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復員船の甲板で、一人の青年が三日間、同じ問いを抱え続けていました。「なぜ自分は生き残ったのだろうか」。終戦を迎えたとき、五十五人いた部隊で生きて帰れたのは、彼を含めてわずか二人。その問いの答えにたどり着いたとき、青年は一つの使命を背負います。それから半世紀、彼は女性下着という当時の日本に存在しなかった市場をゼロから切り拓き、ワコールを国内トップメーカーへと育て上げました。塚本幸一、ワコール創業者。本記事は、塚本がみずからの来し方を綴った著書『貫く「創業」の精神』をもとに、その生涯と経営哲学を読み解きます。
塚本幸一の経営思想を一言で表すなら「貫く」です。五十五人中ただ二人生き残った男が、五十年先を見据えて一つの事業をやり抜きました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 塚本幸一(つかもと こういち) |
| 生没年 | 1920年9月17日 – 1998年6月10日(77歳没) |
| 出身 | 宮城県仙台市(両親は近江商人の家系) |
| 学歴 | 滋賀県立八幡商業学校 卒業(1938年) |
| 会社 | ワコール(旧・和江商事)創業者 |
| 創業 | 1946年6月15日(復員当日に婦人装身具の商売を開始) |
| 法人設立 | 1949年(和江商事株式会社・資本金100万円) |
| 主な実績 | 日本にブラジャー文化を広め、ワコールを女性下着の国内トップメーカーへ育成。京都商工会議所会頭 |
なぜ「生き残ったこと」が、塚本幸一の出発点になったのか
物語は、一冊の本のいちばん最初のページから始まります。『貫く「創業」の精神』の冒頭で、塚本幸一はまず戦争の話を書きました。経営の本でありながら、です。それほどに、戦地での体験は彼のすべての土台でした。
塚本が日本に帰り着いたのは、1946年6月15日のことでした。中国戦線で二年半を過ごしたあと、彼の連隊は、敗戦史にもっとも過酷な作戦として刻まれるインパール作戦、そして続くビルマ反転作戦へと投入されます。五十五人いた部隊で生きて帰れたのは、塚本を含めてわずか二人だけでした。
帰国の船の上で、塚本は丸三日間、ただひたすらに考え続けました。「なぜ自分は生き残ったのか」。多くの戦友が死に、自分が生きている。その理不尽に向き合った末、彼が出した結論は、こうでした。生かされたのは、日本の再建と復興の一翼を担うという使命を与えられたからだ——。
この「生かされた」という感覚は、その後の塚本幸一の人生を貫く背骨になります。一日一日を無駄にできない、という切迫感。事業への異様なまでの執念。それらはすべて、復員船での三日間に根を持っていました。生き残ったことそのものが、経営者・塚本幸一の出発点だったのです。では、使命を胸に帰国した青年は、最初に何から手をつけたのでしょうか。
復員したその日に商売を始めた青年の、無謀な再出発
帰る場所も、継ぐべき商売もない——。それが、復員した塚本幸一を待っていた現実でした。
実家の呉服商はすでになく、復職する勤め先もありません。志がどれほど大きくても、まず自分の生活が成り立たなければどうにもならない。そんな状況で、塚本はまったく立ち止まりませんでした。帰国したその日、たまたま叔父の家で出会った人が売っていた模造真珠のネックレスを扱わせてもらい、なんとその日のうちに売り歩いたのです。この1946年6月15日が、のちにワコールの創業日とされています。生きて帰ったその日に、もう商売を始めていた。塚本幸一という人物の行動の速さが、ここに凝縮されています。
学生時代、塚本は滋賀県立八幡商業学校で商人としての基本を学んでいました。とはいえ実社会での経験は乏しく、兵役に就くまでの二年半、父の商売を手伝った程度です。それでも彼には確信がありました。「敗戦したからといって、日本人が人間的に劣っているわけではない。もう一度、世界の人々に商売で挑戦してみたい」。そのために必要なのは、資本と人材。塚本はアクセサリーの行商を続けながら、将来つくるべき会社の土台づくりに、三年間を費やしました。
『貫く「創業」の精神』を読んでいて胸を打たれるのは、この時期の塚本に、悲壮感がまるでないことです。無一文に近い状態でありながら、彼の視線はつねに先の先を見ていました。やがてその視線が、一つの小さな商品の上で止まります。それが、彼の運命を変えることになりました。
アルミ線と古綿でできた「饅頭」が、運命を変えた
1949年の春、京都の塚本の家に、一人の男が突然やってきました。丸物百貨店(現在の京都近鉄)の洋裁部にいた、安田さんという人物です。
安田さんが持ち込んだのは、「ブラ・パット」と呼ばれる代物でした。アルミ線を線香のように巻いてスプリング状にし、その上に古綿をかぶせて布でくるんだ、饅頭のような形のもの。安田さんは熱っぽく語ります。「これから日本の女性は洋装化する。これまでは和服だったからバストを気にしなかったが、洋装になれば美しいバストラインをつくる『ブラ・パット』が必ず必要になる」。
その説明を聞いた瞬間、塚本幸一は直感しました。「この商品は必ず売れる」。彼は、安田さんが持ち込んだブラ・パットをその場で全部仕入れ、その日の夜行列車で東京へ向かったのです。当時の夜行列車は、人であふれかえっていました。開いた窓からやっと身体をねじ込み、東京まで十時間以上、ひじ掛けにつま先をかけ、背もたれにお尻の片方を乗せ、片手で網棚の棒をつかんだまま耐え抜きました。
東京に着くと、八重洲から銀座へ向かって歩きながら、置いてくれそうな店に片端から飛び込みます。「面白い物を作ったものだ」と、どの店も関心を示しました。見本として置いていくうちに、手持ちの商品はその日のうちに全部売り切れてしまいます。「これはいける」。手応えをつかんだ塚本は、その晩のうちにまた夜行で京都へ取って返し、安田さんに販売を一手に任せてもらう約束を取り付けました。
このブラ・パットとの出合いが、塚本幸一を女性下着の世界へと導きます。やがて彼は、パットを入れる袋をつくり、背中でとめて肩ひもでつるす商品——つまりブラジャーそのものを開発していきました。『貫く「創業」の精神』のなかで塚本は、自分こそが日本でブラジャーをつくった元祖だと記しています。もっとも、その出発点は決して華やかなものではありませんでした。最初はボール紙で型紙をつくり、縫い屋に頼んだら、小さなおもちゃのような商品になってしまった。塚本は、縫いしろが必要だということすら知らないまま、女性下着の仕事に飛び込んだのです。妻にも協力してもらいながらの、手探りのスタートでした。
こうして塚本は会社を構えます。1949年11月1日、和江商事株式会社の設立です。「和江」という名は、亡き父にちなんでいました。父は生前、「江州(滋賀県)に和す」と語っていた。その「和江」を引き継ぐことが父の冥福を祈ることになると、塚本は考えたのです。資本金は百万円、社員はわずか十人。父が残した掛け軸などを売って工面した、ぎりぎりの船出でした。しかし、この小さな会社は、創業のすぐ翌年に最初の正念場を迎えます。
五十年計画は、どん底のなかから生まれた
会社を解散しようか——。創業翌年、塚本幸一は本気でそう考えるほど追い詰められていました。
洋装化はまだ進んでおらず、温かい着物に着替えてしまう人が大半で、身体の線を美しく見せる商品など必要とされません。和江商事の売り上げはぱったりと止まり、1950年の正月は、苦しさのどん底にありました。そのどん底のなかで、塚本の頭にふと浮かんだ考えがあります。「今世紀の終わりまで、ちょうど五十年ある」。
この地球上の人間はすべて、生まれたときから一日も休むことなく成長と変化を続け、最後は必ず死んでいく。その共通の宿命のなかで、何かを始めるときに五十年計画を立て、それをやりきる人間がいるだろうか。おそらくいないだろう——。ならば自分は、五十年の計画を立て、それを実現することに人生を賭けてみよう。塚本幸一はそう決意します。これが、のちにワコールの代名詞となる「五十年計画」の誕生でした。
注目すべきは、この壮大な計画が、勢いのある成功の只中ではなく、解散を考えるほどの苦境のなかから生まれたことです。追い込まれた人間が、目の前の苦しさから目を背けるのではなく、五十年先という途方もない時間軸に視点を引き上げた。この発想の転換こそ、塚本幸一の真骨頂でした。とはいえ、五十年先を語るには、まず目の前の一店一店を勝ち取らねばなりません。その最初の大勝負が、高島屋でした。
横取りされかけた取引を、塚本幸一はどう逆転したのか
デパートに自社の売り場を持ち、自社から派遣した販売員がお客と対話しながら商品を売る——。塚本幸一が思い描いていたこの夢に、思わぬチャンスが訪れます。
1950年6月、ある業界新聞主催の座談会で、塚本は高島屋京都店の中川課長と出会いました。その席で彼は、これからの婦人洋装の展望と、そこで下着が占める分野の有望さを一生懸命に説明し、取引を申し出ます。中川課長の返答は「今年の十月ごろに予定している売り場拡張のときに、ぜひ納入してもらおう」というものでした。
ところが、その時を心待ちに準備を進めていた九月の中頃、塚本の耳に衝撃のニュースが飛び込みます。「ある同業者が、難波の高島屋の推薦で京都店に商品を納入するようだ」。びっくりした塚本は、夜の十時過ぎにもかかわらず、すぐに中川課長の自宅を訪ねました。そして「和江商事とは取引すると言っておきながら、商品を見もしないで一方的に取引をしないとは、どういうことですか」と詰め寄ったのです。
翌日、塚本は中川課長の上司である花原部長に会わせてもらえることになりました。そこで彼は、十月一日をどれほど待ち望み、そのためにどれだけの準備をしてきたかを、ありったけの熱量で語ります。その迫力がよほどすごかったのか、部長は「一週間だけ、テスト販売の期間をやろう」と言ってくれました。こうして塚本は、ようやく京都高島屋のケースに商品を並べることができたのです。
しかし、本当の勝負はここからでした。気持ちが焦って店頭をうろうろしても、お客はかえって寄りつきません。そこで塚本は、お客の目に触れないところで商品を包んだり、おつりを出したりと、裏方に徹しました。その結果、一週間後、彼は同業者に圧倒的な差をつけて高島屋との取引を決めます。さらに二ヵ月後には、難波の高島屋とも取引が始まりました。『貫く「創業」の精神』で塚本が振り返るとおり、この京都・難波の高島屋への商品納入こそが、全国のデパートに販路を開いていく第一歩となったのです。販路を得た塚本に、次は「名前」をめぐる試練が待っていました。
クローバー印を失った日に、「ワコール」は生まれた
自分の手を通す商品には責任を持つべきだ——。アクセサリーを扱っていた時代から、塚本幸一はそう考え、すべての商品に「クローバー印」をつけていました。
ところが、いよいよ名古屋へ進出し、丸栄百貨店で大売り出しをしたとき、思わぬ事態が起こります。名古屋の有名な小間物屋から、「商標権の侵害だから、クローバー印を使ってはならない」という内容証明が飛び込んできたのです。せっかく売れ出した商標を譲ってほしいと交渉しましたが、結果的に塚本は罰金を取られ、クローバー印の使用をやめざるを得ませんでした。
そのとき塚本が出した結論が、「和江」をもじって「ワコール」を商標にする、というものでした。これが結果的に大成功となります。「ワコール」という名前は呼びやすく、それゆえに伝播も早く、みるみるうちに世の中に定着していきました。1957年には、会社の名前も和江商事からワコールへと改められます。失ったものから、より大きなものを生み出す。塚本幸一の経営には、こうした逆転の発想が随所に光っています。しかし、会社が大きくなるにつれ、塚本は経営者として最大の試練と向き合うことになりました。人の問題です。
「頭の先から百万ボルトの電流」が、ワコールの理念を決めた
会社が大きくなれば、小さい頃にはなかった問題が起こります。塚本幸一にとってそれは、労使の問題でした。
要求は年々大きくなり、ストライキの影が差します。塚本は応急処置で要求を受け入れることもありましたが、それでは労使の問題が根本的に解決したことにはなりません。彼は悩んでいました。そんなとき、ある会社の話を耳にします。その会社には労働組合もなければ残業手当もない。それなのに、みんなが喜々として働いている——。「これが日本人なんだ」。その話を聞いた瞬間、塚本幸一は、「頭の先から百万ボルトの電流を感じた」ほどに感激しました。「よし、おれもやってやろう」。彼はそう決心します。
塚本の行動は、いつものように速いものでした。次の日にはさっそく緊急の労使会を開き、「全社員を徹底的に信頼しきろう」と、会社の方針を大きく転換すると宣言します。その内容は、遅刻・早退・私用外出を社員の自主精神に一切委ねること。女性事務職に制服を支給すること。そして、工場で働く人たちの月給制という労働組合の要求を、満額そのまま受け入れること。役員たちは驚いて言いました。「社長、そんなことをしたら、たちまち会社はつぶれてしまいます」。
それでも塚本は信じる道を選びました。組合が持ってきた要求書類に、彼は数字を見ないまま判を押したと伝わります。経理担当者が「大丈夫ですか」と問うと、塚本は「わからん」とだけ答えました。社員が自分の気持ちに応えてくれるかどうかは、社員自身の対応にかかっている——そう腹をくくったのです。その思いは通じました。これが、ワコールの企業理念として今も受け継がれる「相互信頼の経営」の原点です。五十五人の部隊で生き残った二人のうちの一人が、最後にたどり着いた答えは、「人を信じきる」ことでした。
塚本幸一のこだわりとは?
経営の話が続きましたが、ここで少し、塚本幸一という人間そのものに目を向けてみましょう。『貫く「創業」の精神』には、彼の人柄がにじむ習慣が描かれています。
一つは、サムエル・ウルマンの詩「青春」を愛したことです。塚本はこの詩を、若さとは年齢ではないという自身の信条と重ね合わせ、繰り返し心に刻んでいました。「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちようを言う」というこの詩の精神は、晩年まで前進をやめなかった塚本の生き方そのものでした。八十歳近くになっても、彼の関心はつねに「これから」に向いていたのです。一篇の詩を生涯の指針として持ち続けたところに、塚本幸一の内面の若々しさが表れています。
もう一つは、ゴルフです。塚本にはゴルフ仲間がいて、経営者仲間との交流の場にもなっていました。『貫く「創業」の精神』には、ゴルフ仲間が経営するホテルに泊まったときのエピソードが出てきます。新築のホテルの風呂の底に、セメントとも砂ともつかぬ汚れが残っているのを見つけ、塚本は「他人事ではないぞ」と背筋を正したといいます。遊びの場でさえ、彼の目は細部の緩みを見逃しませんでした。こうした観察の習慣もまた、塚本幸一らしさのひとつでした。こうした人となりは、彼が縁を持った土地にも刻まれています。
塚本幸一ゆかりの地とは?
塚本幸一の足跡は、いくつかの土地に残されています。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。
まず、滋賀県近江八幡市。塚本がブラジャーづくりに踏み出す素地となった商人の基本を学んだ、滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)があります。塚本家はもともと近江商人の家系であり、この地は彼のルーツそのものです。(地図で見る)
次に、京都。復員後の塚本が商売を始め、和江商事を興し、ワコールの本社を構えた、まさに事業の本拠地です。高島屋京都店での逆転劇の舞台でもあります。(地図で見る)
そして、生誕地である宮城県仙台市。近江商人として仙台で繊維問屋を営んでいた家に、塚本幸一は生まれました。商売の血は、生まれたときから彼に流れていたのです。(地図で見る)
土地をたどると、近江商人の流れを汲む一人の青年が、戦争をくぐり抜け、京都で世界企業を築いた軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。
塚本幸一から学ぶ3つの教訓とは?
『貫く「創業」の精神』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。
一つめは、苦境のときこそ時間軸を引き上げるということです。塚本幸一が五十年計画を立てたのは、成功の絶頂ではなく、会社の解散を考えるほどのどん底でした。目先の苦しさに飲み込まれそうなとき、あえて五十年先という遠い地点に視点を置く。その視点の高さが、彼を救いました。
二つめは、人を信じきる覚悟が組織を動かすということです。労使対立というもっとも難しい局面で、塚本は要求書類の数字を見ずに判を押し、全社員を信頼する道を選びました。半信半疑の信頼ではなく、信じきる。その覚悟が、「相互信頼の経営」というワコールの背骨を生みました。
三つめは、生かされた意味を、行動で問い続けるということです。復員船で「なぜ生き残ったのか」と問うた塚本は、その答えを言葉ではなく、五十年にわたる事業の実践で示しました。与えられた命をどう使うか——その問いに、彼は最後まで行動で答え続けたのです。
これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません。『貫く「創業」の精神』には、ここでは紹介しきれなかった塚本幸一の魅力が、まだまだ詰まっています。
この記事で語りきれなかった『貫く「創業」の精神』の魅力
塚本幸一の歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。
一つめは、松下幸之助に学んだことです。塚本は本書のなかで、経営の先達である松下幸之助から受けた影響について語っています。同じ時代を生きた京都・関西の経営者として、塚本が何を吸収し、自社の経営にどう活かしたのか。経営者同士の学び合いの記録として読みごたえがあります。
二つめは、「物を作る前に人を作れ」という人材育成論です。本書の一章を割いて、塚本は人を育てることの本質を説いています。「一事が万事」「成長するためには叱り、叱られることが必要」——彼が現場で培った人づくりの哲学は、いまのマネジメントにも通じます。
三つめは、終章に置かれた「イヤでもやめるな」というメッセージです。やり抜くことの意味を、塚本は自身の半生をもって語りかけます。なぜ彼が一つの事業を五十年も貫けたのか、その精神の核心がここにあります。
これらのエピソードは、ぜひ本書で味わってみてください。
まとめ
塚本幸一は、五十五人の部隊でただ二人生き残った経験を出発点に、「生かされた意味」を問い続けた経営者でした。復員したその日に商売を始め、アルミ線と古綿でできたブラ・パットに賭け、高島屋の取引を執念で逆転し、失った商標から「ワコール」を生み出す。そして労使対立のなかで「人を信じきる」という答えにたどり着き、五十年計画を貫きました。その軌跡は、苦境にある人ほど遠くを見よ、と静かに語りかけてきます。彼の肉声で綴られた『貫く「創業」の精神』は、長く一つの道を歩む覚悟をくれる一冊です。
よくある質問(FAQ)
Q. 塚本幸一とはどんな人物ですか?A. ワコールの創業者です。1920年に近江商人の家系に生まれ、第二次世界大戦のインパール作戦などを生き延びて1946年に復員、その日のうちに商売を始めました。日本に女性下着の文化を広め、ワコールを国内トップメーカーへ育て、京都商工会議所会頭も務めました。1998年に77歳で亡くなっています。
Q. ワコールという社名の由来は何ですか?A. 創業時の社名「和江商事」の「和江(わこう)」をもとにした言葉です。商標として使っていたクローバー印を商標権の問題で手放した際、「和江」をもじって「ワコール」を新たな商標とし、1957年には社名そのものもワコールへ変更しました。
Q. 塚本幸一の「五十年計画」とは何ですか?A. 創業翌年の苦境のなかで塚本が立てた、五十年という長期スパンで事業を構想し、やり抜くという計画です。「今世紀の終わりまでちょうど五十年ある」という気づきから生まれ、ワコールの経営を貫く長期思考の象徴となりました。
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参考文献
塚本幸一『貫く「創業」の精神』(日本経済新聞社、1998年)

