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1962年の早朝、オレゴンの霧の中を24歳の青年が走っていた。
大学のトロフィーとブルーリボンが飾られた実家の部屋で目を覚ます。スタンフォードでMBAを取得し、陸軍での訓練も終えた。履歴書の上では一人前の大人だ。
それなのに、心の底で何かが燃えていた。
「世界に足跡を残したかった」「勝ちたかった。いや、そうじゃない。とにかく負けたくなかったのだ」
その走りの中で閃いたのが、スタンフォードのゼミで書いた「馬鹿げたアイディア」だった。日本のランニングシューズがアメリカ市場でアディダスに対抗できる——。
その日の夜、青年はリクライナーでくつろぐ父に切り出した。「父さん、僕の馬鹿げたアイディアを覚えてる?」
50ドルを借りて始まった物語が、世界最大のスポーツブランド「ナイキ」を生んだ。
フィル・ナイトさんの回顧録『SHOE DOG 靴にすべてを』をもとに、その経営哲学7つを解説します。
目次 表示
- フィル・ナイトさんの基本プロフィール
- 馬鹿げたアイディアを「止まるな」と走り続けた男
- 経営哲学①|「止まるな」——1962年の朝に刻んだ言葉
- 経営哲学②|神戸でのアドリブ——「ブルーリボン・スポーツの代表です」
- 経営哲学③|バウワーマンという師——「靴のエジソン、ダ・ヴィンチ、テスラ」
- 経営哲学④|プリフォンテーンの精神——「血を流さなければ勝てはしない」
- 経営哲学⑤|バットフェイスの「フクロウの巣」——仲間と深夜に経営を論じる
- 経営哲学⑥|日商岩井・アイスマンの恩——ビジネスは信頼の積み重ね
- 経営哲学⑦|ゴールラインは存在しない——IPOと「単なるビジネスではない」
- フィルさんの失敗談|サラとの失恋と「洗練された男ではない」
- フィルさんのこだわり
- フィルさんゆかりの地
- フィルさんから学ぶ、経営者への3つの教訓
- この記事で語りきれなかったフィルさんの魅力
- まとめ|フィル・ナイトさんが教えてくれること
フィル・ナイトさんの基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | フィル(バック)・ナイト(Phil Knight) |
| 生年 | 1938年(オレゴン州ポートランド) |
| 経歴 | オレゴン大学陸上競技部→スタンフォードMBA→ブルーリボン・スポーツ創業→ナイキCEO |
| 主な実績 | ナイキ共同創業(1964年)、2006年売上160億ドル |
| 座右の哲学 | 「止まるな。立ち止まることなど考えるな」 |
| こだわり | 毎朝のランニング、ペーパーバック、夜の父への電話 |
| ゆかりの地 | ポートランド(生誕・拠点)、神戸(オニツカ訪問・原点)、富士山(誓いの地)、ユージーン(プリフォンテーンの聖地)、ビーヴァートン(ナイキ本社) |
馬鹿げたアイディアを「止まるな」と走り続けた男
フィル・ナイトさんは偉大なアスリートになれなかった人間です。オレゴン大学で陸上競技部に所属し、頭角を現した時期もあったが、「偉大とまではいかなかった」と本人が認めています。
しかし走ることへの情熱は消えなかった。「アスリートになれなくても、アスリートと同じような気分を感じる方法はないだろうか。仕事ではなく、常にスポーツをプレーする気分を味わう方法は」
その問いへの答えが、靴だった。スタンフォードの起業ゼミで書いたレポートが出発点です。ドイツのカメラ市場に日本のカメラが参入したように、日本のランニングシューズにも同じ可能性があると力説した。
クラスメートは退屈そうに聞いていた。誰からも質問一つ出なかった。
それでもフィルさんは図書館に通いつめ、輸出入に関するあらゆる本を読んだ。「このアイディアに強い興味を持ち、刺激を受け、とりこになった」
1962年のあの朝のランニング中に閃いた確信——「馬鹿げたアイディアはうまくいく。絶対実現する」——がすべての始まりでした。
経営哲学①|「止まるな」——1962年の朝に刻んだ言葉
オレゴンの霧の中を走りながら、フィルさんは自分にこう言い聞かせました。
「馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ……走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな」
この言葉は50年後に振り返っても「最良のアドバイス」だったと述べています。
銀行に資金繰りを断られても、オニツカから契約を打ち切られても、FBIの調査が入っても、政府から2500万ドルを請求されても——ナイキの歴史は修羅場の連続でした。それでもフィルさんは走り続けた。
「幸せのカギは、美や真実の本質は、あるいは私たちが知るべきあらゆることは、ボールが宙に舞う瞬間にある」とフィルさんは書いています。スポーツの0.5秒の瞬間に何もかもがくっきり浮かび上がるように、ビジネスも毎日そうあってほしかった。
「好もうと好むまいと、人生はゲームだ。その事実を否定しプレーを拒む者は、脇に取り残されるだけだ。そうはなりたくない」——この一言がナイキの精神を貫いています。
経営哲学②|神戸でのアドリブ——「ブルーリボン・スポーツの代表です」
1962年秋、24歳のフィルさんは父から借りた50ドルを手に、神戸のオニツカ(タイガーシューズ)を訪問しました。
工場を見学し、会議室に案内され、4人の重役に囲まれた瞬間、頭が真っ白になりました。「何から切り出せばいいかもわからなくなり、呼吸が荒くなった」
重役の一人が口を開きました。「ミスター・ナイト、何という会社にお勤めですか」
その瞬間、脳裏に浮かんだのは実家の部屋の壁に飾られたブルーリボン——陸上競技で勝ち取った青いリボンでした。
「ブルーリボンです。オレゴン州ポートランドの、ブルーリボン・スポーツの代表です」
架空の会社名を即興で言い放った。重役たちは顔を見合わせた。「ブルーリボン、ブルーリボン」とざわめきが広がり、やがて全員が笑顔になった。
2時間のミーティングを経て、オニツカとの代理店契約が成立しました。父に「至急、神戸のオニツカまで50ドルを送ってください」と手紙を書いた瞬間、フィルさんは思わずつぶやきました——「フッフー、ヒッヒー、不思議なことが起ころうとしている」。
これがナイキの本当の原点です。
経営哲学③|バウワーマンという師——「靴のエジソン、ダ・ヴィンチ、テスラ」
ビル・バウワーマンさんは、オレゴン大学の陸上競技コーチであり、ナイキの共同創業者です。フィルさんが「最高の先生」と呼んだこの人物なしに、ナイキは生まれませんでした。
バウワーマンさんの思想は単純でした。「勝てるシューズとは、軽くて速く走れるシューズだ」。彼は自分のランナーを使って実験を繰り返し、わずかな軽量化でタイムがどれだけ改善されるかを計算し続けました。
そしてある朝食の時、奥さんのワッフルメーカーにゴムを流し込んでみた。固まったゴムを取り出すと、格子状の凹凸がついていました。「これだ」——ワッフルトレーナーの誕生です。
フィルさんはバウワーマンさんをこう評しています。「彼は靴のエジソン、ダ・ヴィンチ、テスラであり、その発想は同様に神がかっていた。彼はスニーカーのダイダロスであり、歴史を作り、業界を再編し、アスリートの走りや跳躍を変えようとしていた」
バウワーマンさんが体現したのは「改善への執着」です。現状に満足せず、毎日少しでも速く走れる靴を作ろうとする姿勢。それがナイキの「Just Do It」精神の根底に流れています。
経営哲学④|プリフォンテーンの精神——「血を流さなければ勝てはしない」
スティーブ・プリフォンテーンさんは1970年代の陸上界のスターでした。2000メートルから1万メートルまでの全米記録を保持し、ナイキのシューズを愛用し、ナイキの「精神的象徴」となった人物です。
「レースは芸術作品なんだ」——プリフォンテーンさんはそう語りました。「芸術よりも理解しやすいし、芸術と同じくらい人々を魅了するわけだから」
フィルさんはプリフォンテーンさんが社のオフィスに来るたびに緊張していました。「男性、女性を問わず、みんながおとなしくなって、シャイになる。プリには近づきがたいオーラがあった」
プリフォンテーンさんの言葉がフィルさんを支えました。「僕を破る人が出てくるにしても、血を流さなければ勝てはしない」——銀行員、債権者、競争相手、政府との戦いで追い詰められるたびに、フィルさんはこの言葉を思い出したと書いています。
1975年5月、レースの翌朝、プリフォンテーンさんは交通事故で24歳の命を散らしました。
フィルさんはプリフォンテーンさんが衝突した岩を買い取り、保存しました。「私たちがビジネスに携わる限り、金を工面しよう」と決めて。それは後に「プリの岩」と呼ばれ、毎日訪れる人が花や手紙、ナイキを供える聖地になりました。
経営哲学⑤|バットフェイスの「フクロウの巣」——仲間と深夜に経営を論じる
ナイキの初期の経営会議は「バットフェイス(コウモリ面)」と呼ばれていました。参加者——ヘイズ、ウッデル、ジョンソン、ストラッサーら——が集まり、深夜まで議論を続けた会議体です。
なぜ「バットフェイス」か。理由は明かされていませんが、フィルさんはこの会議を「フクロウの巣での経営会議」とも呼んでいます。夜の暗闇の中で、すべてを見通す目を持つ者たちが集まる場所として。
バットフェイスの精神は「正直に話すこと」でした。 シカゴの展示会でナイキのシューズの品質が悪かったとき、なぜ販売員が注文してくれたか問い返すと「君たちブルーリボンとは何年ものつきあいだから、君たちが正直なのはわかってる」という答えが返ってきました。誠実さが信頼を生んでいた。
アメリカ政府から2500万ドルを請求されたとき、中国進出を決断したとき、株式公開をめぐって意見が割れたとき——バットフェイスはいつも深夜まで議論しました。反対票も出た。それでも全員で決断した。
「決して株式公開はしない」と言い続けたフィルさんが最終的に上場を決断したのも、バットフェイスでの議論を経てでした。「義務だ」と言い切った取締役チャック・ロビンソンさんの言葉に従って。
経営哲学⑥|日商岩井・アイスマンの恩——ビジネスは信頼の積み重ね
ナイキの歴史で最大の危機の一つは、銀行口座凍結とFBIの調査でした。
ファースト・ナショナルとバンク・オブ・カリフォルニアに見捨てられ、小切手は不渡り、FBIが帳簿を調べ、社員に逮捕の不安が漂う中——フィルさんを救ったのは日商岩井のタダユキ・イトーさん(アイスマン)でした。
フィルさんとヘイズさんはイトーさんと一緒に銀行の会議室に入りました。銀行が「今後は取引を拒否する」と言った瞬間、イトーさんが口を開きました。
「それならば、日商がブルーリボンの借金を返済します。全額」
その場で小切手が手渡された。銀行頭取は目を見開いた。FBIの捜査も立ち消えになった。フィルさんはイトーさんに頭を下げた。「ありがとうございます。私たちを守ってくれたことを後悔させません」
なぜ日商岩井はここまでナイキを守ったのか。それは営業マン・スメラギさんの言葉に集約されています。「ナイキは私にとって我が子のようなものです。我が子の成長を見るのはいつだってうれしいものです」
「みんな数字ばかりに気を取られ過ぎです」——イトーさんはそう言いました。ビジネスの本質は数字の前にある人間関係だと、フィルさんはこの経験で痛感しました。
経営哲学⑦|ゴールラインは存在しない——IPOと「単なるビジネスではない」
1980年、ナイキは株式を公開しました。「決して株式公開はしない」と言い続けたフィルさんが、あえてその言葉を撤回した瞬間でした。
IPOの夜、フィルさんは感慨を持てなかったといいます。「特に何も感じなかった。ただ新たな課題が始まったとしか思えなかった」
本書のタイトル『SHOE DOG(シュードッグ)』は、靴に取りつかれた人間という意味です。ただ靴を売るためではなく、靴そのものを愛し、靴に人生を賭けた者だけが持てる称号です。
アルベルト・サラザールさんが心臓発作で倒れたとき、フィルさんは病院に駆けつけました。「ガーレン(弟子のアスリート)のことを頼む」とサラザールさんは言いました。フィルさんは即答しました。「もちろんだとも。ガーレンのことは任せてくれ」
「単なるビジネスだ、という言葉を私は思い出した。アルベルトとの約束は決して単なるビジネスではないし、そうなることも決してない。もし単なるビジネスになり下がったら、それはつまり、劣悪なビジネスということだ」
ゴールラインは存在しない。走ることをやめた者が負ける。それがフィル・ナイトさんの、ナイキの哲学です。
フィルさんの失敗談|サラとの失恋と「洗練された男ではない」
1962年、富士山の中継地点7で出会ったサラ。箱根の旅館で2日間を共に過ごし、恋に落ちた。1日おきにラブレターを書き、彼女もすぐに返事をくれました。
しかし冬になると、手紙が少し冷めた内容になってきたのです。
電話をかけると「いろいろ考えるうちに、お互いのためにならないと思うようになった」とサラは言ったそうです。「私が彼女にふさわしい洗練された男ではないと思っているそうだ」
フィルさんはひるみました。数週間は霧の中にいるようだったといいます。そして、地下室に籠りつづけました。
やがて、失恋から気持ちを立て直したフィルさんは、妹のジーンをブルーリボンのパート従業員第1号として雇いました。これが意図せずして、「身近な人間を信じて任せる」という後のナイキの人事哲学につながっていきます。サラへの最後の手紙は、再考を促す長文のタイプ打ちでした。彼女の返事はノーでした。
「富士山の男には会わせん。どうせたいしたことはやれない」——サラの父の言葉が、フィルさんの背中を押したのかもしれません。
フィルさんのこだわり
毎朝のランニング:フィルさんの一日は霧の中のランニングから始まります。「体が目を覚まして、頭の中がはっきりしてくる素晴らしい瞬間を味わった。ろっ骨や関節がやっと緩み出し、団体から液体になるように体が溶け始める瞬間だ」。危機のときは毎晩12マイル走ると自分に誓った。走ることがフィルさんの思考と精神の源泉でした。
ペーパーバック:オニツカへ向かう機内で読んでいたのは『ライ麦畑でつかまえて』と『裸のランチ』でした。世界旅行中は東京で禅・仏教・神道の本を読み、境内のベンチに何時間も座り込んだ。本は旅の必需品であり、フィルさんの世界観を形成した道具です。ビジネスで行き詰まったときも本を手に取り、先人の言葉を探した。
夜の父への電話:オニツカとの裁判が始まってから、フィルさんは毎晩必ず父に電話しました。「実話のベッドタイムストーリーを父に語る時間だ」。父は法律書を調べ、判例を持ち寄り、「私たちは勝つ、バック。なぜかわかるか——父はいつも『私たち』と言ってくれる」。10年間続いたこの電話は、最大の危機の支えでした。
フィルさんゆかりの地
神戸(オニツカ訪問の地):1962年秋、フィルさんが24歳で訪れた場所です。ブルーリボン・スポーツという架空の会社名を即興で言い放ち、タイガーシューズの代理店契約を取り付けた——ナイキの本当の原点です。神戸からポートランドへ帰る船の上で、フィルさんは海を見つめながら未来を夢見ました。ナイキ本社キャンパスの日本庭園は日商岩井への感謝を込めて作られています。
富士山(誓いの地):1962年の世界旅行中、フィルさんは富士山に登りました。山頂の鳥居のそばに座ってサラと日の出を眺めながら、禅について語り合った。「いつかお祝いごとがあったら、この地に戻ってこよう」と誓いました。その後、フィルさんは実際に富士山に戻っています。
ユージーン(プリフォンテーンの聖地):バウワーマンが指導したオレゴン大学のある街であり、プリフォンテーンが走ったヘイワード・フィールドがある場所です。フィルさんは1975年5月、このトラックでプリフォンテーンの最後のレースを見届けました。「これほど彼を素晴らしく感じたこともなければ、これほど彼を身近に感じたこともなかった」
フィルさんから学ぶ、経営者への3つの教訓
1. 馬鹿げたアイディアを信じ切る力 クラスメートは退屈そうに聞いていた。銀行は断り続けた。取引先は裏切った。それでもフィルさんは走り続けた。「世界は馬鹿げたアイディアでできている。歴史は馬鹿げたアイディアの連続なのだ」——信じ切ることができるかどうかが、起業家を分ける最初の分岐点です。
2. 人を信じて任せ、感謝を行動で示す ジョンソンに東海岸を任せ、ウッデルに業務部長を任せ、ゴーマンに台湾を任せた。バウワーマンには靴のデザインを任せた。「感謝の言葉をまったく口にしなかった」とフィルさんは認めています。それでも仲間はついてきた。なぜか——信じて任せることそのものが最大の敬意だったからです。
3. ゴールラインは自分で決める 「ゴールラインは存在しない」——IPOを成し遂げた後も、フィルさんは翌朝から次の課題に向かいました。「毎晩枕の上でぐっすり眠れるのは数週間だけだ。すぐに次の危機が来る」と言い続けた。到達すべき終点はない。走ることをやめた者が負ける。これがフィルさんのゲームの本質です。
この記事で語りきれなかったフィルさんの魅力
本書には、まだ語りきれないエピソードが詰まっています。
キャロライン・デヴィッドソンさんがスウッシュを35ドルで描いたこと。「まあ、好きじゃないけど時間が経てば好きになるかも」とフィルさんが言ったこと。後年、フィルさんはキャロラインさんを食事に招き、スウッシュの入ったダイヤモンドリングとナイキ株を贈りました。
また、レブロン・ジェームズさんがナイキとの契約後に1972年製のロレックスを探し出し、「チャンスをくれた感謝を込めて」と文字を彫って手渡した場面。「たいしたチャンスを与えたわけではない。彼が自らの力で確実なものへ近づいたのだ」とフィルさんは書いています。
そして息子マシューさんの死——エルサルバドルでのダイビング事故。映画館でトラヴィスさんの姿を見た瞬間に予感し、床に崩れ落ちるペニーさんを助けるトラヴィスさんを支えながら、フィルさんは「こうして終わりを迎える」という言葉を思い出したと書いています。
📚 SHOE DOG 靴にすべてを(フィル・ナイト著、東洋経済新報社)を読んでみる
まとめ|フィル・ナイトさんが教えてくれること
50ドルを父から借りた青年が、神戸でアドリブで「ブルーリボン・スポーツ」と言い放った。その嘘から始まった会社が、世界最大のスポーツブランドになった。
ナイキの歴史は美談だけではありません。銀行に何度も見捨てられ、取引先に裏切られ、政府に訴えられ、仲間を失った。それでもフィルさんは走り続けた。
「走ればいいというものではない」とフィルさんは書いています。「ゴールを目指して走り、快感を追い求めているのだと自分に言い聞かせるが、実は止まるのが怖くて走っているのだ」
止まるのが怖い。それが起業家の本質かもしれません。2024年、世界の至るところで今日も誰かがスウッシュを履いて走っています。その一歩一歩に、霧のオレゴンを走り続けた24歳の青年の足音が重なっています。
参考文献:フィル・ナイト著『SHOE DOG 靴にすべてを』(大田黒奉之訳、東洋経済新報社)

