ビジネスの教訓や気づきを得られる社長本まとめ

塚本幸一さん|ワコール創業者が「五十年計画」で貫いた相互信頼の経営哲学

塚本幸一さん|ワコール創業者の五十年計画と相互信頼の経営哲学

1946年6月15日、復員船がバンコクから日本へ向かっていました。

55人の部隊で生き残ったのは、塚本幸一さんを含めてわずか2人。船の上で塚本さんは「なぜ自分は生き残ったのだろうか」と考え続けます。丸三日ほど考えて出た結論は「私は生きているように見えるが、実際は生かされているのだ」ということでした。

「生かされている間は、日本の再建復興の一翼を担おう。その使命感を母体に、私の一生をやり抜こう」

帰国したその日のうちに、塚本さんは商売を始めます。復員した日が、そのままワコールの前身「和江商事」の創業日となりました。この6月15日を、塚本さんは「人生第二の誕生日」と呼んでいます。


塚本幸一さんの基本プロフィール

氏名塚本幸一(つかもと・こういち)
生年1920年、滋賀県生まれ
学歴滋賀県立八幡商業学校(1938年卒業)
経歴1946年6月15日:復員即創業(和江商事個人創業)→1949年11月:和江商事株式会社設立→1957年:ワコールに社名変更→1964年:株式上場→1970年:海外進出(台湾・タイ・韓国)→ワコール会長、京都商工会議所名誉会頭
経営哲学「相互信頼」「五十年計画」「生かされている」
社訓ワコールファイト十則(電通鬼十則をもとに修正)
ゆかりの地滋賀県(出身)、京都(本社)

五十年計画——苦境のどん底で立てた誓い

復員して間もない1949年11月1日、塚本さんは資本金100万円(3年間の商売で貯めた80万円と、父の残した掛け軸などを売った20万円)、社員10名で「和江商事株式会社」を設立しました。

しかし会社をつくってすぐに試練が訪れます。大変寒い11月、人々は洋装を着物に着替えてしまい、売り上げはぱったりと止まりました。1950年の正月は「会社を解散しようか」と思うほどの苦しさのどん底でした。

そのとき、塚本さんの頭にふと浮かんだのは「今世紀の終わりまで、ちょうど五十年ある」ということでした。

「この地球上にいる人間はすべて、生まれたときから一日一秒もとどまることなく成長、変化し、最後は必ず死んでいくという共通の運命を持っている。その宿命のなかで、何か物事を始めるときに、五十年計画を立ててそれをやりきる人間がいるだろうか。おそらくいないだろう。私は五十年の計画を立てて、それを実現することに人生を賭けてみよう

こうして、苦境のどん底から「五十年計画」が生まれました。十年を一節として刻む、壮大な羅針盤です。本書はその計画の約九割をやり切った時点で書かれた一冊です。


ブラ・パットとの出会い——夜行列車の窓際で

1949年の春、転機が訪れます。

丸物百貨店の洋裁部にいた安田さんという人物が、突然塚本さんの家に「ブラ・パット」を持参してやってきました。アルミ線を線香型に巻き上げたスプリング状のものに古綿をかぶせ、布でくるんだ鰻頭のような形の商品です。

「これからの日本の女性は洋装化する。これまでは和服を着ていたからバストをあまり気にしなかったが、洋装になれば一番のポイントはバストラインだ。女性の洋装化によって、美しいバストラインをつくるこの商品が必ず必要になる」

安田さんの言葉を聞いて、塚本さんは「この人は時代を読んでいる」と直感しました。その場で持ち込んできたブラ・パットを全部仕入れ、その日の夜行で東京に向かいます。当時の夜行列車は人であふれかえっていました。開いている窓からやっと身体を入れたものの、東京まで十時間以上、ひじ掛けにつま先をかけ、背もたれにお尻の片方をつけ、片手で網棚の棒をつかんで、もう一方の肩にブラ・パットの入った箱をかかえたままの格好でした。

東京に着き、八重洲口から銀座へ歩きながら飛び込み販売をすると、どの店でも大変関心を持ってくれました。持っていた商品はその日のうちに全部売り切れます。

「これはいける」——その日の晩に夜行で京都へ帰るなり安田さんを呼び出して、販売を一手に任せてもらう約束を取り付けました。


「クローバー」から「ワコール」へ——商標のピンチが転機に

当初、塚本さんが商品につけていたブランドは「クローバー印」でした。しかし、いよいよ名古屋に進出しようとした矢先、名古屋の有名な小間物屋から商標権侵害だという内容証明が届きます。

罰金を取られてクローバー印の使用をやめなければならなくなりました。そのとき塚本さんは「和江をもじった和江留=ワコール」を商標にしようと考えました。

「これは結果的には大成功となった。この名前は呼びやすかったために伝播も早く、みるみるうちに定着していったのである」

ピンチから生まれた「ワコール」の名前は、社名にも引き継がれ、今や世界に通じるブランドになりました。


高島屋への挑戦——夜の十時に部長宅を訪ねた日

デパートで販売することを目指していた塚本さんに、1950年のある日、チャンスが訪れます。業界新聞の座談会で高島屋京都店の担当課長と出会い、「十月頃の売り場拡張のときにぜひ納入してもらおう」という言葉をもらいました。

ところが九月中頃、「ある同業者が難波の高島屋の推薦で京都店に商品を納入するようだ」というニュースが入ります。「びっくりした私は、夜の十時過ぎにもかかわらず、すぐに中川課長の自宅を訪ねた」と本書に書かれています。

翌日、上司の花原部長と面談でき「一週間だけテスト販売の期間をやろう」という言葉を引き出しました。

テスト期間中、男が店頭でうろうろしているとお客さまが寄りつかない——そう考えた塚本さんは、お客さまの目に触れないところで商品を包んだり、おつりを出したり、裏方に徹しました。

一週間後、同業者に圧倒的な差をつけて、高島屋との取り引きを決めることができました。 その二ヶ月後には難波の高島屋とも取り引きが始まります。この京都・難波の高島屋への商品納入が、全国のデパートに販路を開いていく第一歩となったのです。


出光佐三さんの「百万ボルト」——相互信頼の経営へ

1957年に労働組合が誕生し、1962年にはストライキの要求書が出されるという事態に、塚本さんは頭の痛い日々が何年も続きました。不眠症にとりつかれ、体重が52キロまでやつれ、「未解決のまま死んでいくのではないかとさえ考えた」と本書に書かれています。

そのとき、突破口を示唆してくれたのが出光興産の創業者・出光佐三さんでした。1962年、経済同友会の勉強会に講師として来られた出光さんは「人間尊重の経営」というテーマで話しました。

「日本には人間尊重の精神文化がある。だから日本人は、契約書などなくても互いの信頼に応えようとする。出光興産は創業以来その精神でやってきた。わが社には就業規則も定年制もない。もちろん労働組合もない。残業手当もない。しかし、みんな喜々として働いている。これが日本人なんだ」

この話を聞いた塚本さんの言葉が印象的です。「頭の先から百万ボルトの電流を感じたぐらいブルルッと感激して『よし、私もやってやろう』と決心した」。

翌日、緊急役員会を開いて四つの方針を発表しました。遅刻・早退・私用外出を社員の自主精神に委ねること、日給制だった工場の人たちも月給制にすること、工場で働く女性と事務職の女性に同じ制服を支給すること、そして労働組合の正式な要求は1パーセント自動的に承認することです。

驚いた役員たちから「社長、そんなことをしたら会社はつぶれます」と言われましたが、塚本さんは「本当に信頼しきるというならば、そうする以外にない。それで会社がつぶれるならつぶそうじゃないか」と答えました。

こうして1962年10月1日から信頼の経営に切り替えます。年末の組合からの要求書を、塚本さんは見もせずにハンコを押しました。能率は驚くほど上がり、以来三十年以上にわたって「相互信頼」がワコールの労使関係の根幹となりました。


ワコールファイト十則——「やってやってやり抜け」

本書の第2章のタイトルにもなっている「ワコールファイト十則」は、電通の元社長・吉田秀雄氏がつくった「電通鬼十則」を一部修正したものです。塚本さん自身の修養も兼ねて取り入れたといいます。

十則の中で特に印象的なのは、第十条の意図です。「賢愚は他人の領分、威張っても値打に変りはない、只実行だ、でないと君は卑屈未練になる」——人間の値打ちは相手が評価するものであって、自己満足は意味がない。常に正しい言動を生活の信条としている人は、堂々として周囲を引きつける魅力を持つ。そういった思想が込められています。

塚本さんが繰り返し語るのは、「やってやってやり抜いていれば、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるというように、自然と真の能力なり、人間形成ができるようになる」という言葉です。


「走りながら考える」——戦場で身についた行動哲学

「考えてから走るか、走りながら考えるか」と問われれば、後者の「走りながら考える方」だと塚本さんは書いています。

この行動スタイルは戦後から身についたものだといいます。自分の力で生命を守り切ったという自信のなかった塚本さんは、復員船の上で「自己中心の人生は終わった。これからは与えられた人生である」と思った瞬間から、素っ裸の人生が始まりました。「やるかやらぬか、できるかできないか、イェスかノーか」という答えが非常に早くできるようになり、答えとともに行動するようになったというのです。

ただし走りながら考えるタイプには失敗がつきものだとも認めています。「失敗を失敗として素直に受け入れ、素直に反省する心が必要である。この反省心さえあれば、だんだん熟練してきて命中率も高まる」と書かれています。


塚本さんのこだわり

本書を通じて、塚本さんの人柄と行動原理が伝わってきます。

「六月十五日」を大切にする:復員した日を「人生第二の誕生日」と呼ぶ塚本さんにとって、この日はわが社の前身・和江商事の創業日でもあります。本書もこの日に合わせて、1996年の喜寿(1996年9月17日の誕生日直前)に発行されました。

社内報「知己」を20年間書き続ける:1957年、和江商事創立8年目に社内報「知己」を創刊。以来20年にわたり、毎月欠かさず巻頭言を執筆し続けました。本書の大半はこの巻頭言からの抜粋です。「どの原稿も、その時々の私の考えや想いが、形を変え、事例を変えながらも、一貫したものになっている」と塚本さんは書いています。

「生かされている」という感謝の心:自己中心でなく、常に「生かされている」という感謝の心を持ち続けることが、五十年にわたる塚本さんの行動原理でした。「創業以来、私は絶えず前向きに、ひとつひとつの出来事に挑戦を続け、これを乗り越えることができた。その奥には五十年計画という大ロマンがあり、『生かされている』感謝報恩の気持ちがあった」と書かれています。


五十年、貫き通した先にあるもの

本書のあとがきで、塚本さんはこう書いています。

「全くの徒手空拳から創業したのだから、苦労が無かったと言えば嘘になるが、長期計画のもと一歩一歩進むだけで止まることなく、また順序を省略することもなく、ただできるかできないか、やるべきかやってはならぬかという判断で、天の声を聞きながら貫き通してきただけである」

復員した日を創業の日とし、苦境のどん底で五十年計画を立て、百万ボルトの感激から相互信頼の経営へと転換し、世界のワコールを築いていった。その軌跡を一言で表すとすれば、本書のタイトルそのままに「貫く」という言葉になります。

📚 貫く——「創業」の精神(塚本幸一著、日本経済新聞社)を読んでみる


参考文献:塚本幸一著『貫く——「創業」の精神』(日本経済新聞社)