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「いやだよう、帰ろうよお」
幼いたかのさんは、渾身の力を込めて養母の手を引っ張りました。警報機がかんかんと鳴り響く踏切。その遮断機をくぐろうとする大人の力には、どうしても抗しきれない。ずるずると引きずられながら、それでも叫び続けました。
電車が轟音を立てて通り過ぎたのは、その直後のことでした。
本書『不運は神様からのおくりもの』は、たかの友梨さんが自らの60年余の歩みを綴った集大成です。複雑な出生、養母との波乱万丈の生活、中学卒業後の理容師見習い、パリへの単身留学、そして日本のエステ産業を切り拓いた経営者としての軌跡——「事実は小説より奇なり」という言葉がそのまま当てはまる人生が、静かな筆致で語られています。
目次 表示
- たかの友梨さんの基本プロフィール
- 踏切と養母・八千代——命がつながった夜
- 実母から教わった「チャンスの女神の前髪」
- 理容師として東京へ——「日本一になる」という夢
- 24歳でパリへ——貯金100万円を全額おろして
- 美顔器「ヴィッキー」大ヒット——26歳で時代を動かす
- 30歳の誕生日——「儲かった命だ」
- 「ニキビの方、集まれ!」——どん底からの逆転劇
- 1億円の融資と「あなたのやることならお金を出しましょう」
- ベランダから見上げたビル——夢は口に出すとかなう
- FC展開の罠——直営店のみという信念
- 「学校をつくりなさい」——山野愛子先生との30年越しの約束
- たかの友梨さんのこだわり
- 東日本大震災——「もう一度、旦那を見つけにいかなくちゃ」
- 「他人と過去は変えられない、でも自分と未来は変えられる」——経営哲学の核心
たかの友梨さんの基本プロフィール
| 氏名 | たかの友梨(たかの ゆり) |
| 生年 | 1948年1月22日 新潟県生まれ |
| 資格 | 理容師・美容師免許、カリフォルニア州脱毛ライセンス |
| 主な実績 | たかの友梨ビューティクリニック設立(1978年)、全国120店舗・1053名、年商180億円、学校法人たかの友梨美容専門学校開設(2013年) |
| 社会活動 | 「鐘の鳴る丘少年の家」後援会長、カンボジア校舎寄贈など |
踏切と養母・八千代——命がつながった夜
たかの友梨さんは1948年1月22日、新潟に生まれました。実父は地元で尊敬を集める医師、実母はその医院で働く看護師。ふたりは不倫関係にあり、たかのさんの出産が発覚すると、親戚中で大騒ぎになります。実母は別の男性のもとに嫁がされ、たかのさんは養母・八千代に引き取られることになりました。
八千代は曲がったことが大嫌いな、鉄火肌の女性でした。しかし男運が悪く、最初の夫は家事手伝いとして同居していた姪と関係を持ち、次の義父は借金を抱えて芸者と出奔してしまいます。残されたのは借金の山。小さな家さえ借金のカタに取られ、八千代とたかのさん、障がいのある弟、姑の四人が寒空の下に放り出されました。
精も根も尽き果てた八千代は、弟を背中におぶったままたかのさんの手を引き、歩き出します。向かう先は踏切でした。
警報機が鳴り、遮断機が下りる。たかのさんは渾身の力でその手を引っ張り続けました。電車が通り過ぎたあと、八千代はへなへなと倒れ込みます。そしてふたりは、養護施設「鐘の鳴る丘」へと向かいました。施設の創立者は「あなたはまだ若い。子どもは親戚に預けて、一生懸命働きなさい」と八千代を諭します。それが、生き直しの決意につながりました。
たかのさんが「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長として長年支援を続けているのは、この夜があったからです。
実母から教わった「チャンスの女神の前髪」
たかのさんには異母きょうだいが5人いる実父の家で暮らした時期もありましたが、小学校だけで6回の転校を繰り返す日々でした。
小学校3年生からは、養母の母(祖母)のもとに預けられます。群馬の里山のふもとに建つ一軒家で、たかのさんに課された仕事は炊事、洗濯、掃除、薪集め、イモ掘り、ニワトリの世話——小学3年生がこなすには過酷すぎる労働でした。
しかし祖母には一本筋が通っていました。信条は「働かざる者食うべからず」。働けばその分、肩叩き10円、靴下編み10円と、きちんとお駄賃を与えてくれたのです。約3年間で7000円が貯まりました。当時の子どもとしては大金です。
「食べようと思うなら働くこと、働けばその分お金になること——生きるための鉄則を、子どものうちに仕込まれました」
一方、親戚の家を転々とする時期に、実母から大切なことを教わっています。運動会のかけっこで1等が取れないと悔しがるたかのさんに、実母はこうアドバイスしました。
「あんたは、ドンと鳴ってから走りだす。でも、それでは1番にはなれない。ヨーイといわれたら、1、2、3と自分で数えて走りだしなさい」
そのとおりにやってみると、誰よりも早くテープを切ることができました。生まれて初めての「1番」でした。たかのさんはこの体験を「チャンスの女神の前髪をつかむコツ」と呼び、以来、あらゆる場面で意識してきたといいます。
理容師として東京へ——「日本一になる」という夢
中学を卒業すると、養母の勧めで理容師の道に進みます。「思ってもみない職に就くことになった」とたかのさんは振り返りますが、住み込みの理容師見習いの日々は、後の精神力の土台になりました。
東京に出たたかのさんは「日本一の理容師になる」という夢を抱き、昼は理容店、夜は居酒屋という二毛作の生活を送りながら、技術を磨いていきます。
やがて外資系化粧品販売会社のビューティアドバイザーとして美の世界に触れ、「本物の美容」を学びたいという気持ちが抑えられなくなっていきました。
24歳でパリへ——貯金100万円を全額おろして
ある日、新聞でパリのエステティックが流行しているという小さな記事に目が留まります。
「これだ!」
決断は早かった。昼も夜も働きながら貯めた100万円を全額おろし、往復の切符を手にしました。1972年(昭和47年)のことです。
パリでは老舗サロンに雇ってもらい、最初はシーツやタオルの洗濯といった下働きから始まります。理容師の住み込み修業で鍛えられたたかのさんには、まったくいやな仕事ではありませんでした。ひたすら技術を覚え、住まいに戻っては練習を繰り返す。お風呂の中でも、ベッドの中でも、起きている間は手を動かし続けて、友人にあきれられたほどです。
半年ほどして施術を担当する許可が得られると、日本の指圧をマッサージに取り入れる工夫を加えました。そのマッサージは好評を博し、やがて「マドモアゼル・ユリ」と指名が来るようになりました。
この修業の中でたかのさんが発見したのが「引き算の美学」です。日本では肌の悩みをカバーするために化粧品をたくさん使う「足し算」が主流でしたが、フランスでは肌の奥の老廃物や汚れをマッサージやパックで取り除く「引き算」の美顔が主流でした。長年悩んでいたたかのさん自身のニキビが、この引き算の美顔でみるみる消えていきます。
さらに南仏のタラソテラピーセンターを訪れたとき、交通事故で頬に傷を負った女性がマッサージで回復していく姿を目にします。「マッサージをしてもらうと、だんだん傷が薄らぎ、それにつれて心まで晴れてきています」という言葉に、たかのさんは深い感動を覚えました。
「美しさには、心を癒す力もあることを知った瞬間です」
8カ月のパリ滞在で、持参したお金はほとんどエステ修業に費やされました。でも、お金では換えられないものを得て帰国しました。
美顔器「ヴィッキー」大ヒット——26歳で時代を動かす
帰国後、たかのさんはパリから持ち帰った吸引美顔器を日本の家庭でも使えるように改良することを思いつきます。老廃物を取り除くこの器械は、自分のニキビを治してくれた優れものでした。
小さなマンションをビスやアタッチメントで埋め尽くしながら、1年半かけて完成。「ヴィッキー」という名前で実用新案を取得し、通販で売り出すと次々と注文が届きました。コーセー化粧品が3000台購入してくれたことで一気にブレイク。当時26歳のたかのさんは、サラリーマンの何倍もの収入を得るようになっていました。
この時期につけたビジネス用の名前が「たかの友梨」です。
「有名になれば、そのうちいいこともあるかもしれないな、くらいの感じでつけたものです」
30歳の誕生日——「儲かった命だ」
20代後半のたかのさんは、内面では悶々としていました。まわりの友人が次々と結婚していく中、自分が本当にやりたいことを見極められずにいたのです。
そして30歳になる直前、腹膜炎で入院し、大きな手術を受けます。死ぬかもしれないと覚悟するほどの状態でした。
手術が終わり、目が覚めたのは昭和53年1月22日——ちょうど30歳の誕生日の朝でした。
「儲かった命だ、もう失うものはなにもない」
生き返ったという安堵よりも、不思議なすがすがしさがこみ上げてきました。これからは世間がどうこうではなく、自分のいちばんやりたいことをやろう。迷いは消えていました。
「ニキビの方、集まれ!」——どん底からの逆転劇
昭和53年9月、東京・新大久保のビルの一室に「たかの友梨ビューティクリニック」の1号店がオープンします。しかしオープンして1カ月、2カ月が過ぎても、お客はほとんど来ませんでした。「エステって、どんな食べ物かしら?」という声が聞こえてくるほど、まだ誰もエステを知らない時代です。
マンションを売り、車を売り、断腸の思いでリストラもおこないました。それでも諦めなかったたかのさんは、タブロイド版のミニコミ紙「サンケイリビング」に、ありったけの思いを込めた広告文を書きます。
「ニキビの方、集まれ——タダで治してさしあげます!」
広告が載った日、新大久保の駅からお店まで、お客が行列をつくっていました。この日を境に「たかの友梨ビューティクリニック」は連日満員の店になります。一度エステを体験した方がリピーターになり、やがて青山に大きなサロンをもつという次の夢が浮かびあがってきました。
1億円の融資と「あなたのやることならお金を出しましょう」
昭和54年、青山・表参道に新店舗をオープンします。保証金は4000万円。知り合いの経営者に保証人をお願いすると、その方は4000万円どころか、1億円という巨額の融資の保証人を引き受けてくださいました。
「あとで知ったことですが、この銀行では、女性に1億円もの融資をするのは、初めてのことだったそうです」
その後、保証人が急逝するという試練が訪れます。銀行から融資の打ち切りと残額の一括返済を求められたたかのさんは、今度は見知らぬ銀行の支店長に直談判。背水の陣でエステティックの将来性を語り続け、ついに融資を取り付けます。
「あなたのやることならお金を出しましょう」
その言葉の感激は、お金を得たことのうれしさ以上のものだったと、たかのさんは振り返ります。
ベランダから見上げたビル——夢は口に出すとかなう
新大久保の1号店を開いたころ、たかのさんには途方もない夢がありました。西新宿の高層ビル群の中でも、ひときわ輝いていた新宿センタービルに、自分の店を構えること。
毎晩ベランダに出ては、新宿センタービルを指さし、スタッフたちに向かって叫んでいました。
「いつか絶対あそこに入る!いつかあの灯りのひとつになろう!」
数年後、見知らぬ人物から手紙が届きます。新宿センタービルに入っている大手企業の社長からで、奥様のエステサロンを譲り受ける気はないかという内容でした。夢に見ていたビルが、向こうからやってきたのです。
昭和59年、たかのさんは新宿センタービル48階に本社を移転します。東京の街を眼下に見下ろしたとき、「やった!」という熱いものがおなかの底からこみ上げてきました。
「夢は叶(口に十)と書きます。言葉にして、口に出してあげればかなうのです」
FC展開の罠——直営店のみという信念
急拡大の中で、思わぬ落とし穴が待っていました。のれん分けしたエステティシャンの夫が、たかのさんの知らないうちに「100店舗構想」を打ち上げ、勝手に「たかの友梨」の名で店を出そうとしていたのです。
技術者育成には時間がかかります。「たかの友梨」の名前を使うなら技術者がきちんと育ってからにしてほしいと訴えましたが、相手は聞く耳を持ちません。
たかのさんの決断は素早かった。問題のある店の隣に直営店を開き、「あなたの店がつぶれるまで、わたしは無料体験でやっていく」と宣言。そのとおりにやりぬき、相手の店はすべて撤退となりました。
この一件以来、たかのさんはFC展開を一切やめ、すべて直営店にするという方針を貫いています。
「痛い経験でしたが、結果的には『たかの友梨』の技術力、信用力を固め、お客さまに安心を与えることにもなりました」
「学校をつくりなさい」——山野愛子先生との30年越しの約束
ある日、ミス・インターナショナルの大会で移動バスに乗り込むと、美容界の頂点に立つ山野愛子先生が座っていました。先生はたかのさんの手をとりながら、こうおっしゃいました。
「あなたは学校をつくりなさい。すべての基本は教育です。しっかりした教育機関があれば社会に認められます。だから、エステのための学校をつくりなさい。本気でやるなら、わたしが協力しますよ」
この言葉はたかのさんの心に刻まれ、いつか果たすべき約束になりました。
それから約30年。「たかの友梨ビューティクリニック」創業35周年と同じ2013年、「学校法人たかの友梨美容専門学校」が東京・原宿に開校します。野沢道生さん、藤原美智子さん、黒崎えり子さんなど、現代を代表する美のカリスマが講師として集結しました。山野先生との約束が、現実になった瞬間でした。
たかの友梨さんのこだわり
本書には、たかのさんの人となりを示すエピソードが随所に登場します。
「エステティックをするために生まれてきた手」:たかのさんには生まれつき、厚くて大きい手があります。本書の冒頭でもこう書かれています。「わたしのマッサージを受けた人は、手のひらが肌にすいつくような極上の気持ちよさを味わうといいます。『まるでエステティックをするために生まれてきた手』と、いわれたこともあります」。手そのものが、たかのさんの才能の源です。
直営店のみ・FC展開なし:上述のFC騒動以来、「たかの友梨」はすべて直営店です。「自分の目が行き届く直営店だけでやっていこう」という覚悟は、37年を経たいまも揺らぎません。技術とサービスの品質を守るための、絶対に曲げないこだわりです。
業界随一のスパルタ教育:「エステティックは技術者の教育がすべて」と言い切るたかのさんは、創業3年後の1981年には早くも「日本総合エステティック学院」を開設しています。他社から転職してきた人が「受験勉強以上」と悲鳴をあげるほどの厳しさで知られますが、「真の技術は、泥棒に入られても盗まれない、火事になっても燃えない、一生の守り神になってくれる」という信念に基づいています。
「鐘の鳴る丘少年の家」への支援:幼いころに養母の命を救ってくれた施設への恩返しとして、後援会長を長年務めています。寄宿舎棟の建造から体育館「レインボーホール」の建設まで、物心両面のサポートを続けています。
東日本大震災——「もう一度、旦那を見つけにいかなくちゃ」
2011年4月4日、たかのさんは腕利きエステティシャン20名を率いて「たかの友梨エステボランティア隊」として福島県いわき市の避難所に入りました。何日も入浴できないままの被災者に、無料でフェイシャルエステを提供するためです。
施術を受けた女性たちが手鏡を見て「生まれ変わったみたい!」と歓声をあげ、涙を流す場面もありました。
そのなかで、津波でご主人を亡くされた女性がほほえみながらおっしゃいました。
「こんなにきれいにしてもらったから、もう一度、旦那を見つけにいかなくちゃ」
たかのさんも、同行したエステティシャンも、涙を抑えることができませんでした。
「人はどこまでも強くたくましく生きていけるのだ、ということを、改めて教えてもらった体験でした」
「他人と過去は変えられない、でも自分と未来は変えられる」——経営哲学の核心
本書の最終章で、たかのさんは自らの人生哲学を明かしています。
「他人と過去は変えられない。でも自分と未来は変えられる」——これが、たかのさんを支えてきた根幹の言葉です。複雑な出生も、転々とした少女時代も、どうにもできない「定め」でした。しかしその先は、自分が切り拓ける。
女性の生き方についても、明確な考えを持っています。
「女性にとっていちばん大事なことは自立です。自立とは、経済的に自分で自分をまかなえ、かつ『これがわたしの仕事』といえるライフワークをもっている状態をいいます」
結婚については「人生の優先順位の3番目くらいに考えるのがちょうどいい」「結婚は人生のおまけくらいに考えよう」というのが若い女性へのメッセージです。まずやるべきは、仕事をがんばって自分を磨いていくこと。
そしてお金については「お金は人のために使うもの」と言い切ります。稼いだお金は自分への投資と社会貢献に使い、貯め込まない。若き日に全財産をはたいてパリに飛んだのも、その哲学の原点です。
不運な少女時代を過ごした女性が、一代で年商180億円の企業を築いた。その道のりは、「不運は神様からのおくりもの」というタイトルの意味そのものです。
📚 不運は神様からのおくりもの(たかの友梨著、IN通信社)を読んでみる
参考文献:たかの友梨著『不運は神様からのおくりもの——美の伝道者「たかの友梨」ができるまで』(IN通信社)
