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杉本宏之|30歳で400億円の負債を抱えた起業家が再び立ち上がった理由

エスグラントコーポレーション創業者・杉本宏之さんの書籍『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』を紹介する記事のアイキャッチ画像

夜中の3時過ぎ、眠れないベッドの上で携帯電話が鳴りました。

2009年3月12日。杉本宏之さんが社長を務めるエスグラントコーポレーションが、負債総額191億円で民事再生を申請した夜のことです。個人でも13億円以上の借金を抱え、自己破産を余儀なくされていました。

画面に表示された名前は、ティクアンドギヴ・ニーズの野尻佳孝社長でした。

「落ち込んでるのか?」

「落ち込んでます」

「落ち込んでる場合か!やり直せばいいんだ。スギの歳なら十分やり直しがきく」

「でも、僕はたくさんの人に迷惑をかけて」

「だからこそ、ちゃんと前を向け。最後までスギを信じた社員がそんな姿を見たら悲しむだろ」

電話は堀江貴文さんに替わりました。「お前さあ、落ち込んでるんじゃねえよ」——ライブドアの事件で自らも係争中の堀江さんが、酒席から電話をかけてきたのです。「お前は社会が定めたルールの中でチャレンジしてきた。だから胸を張れ。今まで通り外に出ろ」。

電話を切ると、目の前の闇が少しずつ溶けていくのを感じました。

本書『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』は、川崎の貧困家庭に育った少年が、28歳で業界最年少上場を果たし、30歳でどん底に落ち、そして再び立ち上がるまでを正直に記した一冊です。「なぜ地獄を味わうことになったのか。なぜ復活できたのか」——その問いへの誠実な答えが、ここにあります。


杉本宏之さんの基本プロフィール

氏名杉本宏之(すぎもと ひろゆき)
生年1976年
出身神奈川県川崎市
経歴18歳で宅地建物取引士試験合格→投資用ワンルームマンション販売会社に就職→2001年エスグラントコーポレーション創業→2005年12月28歳で業界最年少・最短(48カ月)上場→2009年3月民事再生申請(負債191億円・個人13億円)→自己破産→ファイブノット(現在の不動産会社)創業→再起
主な実績不動産業界最年少・最短での上場記録を樹立(当時)。倒産・自己破産を経て不動産事業で再起。「ハイブリッドデベロッパー」という新しいビジネスモデルを構築
著書『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』(ダイヤモンド社)

6畳一間のアパート、母の死、父に刺された夜——少年期の原点

物心ついた時には貧乏でした。

杉本さんは川崎市内の6畳一間のアパートで育ちました。不動産ブローカーで失敗した父が55歳、母は31歳、杉本さんが5歳のときに、財産と自宅を失って逃げるように川崎に引っ越してきたのです。

8歳のとき、交通事故で3カ月入院。左足の指が動かなくなりました。

13歳のとき、母が胃ガンで亡くなります。医者にも行かず激しい痛みに耐え続けた末の末期ガンでした。余命1カ月の宣告から1カ月半後、母は逝きました。通夜の夜、杉本さんは一晩中棺に寄り添って眠りました。

高校2年生になると、地元のバイクチームの幹部を務めるほど荒れた生活を送ります。ある日、仲間が死に、親友が一生取り返しのつかないけがをします。「俺はいったい、何をやってるんだろう」。後悔に苦しみながら、内心では変わるきっかけを探していました。

決定的な出来事は18歳のとき。アルバイト代を要求する父と掴み合いの喧嘩になり、父は台所から包丁を持ち出してきました。「刺せるものなら刺してみろ」と高をくくった杉本さんの腕に、父は本当に包丁を突き刺しました。

腕から流れ落ちる鮮血が畳を染める。我に返った父の手から包丁が落ちる。涙を浮かべる父に、杉本さんも泣きながら呟きました。「親父、俺たちは何をやってるんだ」。

「こんな生活から抜け出さなきゃいけない」

この夜が、すべての出発点でした。


宅建合格→入社1カ月で父が蒸発——22歳にして年収2000万円へ

高校3年生の夏から猛勉強を始めた杉本さんは、大学への補欠合格も得ますが、4年間の猶予は無駄に感じられました。代わりに選んだのは、父の仕事でもあった不動産業の道です。

「時代は動く。父が時代に恵まれなかったなら、俺にはチャンスの時代になるかもしれない」

宅建の資格取得に有利な専門学校に進み、最初の試験で合格。すぐに投資用ワンルームマンションの販売会社に就職しました。

就職して1カ月後。父は杉本さんの預金通帳から初めてもらった給料の半分を勝手に引き出して、アパートから姿を消しました。父との暮らしは、唐突に終わりを告げました。

しかし杉本さんは動じませんでした。夢中で働き、1年目に20位だった営業成績を3年目にはトップに押し上げます。22歳にして年収2000万円を稼ぎ、最年少の管理職に選ばれました。

そして2001年9月11日、アメリカの研修旅行で滞在していたラスベガスで、世界貿易センタービルへの飛行機突入のニュースを目撃します。

「人生なんて何があるかわからない。一度きりの人生、後悔だけはしたくない」

これが独立を決意させた瞬間でした。


「社員にすべてを捧げてほしい」——どん底のV字回復

2001年12月、杉本さんはエスグラントコーポレーションを創業します。渋谷駅から5分の雑居ビルにオフィスを構えて「さあスタートだ」となった段階で、自分たちには販売できる物件がないことに気づいて慌てる——そんなドタバタの始まりでした。

創業当初、出身会社の社長から業界団体を通じた猛烈な妨害を受け、金融機関の取引も制限されて、倒産寸前まで追い込まれます。

2002年夏、社員への給料さえ滞り始めた状況で、杉本さんは社員を集めます。

「今の状況を招いたのは、社長である俺の責任だ。これからは本気で仕事をやって、絶対に会社を立ち直らせたいと思っている。ただ、この状態の会社に残ってくれとは俺からは言えない。嫌なら辞めてくれていい。でも、残ってくれる社員はエスグラントにすべてを捧げてほしい」

辞めていく社員はほとんどいませんでした。それどころか、わずかなボーナスを社員が自発的に話し合って「半分返す」と言ってきたのです。

「社員を自分の家族だと思って本気でぶつかり合おう」

その決意が報われます。2002年8月から2003年7月まで、売上げは毎月新記録を更新。1期目の7億円から、2期目は21億円へと3倍の売上げを達成しました。


こうした創業期の苦難と立て直しは、多くの経営者に共通するドラマです。 他の経営者の事例もあわせて見ることで、より理解が深まります。


50億円の買収提案を一蹴——28歳、業界最年少・最短の上場

上場への道のりにも試練がありました。

上場直前、香港のヘッジファンドから「50億円を投資するので、過半数以上の株式を渡せ」という提案が届きます。エスグラントの未公開株を安値で取得してから上場させるスキームでした。

杉本さんは即座に断りました。

「わけのわからない中国人が経営層に乗り込んで来て会社をかき回されて、エスグラントのカルチャーが失われたらと想像するだけでゾッとします」「石にかじりついてでも自力で上場する覚悟です」

2005年12月20日、エスグラントコーポレーションは名証セントレックスへの上場を果たしました。28歳1カ月、創業から48カ月。当時の不動産業界の最年少・最短上場記録を更新しました。

本書『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』には、万雷の拍手とスタンディングオベーションで迎えられた証券会社のフロアの場面が描かれています。「上場はゴールじゃない、スタートだ!」——祝宴の席でそう宣言した杉本さんに、誰もついていけない目標を追い続ける経営者の顔がありました。


「踊るしかない」パーティーの果て——400億円の崩壊

2006年12月、中間期にして売上高202億円、経常利益17億円。時価総額は200億円に迫り、個人年収も29歳にして3億円を超えます。

テレビや雑誌の取材、講演依頼が相次ぎ、ロリンザーフルカスタムのベンツで出社し、一着50万円以上のスーツに身を固め、50万円以上の洋服を毎週買い続けました。会社の忘年会では麻布十番のクラブを貸し切りにして500人以上を集めました。

しかし杉本さんは本書で正直に振り返っています。

「音楽が鳴っている間は、我々はただ踊るしかないのだ」——「踊るしかない」パーティーが始まっていたのです。

2007年6月期、売上高377億円、経常利益23億8000万円の過去最高決算。しかし同年、サブプライム問題が表面化します。不動産価格が下落し、銀行の融資が止まります。高値で仕入れた物件は売れず、レバレッジの刃が自分に向かって来ました。

2008年9月、リーマン・ショック。エスグラントの株価は1年前の15分の1に落ち込み、個人で株を担保に借りた資金の返済も滞り始めます。

「杉本君、頼むから金を払ってくれ。うちも破産するしかない」——マンションを建設したゼネコンの社長が社長室に押し寄せてくる。払いたくても払える金はない。毎日の詰問と怒号。夜には社員から「会社は大丈夫ですか」と相談を受け、説得を続ける。

五反田の線路沿いを一人で歩きながら、初めて涙があふれ出しました。「涙は終戦を意味する」と自分に言い聞かせてきた杉本さんが、この日ついに泣き崩れました。

2009年3月12日、民事再生を申請。個人では自己破産を余儀なくされました。


「倒産は、勝負を厭わずに生きる男の勲章だ」——謝罪行脚で受け取った言葉

民事再生を決断してから、杉本さんは出資者や友人への謝罪行脚を始めます。

最初に訪ねたのは、経営危機の際に15億円の資金支援を決めてくれたユニマットグループの高橋洋二会長でした。ふざけるな、と罵倒されることを覚悟して土下座しました。

しかし高橋会長は「杉本君、頭を上げなよ」と静かに言いました。

「よく頑張ってたじゃない。エスグラントの破綻は、今の状況ではどうしょうもないことでもある。むしろ個人の資産も全部吐き出しちゃって、再起できなくなっちまうぞ。なんとかして少しくらいは残しておいたほうがよかったんじゃないか?」「それにしても、俺も苦しくなっちまって、杉本君を助けられなくて悪かったね」

ただただ泣いて詫びるしかありませんでした。

その夜、高橋会長はこんな言葉を伝えてくれました。

「逮捕や倒産、闘病は、勝負を厭わずに生きる男の勲章だ」

自らも数々の修羅場を経験してきた会長だからこそ言える言葉でした。この一言が、杉本さんの再起への第一歩になりました。


同じく負債を抱えてどん底に直面した経営者もいます。


「何をやるかより、誰とやるか」——2年間の修行と再起への誓い

自己破産後、杉本さんは創業仲間の湯藤とともにファイブノットという小さな不動産会社を立ち上げます。

「2年間は修行と決める」——かつて起業を志した頃に戻るつもりで、まず力をつけることに集中しました。エスグラント時代のようなレバレッジ経営ではなく、都心11区・主要駅から徒歩8分以内という厳格なルールを設けて、堅実な物件のみに絞り込みます。

この時期、再起への力をくれたのは仲間でした。

ZOZOの前澤友作さん(当時スタートトゥデイ)は、「落ち込んでるスギちゃんのために、千葉でひたすら飲み倒そう」と誘い、自社を案内しながら「社員を幸せにしたい」という経営哲学を語ってくれました。グリーの田中良和社長は、民事再生の報告に訪ねると「苦しかっただろうね」と大粒の涙を流しました。

「何を言っても言い訳になる」という思いで苦しんでいた杉本さんに、親友たちの涙は正直に刺さりました。

「もう虚勢を張って、見栄を張って、自分を偽るのはやめよう。自分らしく愚直に、真っすぐにやり直すんだ」

目標は「今度は潰れない会社にする」こと。そのために選んだのは、開発事業と賃貸管理を組み合わせた「ハイブリッドデベロッパー」という新しい形でした。ストック型収益を積み上げながら開発を続ける。景気の波に飲み込まれない体力を持った会社を作る——エスグラントの失敗から導き出した答えでした。


杉本宏之さんのこだわり

本書『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』を通じて、杉本さんの再起を支えた信念と習慣が浮かびあがります。

「経営者が落ち込んでいても誰も助けてはくれない」——倒産の夜に野尻さんから叱咤されたこの言葉が、杉本さんの原動力になっています。どんなに苦しくても弱音は吐かない。社員の前では必死で強がる。それが最後まで続いた。しかし再起の過程で学んだのは、「弱さを正直に認める勇気」でもありました。虚勢を張ることをやめた時、本当の再起が始まりました。

「何をやるかより、誰とやるか」——再起への誓いの言葉として本書に刻んだ一文です。エスグラント時代は「どんな事業をやるか」「いくらの売上を出すか」に意識が向きすぎていた。倒産後、苦境に泣いてくれる仲間の存在が、経営者としての器より人間としての誠実さがずっと大切だということを教えてくれました。

「譲れない一線」を最初に引く——新会社では「都心11区・主要駅から徒歩8分以内の物件しか扱わない」というルールを創業当初から設けました。エスグラント時代は熱狂の中で判断軸がぶれていきました。再起後は、何を断るかを先に決めることで、何に集中するかが明確になりました。ルールは経営者が感情で動かないための防壁でした。


杉本宏之さんゆかりの地

神奈川県川崎市(出身地):6畳一間のアパートで育ち、不良グループの幹部を経て宅建資格取得へと向かった出発点の地です。「こんな生活から抜け出さなきゃいけない」という決意を生んだ場所でもあり、今の杉本さんの原動力の根にあります。

東京・渋谷(エスグラントコーポレーション創業の地):渋谷駅から5分の雑居ビルで、販売する物件がないまま「さあスタートだ」と飛び出した出発点です。倒産寸前の窮地から、社員と一丸になってV字回復を遂げた場所でもあります。

東京・五反田(涙が崩壊した夜):銀行に口座を凍結された日の夜、線路沿いを一人で歩きながら初めて泣き崩れた場所として本書に記されています。「涙は終戦を意味する」と自分に言い聞かせてきた杉本さんが、ついに泣いた夜——その後すぐに民事再生の決断をします。


杉本宏之さんから学ぶ、3つの教訓

1. 「業績という名の魔力」に気づけるか——好況期こそ最大の危険

杉本さんは本書で「業績という名の魔力が経営者の正気を奪う」と書いています。エスグラントが最高益を更新し続けていた時期、杉本さんは自分が深刻なモラルハザードを起こしていることにすら気づけませんでした。売上が伸びるほど、判断軸はぶれていきます。「踊るしかない」と感じたら立ち止まるべきなのに、音楽が鳴っている間は踊り続けてしまう。好況期こそ、経営者が最も試される瞬間です。

2. 「どんなに苦しくても筋は通す」——倒産後の誠実さが再起の土台になる

民事再生申請後、杉本さんは資金繰りの助けにもならない謝罪行脚を続けました。しかしその行脚で受け取ったのは、思いもよらぬ温かい言葉の数々でした。「倒産は勝負を厭わずに生きる男の勲章だ」「最後まで逃げなかったスギちゃんを尊敬する」——倒産後にどう振る舞うかが、次のスタートを決めます。誠実さは、最後に残る資産です。

3. 「今度は潰れない会社にする」——失敗から設計図を作る

再起後のファイブノットには、エスグラントの失敗が設計図になっています。レバレッジをかけすぎない。都心・駅近以外の物件には手を出さない。ストック型収益を先に積み上げる——どれも「なぜエスグラントは潰れたのか」という問いへの答えです。失敗は恥ではなく、次の経営の教科書になります。その教科書を作れる人だけが、本当の意味で「もう一度」起業できます。


この記事で語りきれなかった『30歳で400億円の負債を抱えた僕が』の魅力

本書には、まだ紹介しきれていないエピソードが多くあります。

一つ目は、6億円詐欺事件の話です。上場直後のエスグラントに仕組まれた、出会いから半年、総勢10名近くの手の込んだ詐欺でした。世田谷区の土地6億円を騙し取られる直前、前夜の酒席で出社が遅れていた社長不在の間に決済が完了していた——その場面が克明に描かれています。この事件は、杉本さんに「傲りが始まっていた」ことを示す最初の警告でした。

二つ目は、五反田の線路沿いで泣き崩れた後の民事再生の決断の場面です。湯藤と前田という2人の役員と、狭いオフィスで向き合い「決断したよ」とひと言告げた沈黙——その後どのような道を選んだかは、本書の後半に詳述されています。破産・会社更生・民事再生の違いを弁護士と検討する場面からも、経営者としての責任感が伝わります。

三つ目は、前澤友作さんのスタートトゥデイでのスピーチです。東証一部上場記念の全社朝礼に「前澤がゴルフに行くから代わりに話してくれ」と頼まれた杉本さんが、会社を潰した自分がなぜここに立つのかを正直に語った場面は、本書のクライマックスのひとつです。

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まとめ|杉本宏之さんが教えてくれること

川崎の6畳一間から宅建試験合格。22歳で年収2000万円。28歳で業界最年少上場。そして30歳で400億円の負債、自己破産——。

山から谷への落差が大きければ大きいほど、その人間の底力が見えてきます。

杉本さんの本書を読んで伝わってくるのは、成功の話でも失敗の話でもなく、「人間というのはこういうものだ」という率直な告白です。勝ち続けているときは傲り、負けたときは初めて感謝の意味がわかる。それは誰でも同じかもしれない。ただ、その気づきをここまで正直に書ける人は少ない。

「なぜ、私は地獄を味わうことになったのか。なぜ、私は復活できたのか」——この二つの問いに向き合い続けたことが、杉本さんの再起の本質です。

本書『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』は、起業家だけでなく、大きな失敗を経験した人、もう一度立ち上がろうとしているすべての人に向けて書かれた一冊です。ぜひ手に取ってみてください。


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参考文献:杉本宏之『30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』