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「どうせ倒れるなら、前に倒れよう」
口座残高がほぼゼロになり、会社の倒産が現実味を帯びたとき、寺尾玄さんはそう決意しました。
2009年。社員は自分を含めて3人。売上高4500万円に対して赤字1400万円。銀行借入は3000万円以上。注文は止まり、リーマンショックの余波で新たな融資も見込めない。どう計算しても、会社は数カ月で終わりでした。
その窮地で寺尾さんが取り出したのは、長年温め続けた「夢の扇風機」の構想でした。誰も作ったことのない、自然の風を部屋に再現する扇風機。資金がないから作れないと諦めてきた。しかし、今は関係ない。どうせ潰れるなら、この夢を試してから潰れようと思ったのです。
こうして生まれたのが「GreenFan(グリーンファン)」——バルミューダを世界的なブランドへと変えた伝説の扇風機です。
本書『行こう、どこにもなかった方法で』は、高校を中退した17歳の少年がヨーロッパを放浪し、ロックスターを目指し、夢を諦めてものづくりの道へ転じ、倒産寸前から奇跡の逆転を果たすまでの全軌跡を語った自伝です。経営の教科書ではなく、一人の人間が「どこにもなかった方法」で切り開いた人生の記録です。
寺尾玄さんの基本プロフィール
| 氏名 | 寺尾玄(てらお げん) |
| 生年 | 1973年7月25日、茨城県龍ヶ崎市生まれ |
| 学歴 | 高校中退(17歳) |
| 経歴 | 茨城の洋蘭農家育ち→17歳で高校中退→地中海沿岸を1年間放浪→帰国後ミュージシャンとして活動(大手レーベルと契約)→2001年バンド解散→独学でものづくりを習得→2003年バルミューダデザイン設立→2010年GreenFan発売で倒産回避→2011年バルミューダ株式会社に社名変更→2015年BALMUDA The Toasterがグッドデザイン賞金賞→現在も代表取締役社長 |
| 主な実績 | GreenFan(累計出荷40万台超のロングセラー)、BALMUDA The Toaster(グッドデザイン賞金賞)、バルミューダの売上高100億円超への成長 |
| 著書 | 『行こう、どこにもなかった方法で』(新潮社) |
「お前は違う」——洋蘭農家の息子に育った少年
茨城県の森の中、洋蘭を栽培する広いビニールハウスの片隅に、板張りの小さな家がありました。灯油ランプをぶら下げた山小屋風の家。居間には両親が学生時代から買いためた膨大な書籍と、レコードプレイヤーがありました。
父は農家の経営者。母はフラワーコーディネーター。二人はそれぞれが「情熱的で仲の良い」夫婦でしたが、現実の貧しさの中でやがて激しく衝突するようになりました。
その父が寺尾さんにいつも言い聞かせた言葉があります。「お前は違う」——人と違うことをしなくてはダメだ、という意味でした。毎年夏、家族を海外旅行へ連れて行き、世界の広さを体験させた父。その言葉と体験が、少年の価値観の根幹を作りました。
寺尾さんが10歳のとき、両親は離婚します。母は東京に戻り、父と兄弟が茨城に残りました。その後も月に一度は会いに来た母でしたが、離れて暮らす日々の中、母の体調は少しずつ悪くなっていきました。
転機は中学3年生のときに訪れます。ハワイで海水浴をしていた母が溺れ、心肺停止状態で病院に運ばれた、という連絡が届きます。父と兄弟は急いで成田空港へ向かい、飛行機に乗り込みました。
病室のドアを開けると、人工呼吸器や計測機器に囲まれた母がいました。その夜、レストランで食事をしながら、父が突然激しく泣き出します。「あんなに愛した女はいなかった」——そのセリフは、子供たちに聞かせるためではなく、本音が口をついて出た言葉でした。
二日後、母は帰らぬ人となりました。
17歳の高校中退——「行くしかない」と決めた朝
母の死から数年後、寺尾さんは高校2年生になる直前に決断を下します。文系か理系かの選択が迫られ、「どちらかを選んだ瞬間に、自分の未来が決まってしまう気がした」。それが嫌で、高校をやめることにしました。
父に告げると「好きなところへ行ってこい」と言われ、スペインへの航空券を買いました。
17歳の少年が手にした航空券には「MADRID」と印刷されていました。「同級生や暴走族仲間は、今、何をしているだろう。きっと家で夕食を食べている時間だ。それに比べて、私は——」。
こうして始まったのが、スペイン、フランス、イタリア、モロッコなど地中海沿岸諸国をおよそ1年かけて旅する放浪の日々でした。
本書『行こう、どこにもなかった方法で』の第五章「十七歳の旅」に記されるのは、この旅の記憶です。言葉も通じない、お金もない、地図しか頼るものがない状況で、見知らぬ土地を一人で歩いた経験が、寺尾さんの「可能性を完全に信じる力」の源泉になっていきます。
父が成田空港の出発ゲート前で、「じゃあ」と立ち去ろうとした息子の肩をドン、とたたいた。「きっと、あれは合図だったのだ。自分で自分の人生のトラックを走り始めるためのピストルの音だったのだ」——と寺尾さんは後に振り返っています。
ロックスターへの10年——夢の挫折と決断
帰国後、寺尾さんは音楽の道を歩み始めます。独学でギターを覚え、プロのシンガーソングライターとして活動。大手レーベルと契約し、バンド「Beach Fighters」を結成。スプリングスティーンやブルーハーツの影響を受けた汗臭いロックを追い求めました。
しかし、時代は色恋沙汰を歌う軽やかなポップスが席巻していた1990年代後半。「おれの歌が分からないこの人はなんてバカなんだろう」と思いながら、夜、一人の部屋に帰ってくると「自分がバカなのかもしれない」と思う——その繰り返しでした。
「四ツ谷駅の階段を上っていた時に、初めてそう思った瞬間を、今でもはっきりと憶えている」——おれは天才じゃないかもしれない。
有力な音楽プロデューサーに引き抜かれ、チャンスをつかみかけたこともありました。しかしより売れる歌を目指してスタイルを変えるうちに、これまで支えてくれていたファンもバンドメンバーも離れていきました。
「夢見たステージに立てるということを自分に証明しなければならない」——その一念で走り続けた10年間。しかし2001年、バンドは解散します。寺尾さんは28歳になっていました。
音楽という夢の挫折から、新たな道を切り開いた起業家の物語は他にもあります。
「ものを作る」——秋葉原と工場を巡った独学の日々
音楽をやめた翌2002年、寺尾さんはある日、ガールフレンドの部屋でオランダのデザイン誌を見ます。そこに載っていた製品を見て、「こういうものを作りたい」と思いました。
問題は、ものづくりについて何も知らないことでした。図面の書き方も、工作機械の使い方も、金属加工の工程も、まったくの素人。
寺尾さんが取った行動は単純でした。秋葉原の電気街を毎日歩き回り、部品の名前を店員に聞いて覚えました。電話帳をめくって50件以上の工場に電話をかけ、「自分の図面を見てほしい」と頼み込みます。断られ続けながら、何十軒目かに「春日井製作所」という町工場と出会います。
社長と弟と職人の3人でアルミ切削加工をする小さな工場でした。そこで春日井兄弟は言いました。
「この部品、作ってあげられるよ。だけど、おにいちゃん、お金ないでしょう? ウチの機械使っていいから、自分で作れば?」
「こんな、親切な、天使のような人たちが、この世にいたのか」——寺尾さんはその夜から毎日、閉店後の工場に通い始めます。旋盤、ボール盤、フライス盤の操作方法を手取り足取り教えてもらい、手を機械油で真っ黒にしながら、ものづくりの基礎を身につけていきました。
2003年、有限会社バルミューダデザインを設立。最初の製品はノートパソコン用の冷却台「X-Base」でした。
「必要とされていなかった」——倒産寸前の気づき
初期のバルミューダはデスクライトや冷却台など「かっこいい」製品を作っていましたが、リーマンショック後の2009年、注文が完全に止まりました。
売上高4500万円に対して赤字1400万円、借入3000万円以上。あと数カ月で倒産——。
眠れない夜を過ごしながら、寺尾さんは街を歩きました。
「金融危機のはずなのに、レストランの中では、お客さんたちが料理が運ばれてくるのを待っていた。シャンプーも買うし、靴下も買う。自分も含めて、日本中で日々の消費活動は続いている。そんな中、自分の会社は倒産しようとしていた」
そのとき、長年の疑問の答えがやっとわかった気がしました。
「製品が売れないのは、高かったからではない。必要なかったからなのだ」
「悲しかった。あんなにも一生懸命になって作ってきた製品や会社は、必要とされていなかったのだ。結局、自分勝手だったのだ。カッコいいと思うのは大事だが、それよりも人に必要とされるほうが大事だったのだ」
この気づきが、その後のバルミューダのすべてを変えました。
「夢の扇風機」——6000万円を口座残高150円で調達した日
「どうせ倒れるなら、前に倒れよう。どうせ倒れるなら、夢のために倒れよう」
寺尾さんが構想を温め続けてきた扇風機がありました。小学生の夏、自転車で坂道を下るとき、カブトムシを捕りに木に近づくとき——ふっと吹き抜ける自然の風のような扇風機。強すぎて体に当たり続けられない既存の扇風機とは根本的に違う、自然の風を室内に再現する扇風機です。
流体力学の本を3冊買って読みましたが、「流体力学にはいまだに分かっていないことがたくさんある」とわかって逆に安心しました。「学者でも分からないことがあるという。そういう意味では、我々素人と彼らに大差はない。分からない者同士なのだから」。
3カ月で試作品を完成させ、資金調達に動きます。取引先のモーター会社・丸山社長に頼み込み、「銀行融資を確保してから来い」と言われます。しかし銀行に行かずに、代わりに販売先を回って2000台分の内示書を集め、丸山社長のもとに戻りました。
「社長、その代わり、注文を取ってきました。全部で2000台分です。この勝負、やったら勝てます。私も人生をかけています。絶対に成功させます。6000万円、立て替えてください!」
しばらくの沈黙の後——「しょうがねえ、やるしかないだろう」という低い声が聞こえました。
6000万円の立て替えが決まった。そのとき寺尾さんのジーンズのポケットの中には、150円しかありませんでした。神田から東小金井まで電車代450円がかかるため、300円を借りて帰りました。
家電芸人との出会い——「本気な人を見たのは初めて」
6000万円を調達したが、残りの4000台をどう売るか——。
家電量販店に電話をかけても「聞いたことのない会社の、普通の十倍もする高い扇風機」など相手にしてもらえません。
考えた末に「テレビで有名にするしかない」と結論を出します。当時、日本では「家電芸人」と呼ばれるお笑い芸人がバラエティー番組で家電を紹介するムーブメントがありました。
一方で、製品発表会を開催しようと動き出したところ、六本木ミッドタウンの家具ブランド社長が「うちの広い店舗を使っていい。費用も出す」と申し出てくれます。
「なぜそんなに親切にしてくれるのか?」と尋ねると、こう言われました。「こんなに本気な人を見たのは初めてだからだ」。
本書『行こう、どこにもなかった方法で』の最終章が描くのは、こうして巻き込まれた多くの人たちの力で、GreenFanが世に出るまでの怒濤の日々です。2010年4月の発売後、家電芸人の紹介でテレビに取り上げられ、GreenFanは大ヒットを記録。バルミューダは倒産の淵から奇跡の復活を果たしました。
寺尾玄さんのこだわり
本書『行こう、どこにもなかった方法で』を通じて、寺尾さんという人間の核心が見えてきます。
「可能性の存在を完全に信じられることが特技」——「私たちは、何かが不可能だということはできない。なぜならまだ試していない方法があるかもしれないからだ」。この言葉は序章に登場し、本書全体を貫く哲学です。17歳の放浪、ロックスターへの挑戦、工場50件への飛び込み、6000万円の交渉——いずれも「できるかもしれない」という信念のもとに動いた行動でした。
「前に倒れる」——状況ではなく方向を選ぶ——倒産が見えている状況で、「どうせ倒れるなら、前に倒れよう」と決断した姿勢。守りに入るのではなく、夢に向かって攻め続ける。リーマンショックに対して「どこかの贅沢をしていた金持ちのせいで、自分の夢がついえるのはまっぴらごめんなのだ」という言葉に、寺尾さんの反骨心が表れています。
「流体力学の本を読んで、素人が参入できると判断する」——専門家が分からないことがある分野なら、素人だから不利というわけではない——この逆転の発想で、家電の知識ゼロからGreenFanを開発しました。「分からない者同士」という認識が、既成概念に縛られない開発を可能にしました。
寺尾玄さんゆかりの地
茨城県龍ヶ崎市(洋蘭農家の育った場所):板張りの山小屋風の家、本棚いっぱいの書籍、レコードプレイヤー——「いつも真剣に生きること。常識にとらわれずに自由に考えること。本気で夢を信じていいこと」という価値観の原点がここにあります。父の「お前は違う」という言葉が、寺尾さんの人生のコンパスになりました。
スペイン・ロンダ(17歳の放浪の始まりの地):ヘミングウェイの小説に登場する闘牛の発祥の地として知られる、アンダルシアの白壁の古い町。インターネットも携帯もなかった時代に、地図だけを頼りに一人でたどり着いた場所です。この旅が「どんな状況でも、できるかもしれないと信じる力」を育てました。
東京・東小金井(春日井製作所・バルミューダ創業の地):「機械油と灯油ストーブの懐かしい匂いがした」町工場で、旋盤や フライス盤の操作を手取り足取り教えてもらった場所。当時のバルミューダの事務所もこのエリアにありました。素人の夢を受け入れてくれた「天使のような」職人との出会いが、すべての出発点です。
寺尾玄さんから学ぶ、3つの教訓
1. 「必要とされることが、すべての出発点」——自分勝手な夢と、人のための夢は違う
倒産寸前の夜の気づきが、この教訓の核心です。「カッコいいものを作る」という自分本位の発想から、「人に必要とされるものを作る」という発想へ——この転換がGreenFanを生み、その後のバルミューダのすべての製品開発の原則になりました。「うれしさしか売れない」という言葉は、この気づきの延長にあります。どんなビジネスも、顧客の「必要」から始まる。その当たり前の原点を、寺尾さんは倒産の危機で初めて腑に落としました。
2. 「本気な人には、助けが集まる」——6000万円が150円の人間に集まった理由
丸山社長、家具ブランドの社長、家電芸人——寺尾さんが窮地で出会った人たちは、「こんなに本気な人を見たのは初めて」という理由で力を貸してくれました。テクニックでも人脈でもなく、「本気であること」が最大の説得力だったのです。「倒れるなら前に倒れよう」と夢に向かって突進する姿勢が、周囲の人間を巻き込む磁力を生みました。
3. 「素人であることを恐れるな」——流体力学の本が教えた最大の発見
「流体力学にはいまだに分からないことがたくさんある」——この一節が、GreenFan開発への参入を決意させました。専門家でも分からないことがある分野では、素人だからといって不利ではない。工場への飛び込みも、音楽も、ものづくりも、すべて寺尾さんは素人から始めました。「できないかもしれない。でも、できるかもしれない。だからどんな試みも、それが不可能であることを証明するのは、不可能だ」——この信念が、すべての挑戦の原動力でした。
この記事で語りきれなかった『行こう、どこにもなかった方法で』の魅力
本書にはまだ紹介しきれていないエピソードが多くあります。
一つ目は、ギタリストを「裏切った」痛みの告白です。音楽活動の中で最も世話になったギタリストが、プロデューサーと衝突して新バンドへの交代が決まったとき、寺尾さんはそれを止めませんでした。「夢見たステージに立てるということを自分に証明しなければならない」——その一念で友人を切り捨てた自分を、「私は彼のことを裏切ってしまった」と、20年後の今も正直に記しています。
二つ目は、スペインのバルで隣り合った老人との会話です。17歳の東洋人の少年と、言葉も満足に通じないスペインの老人が、ワインを飲みながら笑い合う——この場面に、人と人の繋がりの本質が凝縮されています。「旅先で気になるような場所があったら、そこは、もしかしたら私たちにとってのゆかりの地なのかもしれない」という序章の言葉が、ここで生きてきます。
三つ目は、「手作りの会社」時代の社員採用の話です。創業初期、求人広告も出せないバルミューダがどうやって社員を集めたか——ものづくりへの情熱だけを頼りに集まってきた若者たちの話は、バルミューダという会社の原点を鮮やかに示しています。
📚 [行こう、どこにもなかった方法で(新潮社)を読んでみる]
まとめ|寺尾玄さんが教えてくれること
「人生は、何が起こるか分からない」——本書は序章のこの一文から始まります。
高校を中退してヨーロッパを放浪し、ロックスターを目指して挫折し、ものづくりに転じて倒産寸前まで追い込まれ、そして扇風機で奇跡の復活を果たした——誰も予測できなかった軌跡です。
寺尾さんが一貫して持ち続けたのは、「可能性の存在を完全に信じる力」という特技でした。どんな状況でも「できるかもしれない」と思い続け、前に向かって動き続ける。それが「どこにもなかった方法」の正体でした。
本書『行こう、どこにもなかった方法で』は、ビジネスの成功法則ではなく、一人の人間が「どうせ倒れるなら、前に倒れよう」と決意した物語です。ぜひ手に取ってみてください。
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参考文献:寺尾玄『行こう、どこにもなかった方法で』(新潮社)
