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スティーブ・ジョブズ|アップル共同創業者が「宇宙に衝撃を与える」ために生きた、革命的創造の哲学

スティーブ・ジョブズさん|アップル共同創業者が「宇宙に衝撃を与える」ために生きた革命的創造の哲学

捨てられた。選ばれた。特別。

スティーブ・ジョブズは、この3つの観念とともに生きた人物です。

1955年2月24日、ジョアン・シーブルとアブドウルファター・ジャンダーリのあいだに生まれた男の子は、未婚の母という事情から養子に出されます。養父母となったのは、機械工のポール・ジョブズと妻クララでした。ジョブズが養子だと知ったのは6歳か7歳のころ。向かいの女の子に「本当のお父さんやお母さんは、あなたをいらないって思ったの?」と聞かれ、泣きながら家に駆け込んだ。そのとき両親が語った言葉を、ジョブズは生涯忘れませんでした。

「わたしたちは、あなたを選んだの」

本書『スティーブ・ジョブズ』(I・II)は、ジョブズ自身が伝記執筆を依頼したウォルター・アイザックソンが、100人を超える関係者への取材と40回以上のインタビューをもとに著した唯一の公認伝記です。パーソナルコンピュータ、アニメーション映画、音楽配信、スマートフォン、タブレットと、6つもの産業を変革した男の全貌が語られています。


スティーブ・ジョブズの基本プロフィール

氏名スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)
生年1955年2月24日 サンフランシスコ生まれ
学歴リード大学(中退)
養父ポール・ジョブズ(機械工、中古車修理・販売)
養母クララ・ジョブズ(会計事務)
主な実績アップル共同創業(1977年1月)、マッキントッシュ発売(1984年)、ピクサー・トイ・ストーリー制作、iMac・iPod・iTunes・iPhone・iPad
死去2011年10月5日(享年56歳)

父が教えた「見えない裏側」

本書には、ジョブズの価値観を形成したエピソードが随所に登場します。なかでも、のちの製品哲学に直結しているのが、養父ポールとのガレージでの時間です。

ポール・ジョブズは機械工として優れた腕を持ち、中古車の修理と販売を副業としていました。ある日、ガレージにあったテーブルの一部に印をつけながら、幼いスティーブに語りかけました。

「スティーブ、ここがおまえの作業台だよ」

父親から教えられたのは、ものを作るときは見えない部分も丁寧に仕上げなければならないということでした。戸棚や柵を作るときは、誰も見ない裏側まできちんと作る。この考え方は、マッキントッシュの基板レイアウトにも、iMacの内部設計にも貫かれることになります。

また、ジョブズが育ったカリフォルニア州マウンテンビューの実家周辺は、ジョセフ・アイクラーというディベロッパーが建てた住宅地でした。フランク・ロイド・ライトのビジョンに触発された、シンプルモダンな低価格住宅群です。この環境がジョブズに刻みこんだ感覚を、彼はのちにこう語っています。

「アイクラーはすごい。おしゃれで安く、よくできている。こぎれいなデザインとシンプルなセンスを低所得の人々にもたらした。すばらしいデザインとシンプルな機能を高価ではない製品で実現できたらいいなと思ってきた。それこそアップルがスタートしたときのビジョンだ」


12歳のジョブズ、ヒューレットに電話する

ジョブズが12歳のとき、周波数カウンターを作りたいと思いました。部品が必要だったが手元にない。そこで彼は電話帳でヒューレット・パッカードの共同創業者ビル・ヒューレットの番号を調べ、直接電話をかけたのです。

この「やればできる」という行動力と、自分が求めるものを相手から引き出す能力は、のちにジョブズの大きな強みになります。インテルから部品をただで手に入れ、音楽会社の重鎮を説得し、世界を変える製品を次々に生み出す——その原型が、12歳の少年の一本の電話にありました。


ウォズとアップルの誕生——「電話帳でアタリよりも前にくるのがよかった」

大学中退後、アタリ社でゲーム開発に携わっていたジョブズは、エンジニアの天才、スティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会います。

1975年6月29日、日曜日。ウォズはヒューレット・パッカード社に戻り、キーボードから文字を入力し、それが目の前のスクリーンに表示されるという実験に成功します。パーソナルコンピュータの歴史的瞬間でした。

ジョブズはこの可能性に飛びつき、「展示して売ろうぜ」と提案します。ウォズは設計の天才でしたが、商品化の発想はなかった。ふたりは持ちつ持たれつの関係でした。

「ぼくがすごいものを設計するたび、それでお金を儲ける方法をスティーブが見つけてくれる」

1977年1月3日、アップルコンピュータが法人化されます。社名はリンゴ農園から帰ってきたジョブズが提案しました。

「果食主義を実践していたし、リンゴ農園から帰ってきたところだったし。元気がよくて楽しそうな名前だし、怖い感じがしないのもよかった。電話帳でアタリよりも前にくるのもよかった」

法人化にあたってジョブズが引き込んだのが、投資家のマイク・マークラです。25万ドルの信用保証と引き換えに会社の3分の1の株を取得したマークラは、「2年でフォーチュン500企業になるんだ。こういうチャンスは10年に一度しかない」と豪語しました。


ゼロックスPARCの衝撃——「これだ!」「やったろうぜ!」

1979年12月、ジョブズはゼロックス社のパロアルト研究所(PARC)を訪れます。ここでの体験が、コンピュータの歴史を変えることになります。

マウスで画面上のアイコンをクリックし、ウィンドウを動かしてファイルを操作するグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)の原型を目にしたジョブズは、興奮して部屋を歩きまわりました。

「あのときは目からうろこがぼろぼろ落ちたよ。そして、未来のコンピュータのあるべき姿が見えたんだ」

PARC見学が終わったあと、車も心も国もスピード違反状態でクパチーノのオフィスに戻りながら、ジョブズは叫びました。

「これだ!」「やったろうぜ!」

この「盗み」について、ジョブズは誇らしげに語っています。

「つまり、人類がなし遂げてきた最高のものに触れ、それを自分の課題に取り込むということです。ピカソも、『優れた芸術家はまねる、偉大な芸術家は盗む』と言っています。我々は、偉大なアイデアをどん欲に盗んできました」


リサとゲイツとの対決

1978年、当時23歳のジョブズはガールフレンドのクリスアン・ブレナンとのあいだに女の子をもうけます。しかし当初は認知を拒否し、DNA鑑定で父親である可能性が94.41パーセントと判明した後、裁判所から月385ドルの養育費支払いを命じられます。

娘の名前はリサ・ニコール・ブレナン。そして、ジョブズが開発を担当することになったコンピュータにも「リサ」という名前がつけられました。本書を執筆するためジョブズに確認したところ、その答えは明快でした。

「僕の娘にちなんだ名前に決まってるじゃないか」

アップルがGUIを搭載したマッキントッシュを開発するなか、マイクロソフトもGUIのオペレーティングシステム「ウィンドウズ」の開発を発表します。これを知ったジョブズはビル・ゲイツをクパチーノに呼び出し、激しく詰め寄りました。

「おまえがしているのは盗みだ――信頼したというのに、それをいいことにちょろまかすのか!」

冷静に座り、ジョブズの目を見かえしたゲイツは、こう返しました。

「なんと言うか、スティーブ、この件にはいろいろな見方があると思います。我々の近所にゼロックスというお金持ちが住んでいて、そこのテレビを盗もうと私が忍び込んだらあなたが盗んだあとだった――むしろそういう話なのではないでしょうか」


アップル追放、そしてネクストへ

1985年、社内政治の末にジョブズはアップルを追放されます。30歳でした。

しかしこのことについて、後年のスタンフォード大学卒業式スピーチでジョブズはこう語っています。

「成功という重圧がなくなり、未熟者という気軽な立場になったわけです――不確かなことばかりの」

追放後、新会社ネクストを立ち上げたジョブズに、テキサスの実業家ロス・ペローが2000万ドルの投資を申し出ます。

「私は騎手を選び、騎手が馬を選んで乗る。私は君らに賭けよう。だから、がんばってくれ」

ネクストは商業的には苦戦しましたが、このあいだジョブズは別の事業で奇跡を起こします。ルーカスフィルムのコンピュータ部門を買収して設立したピクサーが、1995年に『トイ・ストーリー』を世に送り出したのです。


現実歪曲フィールドとは何か

本書を読むと繰り返し登場する言葉があります。「現実歪曲フィールド」——アップルの仲間たちがジョブズの特殊な能力につけた名称です。

不可能と思われる締め切りや目標を社員に言い続け、最終的に実現させてしまう。エンジニアが「できない」と言っても、ジョブズが「できる、やれ」と言い続けると、本当にできてしまう。その不思議な現象を指す言葉でした。

ジョブズ自身は、この考え方をこう表現しています。

「地面のどこかに杭を打ち込む必要があると僕は思う。このチャンスを逃したら信用を失いはじめると思う」

しかし現実歪曲フィールドの暗黒面もありました。2003年10月、膵臓に腫瘍が見つかっても、ジョブズは9ヶ月にわたって手術を拒否します。絶対菜食主義や鍼治療、ハーブ療法など、非科学的な方法にこだわった。

「直面したくないことはみんな無視してしまうのです。そういう人なんですよ」

妻のローリーン・パウエルはそう語っています。2004年7月31日、ようやく手術を受けたとき、すでにがんは肝臓の3ヶ所に転移していました。


スタンフォード卒業式——「死を忘れるなかれ」

2005年6月、ジョブズはスタンフォード大学の卒業式でスピーチをおこないます。膵臓がんを宣告され、50歳となったことから、人生を振り返りたい心境になったといいます。

「今日はみなに私の体験談を3つ、お話ししようと思います。それだけです。特別な話をするつもりはありません。体験談を3つです」

最初はリード大学の中退。2番目はアップルからの追放が最終的によかったこと。そして3番目は、がんと診断されて思ったことでした。

人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。ほとんどのことが――周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など――そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。


スティーブ・ジョブズのこだわり

本書には、ジョブズの人となりを示すエピソードが豊富に描かれています。

歩きながら考える:ジョブズは深刻な話ほど歩きながらしました。大事な交渉も、友人との議論も、えんえんと歩きながらおこなう。これはジョブズの流儀として知られており、インテルのポール・オッテリーニとのチップ切り替え交渉も、スタンフォード大学から山へ向かうハイキングロードを歩きながら詰めました。

絶対菜食主義と食へのこだわり:インドのリンゴ農園で暮らした経験を持つジョブズは、果食主義や絶対菜食主義を長年実践しました。一方で、料理に対しての要求水準は極限まで高く、取材中のホテルでイチゴの種類が気に入らないと夜中に探しに行かせたり、カラーリリーでなければだめだと押し通したりしました。

音を嫌う製品設計:マッキントッシュにはファンが搭載されていませんでした。コンピュータの静けさを損なうとジョブズが意地でもファンを付けさせなかったからです。アップルⅡのファンレス電源設計に情熱を注いだのも同様の理由で、「禅っぽく」なかったからというのがその説明でした。

インタビューに答えて明かした音楽への愛:ジョブズのiPodの中身は、ボブ・ディラン、ビートルズ、ヨーヨー・マのバッハ……。クラシックのチェロ奏者ヨーヨー・マが自宅で演奏したとき、涙ぐみながらジョブズはこう語りました。「あなたの演奏ほど、神の存在を示す論拠として優れたものを聴いたことがありません。人間ひとりでこれほどのことができるとは信じられないからです」


「文系と理系の交差点」——経営哲学の核心

本書の最後でジョブズは、自分がなにをしてきたのかについて、自らの言葉で語っています。

「いつまでも続く会社を作ることに情熱を燃やしてきた。すごい製品を作りたいと社員が猛烈にがんばる会社を。それ以外はすべて副次的だ」

ジョブズが繰り返したのは「文系と理系の交差点」というテーマです。ポラロイドの創業者エドウィン・ランドの言葉に触発された考え方でした。

「アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。すごいアーティストとすごいエンジニアはよく似ていると僕は思う。どちらも自分を表現したいという強い想いがある」

顧客の声を聞いてから製品を作るというやり方に、ジョブズは反対し続けました。

「『顧客が望むモノを提供しろ』という人もいる。僕の考え方は違う。顧客が今後、なにを望むようになるのか、それを顧客本人よりも早くつかむのが僕らの仕事なんだ。ヘンリー・フォードも似たようなことを言ったらしい。『なにが欲しいかと顧客にたずねていたら、足が速い馬と言われたはずだ』って」

死の前年、ジョブズは死について語りました。来世があるかもしれない、でも「パチン——その瞬間にさっと消えてしまうんだ」という可能性も語った。ゆっくりと薄い笑みを浮かべながら、こう付け加えました。

「だからなのかもしれないね。アップルの製品にオン・オフのスイッチをつけたくないと思ったのは」

捨てられた。選ばれた。特別。この3つの観念から出発したひとりの人間が、「宇宙に衝撃を与える」ために生き続けた記録——それがこの本です。

📚 スティーブ・ジョブズ I・II(ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳、講談社)を読んでみる


参考文献:ウォルター・アイザックソン著・井口耕二訳『スティーブ・ジョブズ I・II』(講談社)