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「帰りたい……!」
2004年4月7日深夜、アジア最貧国バングラデシュのジア空港に降り立った23歳の山口絵理子さんは、空港から飛び出してくる大群衆に囲まれた瞬間、そう思いました。
裸の赤ん坊を抱いた女性、足を引きずる老人、裸足の小さな少女たち——。鼻を刺すような異様な臭い。「マネー! マネー!」と叫ぶ声。
しかし山口さんはその国に残り、大学院に進学し、1人でバッグ工場を作り、2006年3月、24歳で「マザーハウス」を設立します。「途上国から世界に通用するブランドを創る」という誰も信じなかった夢を掲げて。
本書『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』は、小学校でいじめに遭い、中学で非行に走り、柔道で立ち直り、慶應義塾大学に入り、バングラデシュに渡って起業するまでの全軌跡を綴った自伝です。「裸でも生きる」——それは、何も持たない状態でも、可能性を信じて生き抜く宣言です。
目次 表示
- 山口絵理子さんの基本プロフィール
- 学校の門をくぐれなかった子——いじめから柔道へ
- 「世界は、今、自分に見えている、それだけのものか」——慶應への入学
- バングラデシュへ——はじめての日本人留学生
- 「フェアトレードはフェアじゃない」——気づきとしての起業
- 裸足で走り続けた創業期——百六十個のバッグと添い寝する日々
- 「一番難しい人間」——職人ソエルとの出会い
- 「裏切り」の先に見えたもの——信頼を失って学んだこと
- 「本当のはじまり」——入谷の倉庫から直営店へ
- 山口絵理子さんのこだわり
- 山口絵理子さんゆかりの地
- 山口絵理子さんから学ぶ、3つの教訓
- この記事で語りきれなかった『裸でも生きる』の魅力
- まとめ|山口絵理子さんが教えてくれること
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山口絵理子さんの基本プロフィール
| 氏名 | 山口絵理子(やまぐち えりこ) |
| 生年 | 1981年8月21日、埼玉県さいたま市生まれ |
| 学歴 | 埼玉県立大宮工業高校→慶應義塾大学総合政策学部(AO入試)→バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程 |
| 経歴 | 小学校でいじめ→中学で非行→柔道で更生→高校は男子柔道部唯一の女子部員→全日本ジュニアオリンピック7位→慶應義塾大学で国際開発を学ぶ→米州開発銀行インターン→バングラデシュ渡航・大学院進学→2006年3月マザーハウス設立→現在も代表取締役兼チーフデザイナー |
| 主な実績 | 「途上国から世界に通用するブランドを創る」を掲げマザーハウスを設立。バングラデシュをはじめ6カ国の自社工場・提携工房でバッグ・ジュエリー・アパレルを生産し、日本国内外の直営店で販売。社員数グローバルで1000名超 |
| 著書 | 『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』(講談社)ほか |
学校の門をくぐれなかった子——いじめから柔道へ
山口さんの原点は、小学校時代のいじめです。
学校に行けなくなった日々の中で、山口さんはこう思いました。「未来の大人をつくる最初のステップである学校というものが、本当にこれでいいのか」。この違和感が、後に「世界の不正義を変えたい」という使命感につながっていきます。
中学では反動で非行に走りましたが、柔道と出会って更生。高校では「男子柔道部に入りたい」と監督に直訴します。
「うちは女子部はつくらない。女子がいると男子の士気が下がる」
何度も断られましたが、「絶対に結果を出す」と約束して入部を認めてもらいます。しかしその日々は苦しいものでした。朝5時半からの朝練、夜10時半まで練習。タイヤを引き走り、先輩をおんぶしてグラウンドを何周も走る。何度試合に出ても1回戦負けが続きました。
それでも山口さんは諦めませんでした。毎日の練習前に自宅近くでタイヤ引きを追加し、足に5キロの重りをつけてダッシュを繰り返す。逆立ちで学校の階段を5往復。町の道場にも通い、筋トレ、プロテイン——「目指せ日本一!」の貼り紙で埋め尽くされた部屋で、悔し涙で日記のページが滲む日々を送りました。
やがて女子大会でメキメキと頭角を現し、全日本ジュニアオリンピック7位にまで上り詰めます。「男子柔道で鍛えることで女子柔道の世界で勝つ」という戦略は、間違っていなかったのです。
「世界は、今、自分に見えている、それだけのものか」——慶應への入学
高校卒業後、偏差値40台からAO入試で慶應義塾大学総合政策学部に入学します。
大学で開発経済を学ぶ中、山口さんは気づきます。理論では「先進国と途上国の格差は縮小する」と書かれているのに、「現実には多くの問題により格差は広がっている」とも書かれている——「多くの問題って、なんだろう?」。
その疑問が山口さんを国際開発の道へと引き込みます。大学在学中に開発コンサルタント会社でアルバイトを始め、タイと日本での遠隔教育プロジェクトのチームに参加。大学4年生のときには米州開発銀行(ワシントン)でインターンを経験します。
しかしそこで幻滅します。多額の資金を途上国に流す「援助」は、本当に現地の人の役に立っているのか。現場を見ずに理論だけで物事を考えるインテリの世界に違和感を覚えた山口さんは、「事件は現場で起きている」と確信し、インターネットで「アジア 最貧国」と検索します。
——「バングラデシュ」という答えが出てきました。
バングラデシュへ——はじめての日本人留学生
現地を自分の目で見てみたい一心で、大学3年生のとき単身バングラデシュを訪問。帰国直前、眠れないままゲストハウスで考えていた山口さんに、ある考えが浮かびます。
「そうだ! もっとこの国のことを知るために、ここの大学院に進学しよう!」
翌日、ダッカ市内の大学院を自分で探し回り、BRAC大学院の開発学部を見つけます。その場で即興試験を受け——英語、数学、論文——合格。帰国後に慶應を卒業し、単身バングラデシュへ再び渡ります。バングラデシュ初の日本人留学生として。
アパートを借り、リキシャで大学院に通い、英語とベンガル語で授業を受けながら、現地の工場を毎日のように見て回る日々が始まりました。政治汚職、ストライキ、爆発事故、物乞い——山口さんが目にしたのは、テキストブックには書かれていなかった「本当の現実」でした。
「フェアトレードはフェアじゃない」——気づきとしての起業
現地の工場を見て回るうちに、山口さんは三つの問題を発見します。
一つ目は、援助や寄付が汚職のはびこる国では届くべき人に届かないこと。二つ目は、民間企業が途上国に求めるのは「安くて大量に作れること」だけで、工場の職人たちは低賃金でバイヤーの言いなりになっていること。三つ目は、フェアトレードと呼ばれる商品でさえ、「かわいそうだから」という感情で買われ、品質が低いために使われずにタンスにしまわれていること。
「私はそのいずれにも疑問を感じた」
求められているのは何か——山口さんが辿り着いた答えは、シンプルでした。
「かわいい! 欲しい!」と心から思えるものを、この地から発信すること。
生産者が誇りとプライドを持ってモノ作りにあたり、先進国のお客様が「かわいそうだから」ではなく「本当に欲しいから」買う。慈善ではなく、ビジネスとして成り立つ、品質を徹底したブランドを作る——。
「途上国発のブランドを創る」
夢物語だと自分でも思いました。しかし山口さんは内定をもらっていた日本の会社に謝りの電話を入れ、起業を決めます。会社の名前は、憧れのマザー・テレサの「マザー」と、「家」を意味する言葉を組み合わせて——「マザーハウス」。
裸足で走り続けた創業期——百六十個のバッグと添い寝する日々
工場を探し、バッグをデザインし、生産して日本に輸出する——どれも誰も教えてくれない中、山口さんは1人でやり遂げます。最初に作った百六十個のバッグが日本に届いたとき、「長い飛行機の旅を、よくがんばったねえ」と思わず涙が出そうになりました。
しかし、自宅の部屋中がバッグで埋め尽くされ、「寝る場所がない!」。バッグと添い寝する日々が始まります。
売るためにまず頼ったのは家族でした。母に、姉に、弟に、弟の彼女に、柔道部の友人に、そのお母さんに、昔からよくしてくれていたお寿司屋さんに——「一つ売れる度に、飛びあがって喜んだ」。しかし一日一個も売れない日もあり、百六十個を完売するのがいつになるか気が遠くなりました。
資本金のためにアルバイトを始めます。百貨店の催事の販売員、ミカン狩り、ドン・キホーテでのヒゲ剃り販売——「本当に、いつも順序が逆だった」と山口さんは笑います。
初めてウェブサイトを立ち上げ、地道に販路を広げた結果、百六十個は完売。次の六百五十個も完売。徐々に卸先も増えていきました。
「一番難しい人間」——職人ソエルとの出会い
品質を上げるためには、一流の職人が必要でした。現地ディレクターのアティフさんから紹介されたのは、「バングラデシュ国内ナンバーワンの腕を持つが、バイヤーが来ても断り続ける、一番難しい人間」——ソエルというパタンナー(型紙職人)でした。
工場を訪れ、自分がなぜバッグ屋を起業したかを話しました。ソエルさんは無表情で聞き、こう言いました。
「バックをわかっていない人と仕事はできない」
「絶対にここで仕事がしたい。どうすればいいですか」と食い下がると、「ついてこられるならついてこい」と言われます。こうして伝説の職人との厳しいバッグ修業が始まりました。
包丁研ぎ、革の裁断、ミシンがけ——トイレに行く時間も与えられず、調子に乗れば怒鳴られ、初日はナイロンの巾着袋を作って終わりました。
しかし、ソエルさんの手から生まれるバッグの品質は本物でした。この出会いが、マザーハウスの製品の品質を根底から変えることになります。
こうした挫折と出会いを繰り返しながら事業を育てた経営者の物語は他にもあります。
「裏切り」の先に見えたもの——信頼を失って学んだこと
創業から1年ほどが経ったころ、山口さんは最初の工場が品質を守れなくなるという危機に直面します。急激な注文の増加に工場が対応できず、品質の低い商品が日本に届くようになりました。さらにスタッフとの関係でも、山口さんが「裏切り」と感じる出来事が起きます。
本書『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』の第七章「人の気持ちに甘えていた」「第八章 裏切りの先に見えたもの」——これらの章タイトルが示すように、山口さんはこの経験を「自分が甘えていたから起きた」と受け止めます。
「人の気持ちに甘えていた」——熱意と情熱で人を巻き込んできたが、ビジネスとしての仕組み、明確な合意、対等な関係の構築が足りなかった。この気づきが、その後の経営の土台になりました。
「本当のはじまり」——入谷の倉庫から直営店へ
売上が急増する中、山口さんはある違和感を覚えます。卸先での販売量が増え、お客様の顔が見えなくなってきたのです。「マザーハウスは、常にお客様とともに成長してきた」——直接顔を見て、話して、伝えて商品を手に取ってもらいたい。
ある日、バッグの配送拠点として借りた台東区・入谷の倉庫に、自転車で通りかかった人が飛び込んできて、「これちょうだい」とバッグを買っていきました。
「うそ——売れたよ〜!あははは!」
みんなで笑った後、山口さんは言います。「ねえ、ここ、お店にしようよ!」。スタッフ全員に一蹴されましたが、山口さんは「絶対入谷がいい」と確信していました。
表参道でも自由が丘でもなく、入谷。下町の人の温かさ、バングラデシュの雰囲気に似た空気感、「日本が忘れてしまっている大事なものが残っている気がした」。
こうして台東区・入谷にマザーハウスの直営1号店がオープンします。本書『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』が「本当のはじまり」と題したのはここであり、バングラデシュで夢を描いた山口さんが、ようやくお客様の顔を見てブランドを育てる土台を手にした場所でした。
山口絵理子さんのこだわり
本書『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』を通じて、山口さんという経営者の核心が見えてきます。
「ビジネスとして成立しなければ、社会は変えられない」——フェアトレードへの違和感が示す通り、山口さんは「かわいそうだから買う」ビジネスを否定しました。品質を徹底し、デザインにこだわり、「本当に欲しい」と思われる商品を作ること。慈善ではなく、ビジネスとして途上国発のブランドを成立させることが、最も持続可能な社会変革だという確信が、マザーハウスの根幹にあります。
「手を動かしてから考える」——大学院受験を思い立ったその日に大学院へ向かい、起業を思い立ったその日に内定辞退の電話を入れ、工場を断られても毎日通い続ける。山口さんの行動の特徴は、計画より先に体が動くことです。「やってみなきゃわからないじゃない!」という言葉がすべてを表しています。
「お客様と一緒に育つ」——百六十個のバッグを買ってくれた家族や友人、ブログにコメントを書いてくれたお客様、入谷の倉庫に飛び込んできて買っていった見知らぬ人——これらすべての出会いがマザーハウスを育てた。「卸を拡大してお客様の顔が見えなくなること」を山口さんが嫌がったのは、お客様との関係こそがブランドの本質だという信念があったからです。
山口絵理子さんゆかりの地
バングラデシュ・ダッカ(マザーハウス発祥の地):深夜の空港で大群衆に囲まれ「帰りたい」と思った23歳の山口さんが、それでも残り続けた国。大学院に通い、工場を探し回り、バッグをデザインし、最初の百六十個を作った場所です。現在もバングラデシュにはマザーハウスの自社工場があり、「この国から世界に通用するブランドを」という夢が形になっています。
埼玉県・大宮(柔道で立ち直った故郷):いじめで不登校になり、非行に走った末に柔道と出会った場所。大宮工業高校男子柔道部で唯一の女子部員として鍛え抜き、全日本ジュニアオリンピック7位まで上り詰めた土地です。「歯を食いしばる力」と「諦めない姿勢」を身につけた原点であり、後のバングラデシュでの苦闘を支えた精神力の源でもあります。
東京・台東区入谷(マザーハウス直営1号店の地):表参道や自由が丘ではなく、下町・入谷に1号店を開いた理由は、「バングラデシュの雰囲気に似た温かさ」「日本が忘れてしまっている大事なものが残っている気がした」から。自転車で通りかかった見知らぬ人が飛び込んできて「これちょうだい」と買っていったエピソードが、この場所への愛着を決定づけました。
山口絵理子さんから学ぶ、3つの教訓
1. 「かわいそうだから」ではなく「本当に欲しい」を起点にする——ビジネスの誠実さとは何か
フェアトレード批判が本書のもっとも鋭い洞察の一つです。「かわいそうだから」という感情で買われ、品質が低いために使われずにタンスにしまわれる商品は、生産者にとっても消費者にとっても誠実ではない。「本当にかわいい」「本当に欲しい」と心から思えるものを作ることが、途上国の職人を真に尊重することだ——この逆転の発想が、マザーハウスの事業の根幹を作りました。
2. 「現場に行く」——机上の理論と現地の現実の間にある溝を埋める方法
国際機関のインターンで幻滅し、「事件は現場で起きている」と確信してバングラデシュに渡った選択。「アジア 最貧国」と検索して旅立ち、大学院の試験をその場で受け、工場を一軒一軒回る——山口さんの行動はすべて「まず現場に立つ」という原則から来ています。情報だけでわかった気になることへの批判的眼差しは、どんな業界の人間にも刺さる教訓です。
3. 「たった一人でも、踏み出すことが何よりも大事」——変えられない現実の前でどう動くか
「一歩踏み出してダメでも、踏み出すことが何よりも大事なんじゃないか。その先にたとえ失敗があったとしても、それは勇気を振り絞って歩いた証拠だ」——この一節に、本書のすべてが凝縮されています。内定を蹴り、一人でバングラデシュに渡り、百六十個のバッグを家族に売り歩いた山口さんの行動は、「できるかどうか」より先に「やるかどうか」を問います。
この記事で語りきれなかった『裸でも生きる』の魅力
本書にはまだ紹介しきれていないエピソードが多くあります。
一つ目は、バッグ職人・ソエルさんとの関係の深まりです。「一番難しい人間」と紹介されたソエルさんが、なぜ山口さんと仕事をするようになったのか。「社会的なことは俺の仕事じゃない。でも品質を落とすことは俺の仕事じゃない」——彼の職人魂と山口さんの情熱が交差する場面は、本書の中でも特に印象的なくだりです。
二つ目は、大学時代の竹中平蔵研究会での体験です。後に副社長となる山崎大祐さんとの出会いも竹中ゼミでした。「すごくよかったですよ。がんばってね」という竹中先生の一言を、山口さんは「大学生活の中で一番の宝物」と語っています。コンプレックスだらけの自分を認めてくれた一言の重さが、胸に刺さります。
三つ目は、日本産経新聞の一面コラム「春秋」にマザーハウスが掲載された日の記述です。サイトへの注文が「約一分に一回」来るようになり、人気商品は翌月分も予約完売という状況に。工場の工員が「一人、また一人と増えていった」のを見て、「自分の夢に着実に近づいていっている感覚を覚えたのは、はじめてだった」という言葉に、山口さんの喜びが滲み出ています。
📚 [裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記(講談社)を読んでみる]
まとめ|山口絵理子さんが教えてくれること
小学校でいじめに遭い、中学で非行に走り、高校の男子柔道部で投げられ続け、偏差値40から慶應に入り、バングラデシュの最貧国で一人起業した——山口絵理子さんのストーリーは、「普通の道」を一度も通っていません。
しかしそれは無謀さではなく、「現場を見て、感じて、動く」という誠実さから来ていました。
「途上国から世界に通用するブランドを創る」——2006年当時、誰もが無謀だと思った夢は、現在グローバルで1000名を超える社員を抱えるブランドになりました。
本書『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』は、起業の成功法則ではありません。「裸でも生きられる」という確信を持って踏み出した一人の人間の、号泣しながら前に進む記録です。ぜひ手に取ってみてください。
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参考文献:山口絵理子『裸でも生きる——25歳女性起業家の号泣戦記』(講談社)
