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なぜ被災地の港町で、15万円の手編みカーディガンを売る会社が生まれたのか|御手洗 瑞子『気仙沼ニッティング物語』

なぜ被災地の港町で、15万円の手編みカーディガンを売る会社が生まれたのか|御手洗 瑞子『気仙沼ニッティング物語』

一着のカーディガンに、15万円。しかも、機械ではなく人の手が、五、六十時間もかけて一目ずつ編み上げるものです。震災で工場も家も流された東北の港町で、そんな常識はずれの値づけの会社が生まれました。

しかも、はじめて売り出したときの受注数は、たったの4着。大風呂敷を広げる代わりに、まず一人ひとりのお客さんに、しっかりと「うれしさ」を届けることから始めたのです。その静かな一歩を踏み出したのが、御手洗瑞子さんでした。

御手洗さんは、東京大学を出てマッキンゼーで働き、ヒマラヤの国ブータンの政府にも勤めた人です。その人が、東日本大震災を機に気仙沼へ移り住み、編み物の会社を起ち上げました。この記事は、御手洗さん自身がその冒険を綴った著書『気仙沼ニッティング物語』をもとに、被災地に「働く誇り」を編み出した経営を読み解きます。

御手洗瑞子さんの経営思想を一言で表すなら「いいものを、丁寧に」です。売れそうなものではなく、心から信じられるいいものだけを、時間をかけてつくり続けた経営者でした。

項目内容
氏名御手洗瑞子(みたらい・たまこ)
生年1985年
出身東京都
学歴東京大学経済学部卒業
会社気仙沼ニッティング(代表取締役)
経歴マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、2010年9月よりブータン政府に初代首相フェローとして勤務。帰国後、2012年に気仙沼ニッティングを起ち上げ、2013年から代表取締役
本書の主題東日本大震災後の気仙沼で、手編みのセーターとカーディガンを届ける会社を起ち上げ、育てていく記録
著書御手洗瑞子『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』(新潮社、2015年)

なぜ、東大卒のコンサルタントが「明日にでも始められる」編み物を選んだのか

物語は、ヒマラヤの小さな国で始まります。2011年3月11日、東日本大震災が起きたその瞬間、御手洗さんはブータンにいました。ブータン政府の「首相フェロー」という職位で、国の産業育成の仕事をしていたのです。

震災の報を受けたのは、観光局のカフェテリアにいるときでした。ツイッターに流れてくる、すべてを飲みこむ黒い波と燃え上がる炎の映像。御手洗さんは思わずパソコンの前で手を合わせます。日本と自分のあいだにある距離が、どうしようもなくもどかしかったのです。

「いまは、日本人として、日本のために働くべきときではないか」。その思いを胸に、御手洗さんは任期を終えて2011年の晩夏に帰国しました。しばらくは東北のとある自治体でコンサルタントとして産業復興に関わりますが、そこで気づいたことがあります。津波で工場も事務所も流され、多くの人が仕事を失っている。ただ人から何かをもらって生きるのは、辛く、自尊心を奪うものだ、と。

「すみません」「ありがとうございます」とずっと頭を下げ続けなくてはいけない。その姿を見て、御手洗さんは痛感します。被災地が本当に復興していくには、この地域の人たち自身が働き、自ら稼ぎ、自分の足で立って生活していける循環を取り戻すことが必要だ、と。

そんなとき、ブータン時代から親交のあった糸井重里さんに会いました。腕組みをした糸井さんが、にやにやしながら唐突にこう言ったのです。「気仙沼で編み物の会社をやりたいんだけどさ。たまちゃん、社長やんない?」

あまりに突然の言葉に、最初は冗談かと思いました。「編み物の会社って、できるだろうか」「私に社長が務まるだろうか」。悶々と考えるうちに、気仙沼や陸前高田で会った経営者たちの顔が浮かびます。突然の震災で会社を失いながら、どうにか再開し、社員に給料を払い続けようと奮闘している人たち。その姿を思うと、勝算や適性をぐるぐる考えて動けない自分が、だんだん恥ずかしくなってきました。

決め手は、地面でした。当時の気仙沼は地盤沈下しており、盛土をして整備するまで建物を建てられません。工事には3〜4年かかると言われていました。新しい工場を建てる必要のある事業は、そもそも始められない。でも、編み物なら、毛糸と編み針さえあればどこででも始められる。 仮設住宅に住んでいてもできる。「やらなくてはいけないことがあるからやる。それだけだ」。そう心を決めて、御手洗さんは糸井さんに返事をしました。では、地縁も血縁もない街で、御手洗さんはどう暮らし始めたのでしょうか。

気仙沼の「じっち」と「ばっぱ」が、よそ者の御手洗さんに教えたこと

気仙沼に地縁のない御手洗さんは、地元のご家族のところに下宿することになりました。さんまの佃煮や海鮮丼で知られる水産加工会社「斉吉商店」を営む、斉藤さんのご一家です。斉吉さんもまた津波で工場も自宅も流され、仮住まいで暮らしていましたが、そこに御手洗さんも住まわせてもらうことになったのでした。

御手洗さんは東京生まれで、両親とも働く核家族で育ちました。だから、斉吉さんの家に「いつもじっちとばっぱがいる」ということが、なにより新鮮で、うれしいことでした。じっち(健一さん)は毎朝早く起き、居間で新聞を読み、厚切りの羊羹を濃いお茶で味わう。ばっぱ(貞子さん)は毎日、気仙沼の旬のものを使った夕ごはんを作ってくれる。

とりわけ御手洗さんの心に残ったのは、じっちの口癖でした。御手洗さんが朝、「おはようございます」と声をかけると、じっちは顔を上げて言うのです。「たまちゃんのことは、家族だと思ってますから。たまちゃんも、家族だと思って、遠慮なくしてください」。すると3分後、また顔を上げて「たまちゃんは、家族ですから」と繰り返す。それはボケではなく、全力の歓迎と思いやりに他なりませんでした。

この気仙沼という街そのものが、御手洗さんにとって発見の連続でした。世界の海を股にかける遠洋漁業の港町。「東京なんておっかねえとこ行ったことねえ」と言うおじいちゃんが、「あ、ハワイ? よぐ行った」と笑う。相手の目を見据えて話すその目力、がっはっはと笑う豪快さ、人生の不確定要素を飲み込む度量。大きな自然と向き合い、自分の肚でものを決めてきた「グローバルな狩猟民族」――御手洗さんは気仙沼の人たちを、そう表現しています。

そんな街に暮らしながら、御手洗さんは編み物の会社を立ち上げていきます。もともと気仙沼出身でもなく、編み物が得意だったわけでもありません。わからないことだらけの、手探りの日々の始まりでした。

なお、日本の地方や途上国で、ものづくりを通して人の暮らしを立て直そうとした女性経営者としては、途上国発のブランドを育てた山口絵理子さんの物語も、御手洗さんと響き合うところが多い一冊です。まずは、商品づくりからでした。

なぜ最初の一着に、わざわざ毛糸から手づくりしたのか

御手洗さんたちが最初に決めたのは、「世界で一番かっこいい」王道のものをつくる、ということでした。選んだのは、白いフィッシャーマンズのカーディガン。それも、一人ひとりの体に合わせて編むオーダーメイドです。

なぜ、いきなり最高難度に挑んだのか。「つくりやすそうなもの」ではなく「一番いいと信じられるもの」からスタートする必要があると考えたからです。復興支援として最初の数か月は売れるかもしれない。でもそれだけでは続かない。事業として成り立つには、お客さんに心から「欲しい!」と思ってもらえる商品でなければならない。だから御手洗さんたちは、あえて険しい道を選びました。

そのために、まず向かったのはアイルランドのアラン諸島です。かつて手編みセーターの本場として世界的に有名になった島。新しいことに挑戦するとき、まずその世界の「トップ」や「本場」を見ておくと、自分たちがなにを目指すべきかが明確になる。新参者の不安を、具体的な把握に変えるための視察でした。

帰国後、御手洗さんたちは驚くべき決断をします。既製の毛糸を使うのではなく、毛糸そのものを一から開発することにしたのです。少数のセーターのためにゼロから糸をつくるのは、ずいぶんと贅沢で遠回りに思えます。それでもそうしたのは、アラン諸島で出会った一着のセーターがきっかけでした。陽の光を浴びて陰影でキリッと柄が浮き出る、ハンサムな白いセーター。「アラン模様は、立体で表現されている」と気づかせてくれる一着だったのです。

京都の手芸糸専門店の力を借り、羊選びから始めました。「今年はいいメリノの羊毛がスペインから出たよ」。そんな話を聞きながら原料を選び、ブレンドの割合を変え、撚りの回数を調整する。「1メートルにつき5回、撚りを増やすだけで、糸の風合いはまったく変わる」。何度も撚りなおしてサンプルをつくり、編み物作家の三國万里子さんが実際に編みながら合うものを探していく。数か月後、ついに毛糸ができあがったとき、開発に携わった全員が胸を張って言えました。「これは私たちが信じる、最高の毛糸です」。この糸を、どんな人が編むのでしょうか。

「編み物ワークショップ」という言葉が通じなかった街で、どう編み手と出会ったか

気仙沼はセーターを編む文化のある港町です。編める人はたくさんいる――はずでした。ところが、いざ編み手を探すと、これが難しい。地元の方が口コミで集めてくれた人たちも、「実はそんなに編めない」「編み物の会社をするとは知らなかった」といった理由で、次々に抜けていってしまったのです。

「本当に気仙沼には編み物が好きな人がそんなにいるのだろうか」。悩む御手洗さんが思いついたのが、かわいい手袋をみんなで編むワークショップでした。それを街で宣伝すれば、編み物が好きな人が集まってくれるはず。三國さんが紺色に魚の骨のような白い模様の手袋をデザインしてくれ、「イッポ」と名付けられました。

ここで、御手洗さんは下宿先の和枝さんから大切な助言をもらいます。「気仙沼の人は、『ワークショップ』って言葉はわかんないよ」。そして、「この手袋、みんな編みたいと思うだろうけど、同時に『私に編めるだろうか』とも思う。『私でも大丈夫なんだ』と思える要素が必要なんじゃないかなあ」。東京の感覚をそのまま持ち込んでいたことに、御手洗さんは気づかされました。

そのアドバイスをもとにポスターをつくり、市民会館から仮設住宅の集会場、コンビニ、焼肉屋にまで貼ってまわります。8月、真夏の編み物ワークショップ。当日、定員30名の会場は満員になりました。参加者の自己紹介では、こんな声が上がります。「津波で編み針も毛糸も流されて、震災後は自分の楽しみのものを買ってはいけない気がして、ずっと編み物をしないでいました。今日また編み物を始められたのがなによりうれしいです」。

大声が飛び交う会場で、二人だけ、黙々と夢中で編み進める人がいました。じゅんこさんとゆりこさんです。ほとんどの人が片手も編み終わらぬうちに、二人は両手を編み終え、飛び切りの笑顔で見せてくれました。数日後、御手洗さんは二人を訪ね、編み手にならないかとお願いします。「私でよければ、ぜひ」。そこにえみこさん、かなえさんも加わり、4人が最初の編み手になったのでした。心強く、ほっとした瞬間でした。同じように、地方で人を束ねてものづくりを立ち上げた女性としては、萩の漁業を束ねた坪内知佳さんの歩みも、読み比べると味わいが深くなります。

「編み直し」という言葉に宿る、気仙沼ニッティングのプロ意識

最初の商品は「MM01」と名付けられました。三國万里子さんのファーストモデル、という意味です。値段は15万円。実は、この商品は「値段から決まった」とすら言えます。編む作業に適正な賃金を払い、材料もデザインも思いきりいいものにする。それだけの手間をかければ、これぐらいの価格でなければ会社は成立しない。御手洗さんはそう考えました。

15万円は、自分たちへのプレッシャーでもありました。その価格に見合う商品を、どこにも妥協せずつくらなくてはいけない。「お客さんが、一生ものだと思って注文してくれたカーディガンなのだから」――それは編み手さんたちの口癖にもなり、緊張感であると同時に、力量を上げるモチベーションにも、仕事の誇りにもなっていきました。

そのプロ意識を象徴するのが、「編み直し」という言葉です。ある日、編み手さんの一人が、ゆりこさんの編んだ後身頃を見て声を上げました。「1目だけなんだけど、間違えている」。チャコールグレーの毛糸で、言われてもよくよく見ないとわからないほど小さな間違い。お客さまはきっと気づかない。それでも、ゆりこさんは、にこにこしながらこう言ったのです。「いいのいいの。みつかってよかった。ありがとう」。そして、何日もかけて編んだ後身頃を、しゅるしゅるとほとんどほどいてしまいました。

なぜそこまでするのか。ゆりこさんは言います。たとえお客さまが気づかなくても、一着でも変なものを世に出してしまったら、きっとずっと自分の心には引っかかる。「それに、そういうことをすると、信頼されないと思うの」。「お客さまの一生もの」を預かった編み手さんたちのプロ意識に、御手洗さんは頭が下がりました。

2012年の暮れ、初めての受注はたったの4着。編み手一人につき1着です。抽選販売には100件近い申し込みがありました。年末に注文をいただいてから約2か月、緊張しながら慎重に編み上げられたMM01は、どれも見事な出来栄えです。翌年2月、お客さまから最初のメールが届きます。エンボス加工された箱を手にして興奮したこと、羽織ってみると編み手のぬくもりに包まれているようだったこと、手紙を読んで涙してしまったこと。「大丈夫、核はしっかりできた」。御手洗さんは、そう確信しました。この「核」を、どう広げていくのでしょうか。

決算が黒字になった日、編み手さんが「肩で風を切って歩ける」と言ったわけ

MM01は難しすぎて、編めるのは特別な技術のある人だけでした。より多くのお客さんに届けるため、御手洗さんたちはセカンドモデルを考えます。「つい毎日着たくなっちゃうような、シンプルで使い勝手のいいセーター」。デザインをシンプルにして、より多くの人が編み手として参加でき、価格も少し手に取りやすくする。こうして生まれたのが、ネイビーのフィッシャーマンズ・セーター「エチュード」でした。

スタートからちょうど1年後の2013年6月、気仙沼ニッティングは株式会社として独立します。同じころ開いた「編み手募集説明会」では、御手洗さんが「気仙沼ニッティングは、世界を目指します」と話しました。東京から来た若者が突然そう言い出せば、笑われてもおかしくないところです。ところが集まった人たちは、目をキラキラさせて「おお! それはいいね!」「世界を目指すなら、気仙沼は向いているよ!」と大盛り上がり。さすが、世界の海を股にかける遠洋漁業の港町の人たちでした。会場にいた16人のうち、15人がその場で編み手を希望してくれたのです。

会社になって決算を迎えた初年度、気仙沼ニッティングはわずかながら黒字を出しました。手編み物の事業は、規模を拡大すれば利益率が大きく上がるものではありません。だからこそ、事業規模が小さくても「成立する」ことは、なにより重要でした。「今はまだ小さいけれど、これをちゃんと育てていけば大丈夫」。そう思える結果だったのです。

黒字であることを編み会で発表すると、それまでで一番大きな歓声と拍手が上がりました。編み手さんたちは商品を納品した段階で編み代を受け取っているので、会社の利益は彼女たちの収入には直接関係ありません。それでもこれほど喜んでくれた。ある編み手さんの、心の底から出てきたような一言が、御手洗さんの胸に響きました。「うわあ、よかった。これで、肩で風を切って気仙沼を歩けます」。

自分たちの仕事によって会社が利益を出し、気仙沼市に納税し、地域に貢献している。そこまで含めてこそ働くことは喜びであり、誇りなのだと、御手洗さんは編み手さんたちから学びました。伝統ある産業を「稼げる仕事」として立て直し、地域に誇りを取り戻そうとする姿勢は、鋳物の町で職人企業を築いた能作克治さんの経営にも通じるものがあります。

海を見下ろす丘の上に、なぜ小さな青いお店をつくったのか

2014年の秋、気仙沼の海を見渡せる丘の上に、小さな青い建物ができました。「メモリーズ」と名付けられたこのお店は、ただ商品を並べて売る場所ではありません。編み手さんに会え、セーターが編まれる様子をじっくり見ることもでき、お茶を飲みながら気仙沼湾を眺めることもできる場所です。

きっかけは、丘の上に一軒の古い平屋が空いたことでした。海側に大きく開いた窓はまるで額縁で、その向こうに深い青色の気仙沼の海が広がり、桜並木が満開でした。窓の前から動けなくなった御手洗さんは、「秘密の特等席をみつけてしまった気分」で、るんるんしながら坂道を下ります。ちょうどそのころ、女性起業家のコンペで運よく入賞し、賞金をいただけることに。渡りに船でした。

改装をお願いしたのは、数寄屋建築を手がける京都の三浦史朗さんです。こんな小さな会社が店舗をお願いするなんて百年早い話ですが、ダメ元で相談すると、三浦さんはあっさりと「最高やね! やろう!」と快諾。予算がないと正直に伝えると、「大丈夫、一緒につくろう」と笑ってくれました。御手洗さんが「あと、男手を二名出せます」と付け加えた男手とは、インターンの大学生ふたりのこと。彼らは毎日手を真っ青にしながら、気仙沼の海と同じ、少し緑味の入った澄んだ青色を何度も塗り重ねました。

このお店には、気仙沼ニッティングのすべての作品がミュージアムのように展示され、試着もできます。そして、ギャラリーに併設された通称「鶴の間」では、編み手さんたちが穏やかに編み物をし、お客さまはその様子を眺めながら茶飲み話ができるのです。あるときなど、セーターを買った若い男性が、着込んだまま一日中「鶴の間」で編み物を眺め、のんびりして帰っていきました。

東京から新幹線とローカル線を乗り継いで4〜5時間。それも少しわかりにくい場所にあるにもかかわらず、メモリーズをオープンするたびに、遠方からたくさんのお客さんが来てくれました。「便利」だけがすべてではない――御手洗さんは、そう気づきます。せっかくなら、そのセーターがどんな街で編まれているのか見てみたい、編み手さんに会ってみたい。地方の小さな街で会社を始めると、つい「東京で売らなくちゃ」と思いがちですが、まず自分たちがいる場所こそを魅力的にすることが大切だったのです。地域の街そのものを磨いて価値を生む姿勢は、九州で地方創生に挑む村岡浩司さんの取り組みとも重なります。

老舗の経営から御手洗さんが学んだ、「100年続く会社」の時間軸

気仙沼ニッティングを「続く会社」として育てるうえで、御手洗さんが深く学んだのが、老舗のものづくりの会社でした。とりわけ心に刻まれたのが、和菓子の虎屋の社長と、フランスのエルメス本社の副社長の対談です。

両社に共通していたのは、経営を捉える時間軸の長さでした。オーナー一族が経営を継いでいくため、次の代のことを常に考えて経営している。だから、短期的に利益を生んでも長期的に会社の価値を落とすような施策は打たない。10年の計、100年の計を持っているのです。

エルメスの副社長から聞いた、バッグ「バーキン」の話も忘れられません。品薄になるほど人気なのに、もっとつくろうとしないのはなぜか。副社長はこう答えたそうです。「バーキンを増産しようと思ったら、そのために職人を雇い、その人はバーキンしかつくれなくなる。いつか売れ行きが落ちたとき、その人を解雇しなくてはいけない。それでは職人を大切にしているとは言えません。職人を大切にできなければ、必ず会社もだめになります」。世界的なブランドがなお誠実に職人と向き合う姿勢に、御手洗さんはただただ頭が下がりました。

だからこそ、あるIT企業の創業社長から「気仙沼ニッティングの名前を冠に革小物を仕入れてオンラインで売り、SEOをガンガンやればスケールアップできる」と助言されても、御手洗さんは受け入れませんでした。それは1〜2年は売上が急増しても、丁寧な仕事で築いてきた信頼を短時間で使い切る話だからです。信頼は、築くのには時間がかかりますが、なくなるときはあっという間です。

御手洗さんが会社を「一つの船に乗った仲間」とたとえるのも、この長い時間軸ゆえです。だから、編み会の冒頭では編み手さんたちに販売状況や業績を包み隠さず話し、あるときは決算書をコピーして全員に配りました。「そんなのわかってもらえるの?」と聞かれることもありますが、損益計算書と貸借対照表の読み方から順を追って説明すると、自営業の多い港町の人たちは理解が早く、質問も続々と出てくるのです。ある編み手さんは、こう言いました。「借入れがないなんて、すごい」。売上高ではなく、会社が借金もなくまわっていることに、まず安心する。地に足のついた感想でした。

なお『気仙沼ニッティング物語』には、ここで紹介しきれなかった経営の実務や、気仙沼という街の暮らしが、まだ数多く描かれています。

御手洗瑞子さんのこだわりとは?

経営の話が続きましたが、ここで少し、御手洗瑞子さんという人そのものに目を向けてみましょう。『気仙沼ニッティング物語』には、その人柄がにじむ習慣が描かれています。

一つは、下宿先の斉吉商店で暮らし続けたことです。地縁も血縁もない気仙沼に来た御手洗さんは、斉吉さんの家に下宿し、じっちとばっぱのいる暮らしにすっかり溶け込んでいきました。毎日夕方になるとばっぱに電話をして「今日のごはんは何ですか?」と献立をたずね、足早に帰って「これ美味しいです!」とモリモリごはんを食べる。戸籍上は他人であるご一家の「家族」の中に入れてもらうことを、御手洗さんは「海外に住むのと同じぐらいの異文化体験」と、わくわくしながら楽しんでいました。

もう一つは、ばっぱの言葉を素直に受け取る姿勢です。仕事で疲れてストーブの前で丸まっていたある日、御手洗さんが「疲れました〜」と甘えると、ばっぱは鼻で笑ってこう言いました。「大丈夫、越えられるものしか来ないですから。大変なことがあっても、いかにして自分の心を前向きに平穏に保つかというのが、仕事なんです」。その言葉に、御手洗さんは「はい」と答えて、ストーブの前で正座し、背筋を伸ばしたのでした。

東大とマッキンゼーを経た人が、港町のばっぱから素直に学ぶ。知識よりも、目の前の人の言葉に耳を傾ける――それが御手洗さんらしい姿勢でした。こうした人となりは、彼女が縁を結んだ土地にも刻まれています。

御手洗瑞子さんゆかりの地とは?

御手洗瑞子さんの足跡は、いくつかの土地に残されています。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。

まず、生まれ育った東京都。両親とも働く核家族で育ち、東京大学経済学部を卒業しました。その東京で身につけた感覚が、気仙沼では通じないことに気づいていく過程も、本書の見どころのひとつです。(地図で見る

次に、会社を起ち上げた宮城県気仙沼市。世界の海を股にかける遠洋漁業の港町です。下宿先の斉吉商店、編み手さんたちが集う事務所、そして海を見下ろす丘の上のお店「メモリーズ」――物語のすべてが、この街を舞台に展開します。(地図で見る

そして、気仙沼の内陸にある徳仙丈山。標高700メートルほどの穏やかな山で、5月中旬から6月初旬には50万株ともいわれるつつじが山全体を深いピンク色に染めます。ひとりの人が地道に育て上げたこの山は、御手洗さんの経営観に大きな示唆を与えました。(地図で見る

土地をたどると、東京からブータンを経て気仙沼へ、そして海を見下ろす丘の上へと歩いてきた、一人の経営者の軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。

御手洗瑞子さんから学ぶ3つの教訓とは?

『気仙沼ニッティング物語』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。

一つめは、「つくりやすいもの」ではなく「一番いいと信じられるもの」から始めるということです。御手洗さんは、最初の商品にわざわざ最高難度のオーダーメイドを選び、毛糸まで一から開発しました。手ごろで簡単な商品から様子を見ていたら、品質は上がらず、きっと売れもしなかった。あえて険しい道を最初に選んだからこそ、気仙沼ニッティングの「核」ができあがったのです。

二つめは、働く人の「誇り」こそが、事業を支えるということです。15万円という価格も、間違いを見つければ潔くほどく「編み直し」も、突き詰めれば「一生ものを預かる」という誇りから生まれています。決算の黒字に編み手さんが「肩で風を切って歩ける」と喜んだように、稼ぎだけでなく、地域に貢献している実感が人を動かす。御手洗さんは、その力を信じ抜きました。

三つめは、種をまき、木を育てるように、長い時間軸で考えるということです。老舗の経営に学び、目先の急成長よりも100年続く会社を目指す。信頼は築くのに時間がかかり、失うのは一瞬だと知っているからこそ、御手洗さんは近道を選びませんでした。徳仙丈山のつつじが40年かけて山を染めたように、地道な仕事こそが確かな価値を生むのです。

これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません『気仙沼ニッティング物語』には、ここでは紹介しきれなかった御手洗さんの冒険が、まだまだ詰まっています。

この記事で語りきれなかった『気仙沼ニッティング物語』の魅力

御手洗瑞子さんの歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。

一つめは、赤いニットを着た巨大ミッフィーの誕生秘話です。ミッフィー展のために、編み手のじゅんこさんが、肩も腰もないうさぎのフィギュアに水平・垂直に糸を張り巡らせて採寸し、綿密な編み図を起こしていく。測量会社での経験まで生きたその挑戦は、松屋銀座で一番人気を博しました。

二つめは、「気仙沼で起業することのメリット・デメリット」の考察です。御手洗さんは、周りの人の助けや土地代の安さといったメリットは努力では得られず、大消費地から遠いといったデメリットは努力でどうにかなる、と鋭く分析します。地方での起業を考える人に、示唆に富む一章です。

三つめは、メディアとの付き合い方をめぐる葛藤です。3月11日が近づくたびにやってくる取材が、明るくたくましい編み手さんたちを「かわいそうな被災者」の物語に押し込めようとする。その違和感を、御手洗さんは静かに、しかし率直に綴っています。

これらのエピソードは、ぜひ本書で味わってみてください

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まとめ

御手洗瑞子さんは、東大とマッキンゼー、ブータンを経て、東日本大震災を機に気仙沼へ移り住み、編み物から「働く誇り」を生み出した経営者でした。

わざわざ毛糸から手づくりし、間違いは潔くほどき、15万円のカーディガンを一着ずつ丁寧に届ける。決算の黒字に編み手さんが涙ぐみ、海を見下ろす丘の上に小さなお店をつくり、100年続く会社を目指す。その軌跡は、いいものを丁寧につくり続けることこそが、遠回りに見えて確かな道である、と静かに語りかけてきます。

被災地という最も厳しい条件のなかで、御手洗さんが選んだのが「安くて速い」ではなく「よくて丁寧」だったという事実は、ものづくりと経営の順番について静かな示唆を与えてくれます。御手洗さんの肉声で綴られた『気仙沼ニッティング物語』は、自分の仕事に誇りを取り戻したいすべての人に、そっと寄り添ってくれる一冊です。

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よくある質問(FAQ)

Q. 御手洗瑞子さんとはどんな人物ですか?

A. 気仙沼ニッティングを起ち上げた経営者です。1985年東京生まれで、東京大学経済学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て、ブータン政府の初代首相フェローを務めました。帰国後、東日本大震災を機に気仙沼へ移り、2012年に編み物の会社を創業。手編みのセーターやカーディガンを届ける事業を育てています。存命の方です。

Q. 『気仙沼ニッティング物語』はどんな本ですか?

A. 御手洗さんが、震災後の気仙沼で編み物の会社を起ち上げ、育てていく過程を自ら綴った創業と経営の記録です。毛糸の開発、編み手さんとの出会い、15万円のカーディガン、決算の黒字、丘の上のお店づくりまで、いいものを丁寧につくる経営の歩みが、あたたかな筆致で描かれています。

Q. 気仙沼ニッティングの最初の商品はどんなものですか?

A. 「MM01」というオーダーメイドの白いカーディガンです。編み物作家の三國万里子さんがデザインし、一人ひとりの体に合わせて編み上げます。価格は15万円、最初の受注はわずか4着でした。毛糸から一から開発し、五、六十時間かけて編む、気仙沼ニッティングの原点となる一着です。

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参考文献

御手洗瑞子『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』(新潮社、2015年)