時の株式非公開企業として初めて、全パートタイマーに正社員と同レベルの医療保険を提供します。
「私の知るかぎり、株式を公開していない企業でこうした措置を取ったのはスターバックスだけだった」
この決断の真価は、数字だけではわかりません。シュルツさんが書いているように「会社が社員を優遇すれば、社員は何事にも積極的な姿勢で臨むようになる」——スターバックスの接客文化の根幹が、ここに生まれました。
「第三の場所」——家でも職場でもない空間を作る
本書『スターバックス成功物語』でシュルツさんが繰り返し語る言葉があります。
「第三の場所(サードプレイス)」
家が第一の場所、職場が第二の場所だとすれば、人々が自然に立ち寄り、くつろぎ、顔見知りと話ができる第三の場所——それがスターバックスだというビジョンです。
ミラノで見たエスプレッソ・バーの光景がその原型でした。バリスタが客の名前を覚え、好みのコーヒーを用意し、日常の挨拶を交わす。コーヒーという飲み物を売るのではなく、「コーヒー体験」という場を提供する——これがスターバックスをただのカフェチェーンとは異なるものにした核心です。
「スターバックスに入ると、暖かく迎えられ、豊かな香りに包まれ、自分だけのために作られたドリンクが手渡される。その瞬間に感じるものは何か——それは、もてなしであり、コミュニティであり、人とのつながりだ」
この「第三の場所」の哲学は、店舗のインテリアにも徹底されました。本書の後半では、光、火、水、風の四元素をコーヒー作りの四段階(育てる・焙煎する・入れる・香りを楽しむ)に関連づけた独創的な店舗デザインの開発が描かれています。どの店も画一的ではなく、地域の空気感に溶け込む空間を目指しました。
コーヒーという日常の飲み物で世界を変えた経営者と、麺類という日常食で世界を変えた経営者には、共通する信念があります。
「ウォール街が評価するのは価格であって、価値ではない」——1992年のIPO
1992年6月、スターバックスは株式を公開します。時価総額2億7100万ドル。これを元手に店舗数を一気に拡大させます。
しかしシュルツさんが最も注意していたのは、株式公開が会社の文化を壊すことでした。
「ウォール街が評価するのは企業の価格であって、価値ではない」
短期的な株価や四半期利益のために、長年かけて築いてきたコーヒーの品質への執着心や社員への姿勢を妥協することは許されない——それが一貫したシュルツさんの立場です。
「賢い人間を恐れるな」という章タイトルが示すように、シュルツさんは優秀な人材を積極的に採用し、権限を委ねることを恐れませんでした。「自分が苦手とする分野のプロを探し、その人物に権限を与え、自分は戦略に集中する」。
1990年代に入ると、ペプシコとの合弁でボトル入りコーヒー飲料の開発、ユナイテッド航空との提携、空港・ホテル・書店へのライセンス展開と、スターバックスの事業は急速に多角化します。
しかしどの展開においてもシュルツさんが守り続けたのは、コーヒーの品質でした。ライセンス先の選定基準として使われた質問がこれです——「コーヒーを一時間バーナーにかけっ放しにしていたところへ、お客さんが来た。あなたはすぐコーヒーを出しますか?」。「はい」と答えた企業とは契約しませんでした。
「成長しても、小さなときの心で」——人間の顔を失わない拡大とは
本書『スターバックス成功物語』の終盤で描かれるのは、成長することとブランドの本質を守ることの緊張です。
女優がコメディ番組でスターバックスを揶揄した——「スターバックスったら私のリビングルームに店を開いたのよ」。シュルツさんはこの皮肉に苦笑しながらも、それを広告に使いました。「スターバックスの店を出すには絶好の場所だわ」。
しかし同時に深刻に問い続けていました。店舗数が増えれば増えるほど、「第三の場所」という体験を維持することはどんどん難しくなる。コーヒーを大量販売するチェーン店になってしまえば、スターバックスが大切にしてきた「コミュニティの感覚」は失われる。
「企業の改革は自分の改革から」——これも章タイトルになっている言葉です。外に向けた変革を続けるには、内に向けた自己変革を止めてはならない。会社が成長するにつれて、自分自身も変化し続けなければならない——シュルツさんはCEOとして、この命題と戦い続けます。
2008年、スターバックスが業績不振に陥ると、シュルツさんは8年ぶりにCEOに復帰します。全米のすべての店舗を一時閉鎖してバリスタを再訓練するという前例のない施策を断行しました。「コーヒーへの情熱を取り戻せ」——それがメッセージでした。
ハワード・シュルツさんのこだわり
本書『スターバックス成功物語』を通じて、シュルツさんという経営者の核心が見えてきます。
「真心で指導せよ」——本書の最終章タイトルです。社員への姿勢、顧客へのサービス、コーヒーの品質、すべてに共通するのは「形式ではなく真心」だという信念です。エイズにかかった最古参の社員ジムが余命宣告を受けたとき、シュルツさんは彼に仕事を続けさせ、医療費を会社全額負担で支援しました。「医療保険制度の真価をとりわけ強く実感したのは、ジムを失ったときだった」。
「コーヒーに妥協しない」——「コーヒーを一時間バーナーにかけっ放しにしたお客様に出すか?」という質問を、提携先の選別に使い続けたことが象徴します。どんなに事業が拡大しても、コーヒーの品質を落とすことは「スターバックスの魂を売ること」であり、それだけは絶対に許しませんでした。
「ビジョンを語り続ける」——242人に断られながら資金を集め、スターバックスの共同経営者に2回断られながら粘って入社し、株式公開でウォール街の圧力と戦い続けた——シュルツさんが一貫して持ち続けたのは、「長期的なビジョン」と「それを語り続ける力」です。「悲観的な人間には大企業は築けない」という言葉は、コーヒー1杯の向こうに世界を見続けた経営者の宣言です。
ハワード・シュルツさんゆかりの地
シアトル(スターバックス誕生の地):1971年にパイク・プレイス・マーケットに開いたコーヒー豆販売店が原点。「今も世界で最も訪問者が多いスターバックス」として現在も営業中です。1987年に6店舗だったものが、シュルツさんの経営の下でシアトルから全米へ、全米から全世界へと広がりました。シュルツさんが40年以上を過ごし、スターバックスと共に歩んだ街です。
ミラノ(ビジョンが生まれた街):1983年の出張で目にしたイタリアのエスプレッソ・バー文化が「第三の場所」というコンセプトの原点です。「コーヒーはイタリア人にとって音楽のような存在だ」という章タイトルが示すように、ミラノでの体験がその後のスターバックスの哲学のすべてを方向づけました。
ブルックリン(父親との原点):国営低所得者共同住宅「ベイビュー・プロジェクト」で育ったシュルツさんにとって、ブルックリンは「逃げ出したい場所」であると同時に、すべての経営判断の根底にある「動機の場所」です。父親がけがで職を失い、医療保険も失業手当もなかったあの日の記憶が、「父が働けなかった会社を作る」という誓いになりました。
ハワード・シュルツさんから学ぶ、3つの教訓
1. 「社員は経営の道具ではない」——福利厚生は投資である
パートタイマーへの医療保険は、感情論ではなく経営戦略として提案されました。離職率を下げれば採用・研修コストが下がり、接客の質が上がり、顧客のリピート率が高まる——これは正しい投資であるという経営的論理がありました。「会社が社員を支えれば、社員も会社を支える」という原則は、感傷ではなく実績で証明された命題です。スターバックスのバリスタ離職率が業界平均の3分の1以下だったという事実が、すべてを物語っています。
2. 「幸運とは計画の副産物だ」——準備した者にしか幸運は訪れない
242人に断られながら資金を集め続けた1年間。重要なのは断られた回数ではなく、「それでも続けた」という事実です。「人生はニアミスの連続だ。われわれが幸運と見なしていることは実は単なる幸運ではない。幸運が訪れても、準備をしていなければ活かすことができない」——この言葉は、スターバックスという奇跡的な成長への事後解釈ではなく、シュルツさんが若い頃からの信念として持ち続けたものです。
3. 「月並みのチェーン店にはならない」——成長と本質の両立という永遠の課題
店舗数が増えるほど「第三の場所」という体験の維持は難しくなる——この矛盾は、あらゆるサービス業が直面する本質的な課題です。シュルツさんが取ったアプローチは、妥協ではなく「基準を手放さない」ことでした。2008年の業績不振時に全店一時閉鎖を断行したのも、この信念の実践です。「期待されたことをやるだけでは、期待以上の成果を上げることは不可能だ」——品質への執着は、競合を意識したものではなく、自分たちが作りたい世界への誠実さから来ていました。
この記事で語りきれなかった『スターバックス成功物語』の魅力
本書には、まだ紹介しきれていないエピソードが多くあります。
一つ目は、エイズで失ったバリスタ・ジムの話です。スターバックスの最古参社員でイル・ジョルナーレ時代から働き続けたジムが、病状が悪化して仕事を辞めなければならなくなったとき、シュルツさんは医療費を会社が全額負担することを決めました。そしてジムが亡くなるまでの間、会社が家族として寄り添い続けた。「この制度の真価を最も強く実感したのは、ジムを失ったときだった」——医療保険の話が「人への愛情」の話だったことを、このエピソードが証明しています。
二つ目は、フットボール奨学金で大学に進んだ話です。ブルックリンの貧しい国営住宅から抜け出すために必死でフットボールに打ち込み、シュルツさんはノーザンミシガン大学からスカウトされます。「家を出るための切符はスポーツしかなかった」——この体験が、後に採用の際に「スポーツ経験者」を重視するシュルツさんの傾向につながっています。
三つ目は、ディブ・オルセンとのコンビの話です。シュルツさんが「外向きのビジョンと情熱とカリスマ」を担ったのに対し、コーヒーの専門家ディブは「内部品質とバリスタ育成とコーヒーの良心」を担いました。「私の長所は外向的で投資家の意欲をあおり、未来を企画する能力だ。ディブはコーヒー店の経営とコーヒーの品質管理に長じている」——この補完関係こそが、スターバックスの品質とスケールを両立させた核心でした。
まとめ|ハワード・シュルツさんが教えてくれること
父親が足首を骨折して解雇された日の記憶。ミラノのエスプレッソ・バーで感じた衝撃。242人に断られながら集め続けた資金。パートタイマーにも医療保険を与えた決断——これらはすべて、一本の線でつながっています。
「父が決して働くことのできなかった会社を作りたかった」
スターバックスが単なるコーヒーチェーンではなく「人々が集まる第三の場所」として愛されている理由は、その根底にある「人への誠実さ」にあります。コーヒーの品質への執着も、社員への待遇も、店舗のデザインも、すべては「人」を中心に据えた経営から生まれました。
本書『スターバックス成功物語』は、コーヒービジネスの話でありながら、もっと深いところで「どんな会社を作りたいか」という問いに答えを持ち続けることの重要性を語っています。ぜひ手に取ってみてください。
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参考文献:ハワード・シュルツ、ドリー・ジョーンズ・ヤング著、小堀照雄・大川修二訳『スターバックス成功物語』(日経社)
