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三島海雲さん|カルピスをつくった男が内モンゴルから持ち帰った「日本一超俗的な経営者」の哲学7選

三島海雲さん|カルピス創業者の経営哲学

仏像を庭で燃やした少年が、内モンゴルの草原で乳製品に出会い、日本初の乳酸菌飲料を生んだ——。

それが、カルピス創業者・三島海雲さんの話です。

1878年、大阪府箕面市の貧乏寺に生まれた三島さんは、23歳で中国大陸に渡り、商売・銃の売買・メリノ種の改良事業と、清朝崩壊の大波に翻弄されながら13年を過ごしました。1915年に無一文で帰国した41歳が、試行錯誤の末に開発したのがカルピス。1919年7月7日(七夕)の発売から、与謝野晶子も岡本太郎も絶賛した「日本初の乳酸菌飲料」は国民飲料となりました。

「日本一超俗的な経営者」と呼ばれ、96歳まで生き抜いた三島さん。現代に生きるビジネスパーソンへ伝わる哲学を、山川徹著『カルピスをつくった男 三島海雲』をもとに7つのポイントで解説します。


三島海雲さんの基本プロフィール

項目内容
氏名三島海雲(みしま かいうん)
生没年1878年〜1974年(享年96歳)
出身大阪府箕面市稲(浄土真宗・教学寺の長男)
経歴北京東文学社教師→日華洋行(貿易)→メリノ種改良事業→醍醐味→カルピス創業
主な実績日本初の乳酸菌飲料「カルピス」創業(1919年)、仏教聖典の刊行
座右の哲学「覚行窮満」——悟った通りに即行動する
こだわり微生物研究、食への情熱、友人への恩返し
ゆかりの地大阪府箕面市稲(生家・教学寺)、内モンゴル・ヘシクテン旗(カルピス着想の地)、東京・和田堀廟所(墓所・顕彰碑)

貧乏寺の少年が仏像を燃やした朝

三島さんの生家・教学寺は、大阪府箕面市稲にある浄土真宗の貧乏寺でした。檀家は40軒ほど。当時も現在も兼業しなければ寺院を維持できないほど小さな寺です。

幼い三島さんは胃腸と呼吸器が弱く、医師に「長く生きられない」と言われるほど体が弱い子どもでした。加えて吃音に悩まされ、野原で号令の練習をしたり、母がカタツムリのテリ焼きを薬として食べさせてくれたりしながら育ちました。

この「健康への渇望」が、後に健康飲料カルピスを生む一因になります。

そして三島さんの性格を象徴する、ある朝の出来事があります。

父が仏像の前で読経しながら片手で経机を整理していた。それを見た少年三島さんは許せなかった。昼夜を問わず働く母を苦しめている「形式だけのお勤め」に、怒りが爆発した。

「そんな形式的なお勤めをするだけの仏像なら尊敬に値しない」——三島さんは仏像を庭に持ち出し、新聞紙で燃やしてしまいました。

寺の息子が仏像を焼く。この苛烈な行動は、三島さんの生涯を貫く「信じたことを即行動に移す」精神の原点でした。


経営哲学①|「覚行窮満」——思ったことをすぐに行動に移す

教学寺現住職の塚田博教さんは、三島さんの生き方を「覚行窮満(かくぎょうぐうまん)」という仏教の言葉で表現しています。意味は「悟った通りに行動すること」——思ったことをすぐに実践する、それが仏さまの理想の姿だ、と。

三島さんは23歳で北京行きを決断した動機をこう書き残しています。

「人を信じること、そしてそこから湧き出る勇気とが、私を北京に何のあてもなく強引に渡らせたのである」

ろくな根拠もない。頼れる知人がいるかも分からない。それでも「行かなければ可能性が潰える」と信じた瞬間に動き出した。

この「覚行窮満」の精神は生涯変わりませんでした。41歳で無一文から醍醐味の開発に乗り出し、86歳で仏教学者・山口益さんに仏教聖典の制作を依頼し、最期まで「あと20年は働きたい。まだ仕事が残っているから」と言い続けた。

「海雲さんは、覚行窮満を貫いた人だったのではないか」——塚田住職がこう語るように、三島さんの経営哲学の根幹は、信じたことを即行動に移す「思想と実践の一致」にありました。


経営哲学②|草原で見つけた「商品の種」——観察とメモの習慣

1908年夏、30歳の三島さんは内モンゴル・ヘシクテン旗にいました。蒙古王・ジャンバルジャヴ一族のパオ(移動式住居)に滞在した彼は、遊牧民の生活に溶け込んでいきます。

「三島さんには適応力があった。日本人というよりも草原で生まれ育った人と思えるくらい草原の生活に慣れて、誰とでも打ち解け、たくさんの遊牧民に愛されました」——ジャンバルジャヴのひ孫・ボインイブグルさんが100年後にこう語るほどでした。

毎朝、三島さんは家畜の乳搾りを手伝いました。乳製品ジョウヒの作り方を教わる際には「何がどのくらい必要ですか?」「何分間、火にかけるんですか?」と細かく聞き、一度教えてもらっただけで再現できた。

この観察とメモの習慣は生涯続きます。晩年も枕元に4Bの鉛筆とわら半紙を置き、夜中に思いついたことを書き留めました。「個人の利益を超越してカルピス愛用家のため、大衆のため……獅子奮迅!」「メロンは尿量を増加す、西瓜も?」——判読しづらいほど走り書きされたメモの数々が、三島さんの創造の源泉でした。

遊牧民との別れの日、カモシカに何度も引き戻されながら「さようなら」と頭を下げて立ち去った三島さんに、ジャンバルジャヴの一族は深く感動しました。その感動は100年後まで語り継がれました。


経営哲学③|カルピス誕生——「どうですか」と素直に聞く姿勢

帰国から4年後の1919年、三島さんはカルピスを生み出します。

もともとの商品は「醍醐味」という乳製品でした。大ヒットして山本権兵衛首相や三菱財閥・岩崎小爾太からも注文が入ったものの、牛乳不足で生産中止に追い込まれます。次にキャラメルを手がけましたが、老舗に太刀打ちできず失敗。

そして三度目の挑戦——。脱脂乳に砂糖を混ぜて一昼夜おいたところ、意外にもうまい。もう一日置くとうまみがさらに増す。スポンサーの土倉龍治郎さんも絶賛しました。

「うまい——これでいけ!」

カルピスの名前の由来はカルシウムの「カル」と、サンスクリット語で醍醐(最上の味)を意味する「サルピルマンダ」の「ス」です。最初は「カルピル」と考えましたが、歯切れが悪い。口ずさんでいくうちに「カルピス」でいこうと直感しました。

そして三島さんは与謝野晶子・鉄幹夫妻、漫画家の岡本一平と作家の岡本かの子、その子どもだった岡本太郎(幼少期)、さらにふるさとの村人にまで試作品を持って回りました。

子どもにも、村人にも、文化人にも、同じように「どうですか」と素直に感想を求めました。面白いアイデアや参考になる意見ならどんどん取り入れる。相手の身分や年齢は関係ない——この姿勢がカルピスを磨き上げました。

与謝野晶子さんはその場で2首の歌を詠みました。「カルピスを友は作りぬ蓬薬の 薬というもこれにしかじな」——日本初の乳酸菌飲料への絶賛でした。


経営哲学④|水玉模様と「初恋の味」——広告の天才

1919年7月7日(七夕)、カルピスは発売されました。包装は青地に白の水玉模様。天の川をイメージした意匠です。

「この包装は、宇宙の縮図である。遠方にある星は薄く、近くの星は白く強く光っている。そういう意味でもカルピスの水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものである」と三島さんは語っています。

そしてもう一つ、三島さんが生んだ言葉があります。

「初恋の味」——この一言は、キャッチコピーの歴史に残る傑作です。甘酸っぱいカルピスの味を「初恋」に例えた。年齢も性別も問わず誰もが共感できる、普遍的な感情の言語化でした。

広告への情熱は並外れていました。ムッソリーニやダンヌンツィオといった国際的な著名人からメッセージをもらい、飛行機からビラを散布するという奇抜なプロモーションも行いました。口コミを積極的に活かす販促も展開しました。

また味の素・鈴木三郎助さんに株の過半数を取られて経営権を奪われそうになった「酸っばい時代」を、友人たちの尽力で乗り越えたこともあります。三島さんはこの苦い経験を生涯にわたって悔しそうに語ったといいます。


経営哲学⑤|焦土からの再生——「カルピスはそうそう潰れてたまるものか」

1945年5月、カルピス本社と工場は空襲で焼け落ちました。煙突一本だけを残して。

さらに終戦後、国から交付された戦時保険金520万円の返還を迫られ、倒産の危機に瀕します。経理担当の中道健太郎さんが「もしかすると会社は破産です」と何度も三島さんに警告しました。

しかし三島さんの返答は揺るぎませんでした。

「そんなに悲観することはない。会社がそうそう潰れてたまるものか。カルピスは優れた製品だから、自信をもってことにあたれ」

この言葉に勇気づけられた中道さんは、役所への嘆願通いを続けました。1948年、企業再建整備法の改正によって問題は解決。カルピスは新会社として再スタートを切ります。

終戦後の少年社員・保川明さんの証言が印象的です。2000人の応募者から採用された15歳の保川さんに、70歳を超える三島さんは「ご苦労さん、まあお上がんなさい」と食卓に招き、甘納豆を勧めました。「社長の甘納豆だけは忘れられません」——この温かさが三島さんの人柄を物語っています。


経営哲学⑥|友への恩返し——人間は「重々無尽の相関関係」で生きている

三島さんには終生、恩を感じ続けた人々がいました。

カルピス創業を資金面で支えた土倉龍治郎さん。経営権奪還に奔走してくれた高嶋米峰さんや杉村楚人冠さん。北京東文学社時代の同窓生たち。

三島さんは友人の恩に驚くほど丁寧に応えました。友人への野沢菜のプレゼントには一樽丸ごと送る。社員400人分のスイカをトラックで届ける。友の生家の梵鐘に「施主 三島海雲」と刻む——そのスケールは常人の感覚を超えていましたが、受け取った人の心に深く刻まれました。

三島さんが大切にした哲学は「重々無尽の相関関係」でした。

すべての物事は、他の一切のものとの結びつきによって存在する。人間は自分以外のすべてとの関係で成り立っている。だからこそ互いに助け合わなければならない——この仏教的な人間観が、三島さんの経営と人間関係の土台にありました。

モンゴル人研究者のブレンサインさんはこう語っています。「三島海雲だけは違った。彼は早い段階で日本に引き揚げて、モンゴルの乳製品を日本に持ち帰り事業を興した。何より彼が作ったカルピスはいまも残っているでしょう。そういう人物はほかにいません」


経営哲学⑦|最期の仕事——「カルピスを売り出したときの気持ちで命を賭けて」

86歳になった三島さんは、最期の使命を果たすために行動を起こします。

日本を代表する仏教学者・山口益さんに、一通の手紙を書きました。「キリスト教にはバイブルがある。仏教にはそれがない。だからあなたが仏教の聖典を作ってください」

断ろうとする山口さんに、三島さんはこう迫りました。「仏教の学者で、日本学士院の会員になっているのはあなただけのはずです。私の注文をあなたが断る権利はない」

三島さんの約束はこうでした——「聖典が完成したら、カルピスを売り出したときの気持ちで命を賭けて全国に普及させたい」

86歳の経営者が、50年前の起業時と同じ情熱で新事業を語る。これが三島さんという人間でした。

三島さんはこんな言葉を残しています。「日本は経済大国になりましたが、果たしてよい社会は生まれたか。人間性の失墜、国民間の連帯感の喪失といった精神的貧困を痛感しないわけにはまいりません。真の日本の繁栄は強力な精神文明を基盤としてその上に物質的進歩がある時においてのみもたらされると思う」

仏教聖典が三島海雲記念財団から刊行されたのは、カルピス発売55年後の1974年7月7日——七夕の日でした。それが三島さん最期の仕事となりました。享年96歳。


三島さんの失敗談|あの「酸っばい時代」

1927年、増資をしたいと考えた三島さんは、味の素の後継者・鈴木三郎助さんの50万円出資の申し出を喜んで受け入れました。しかし気づいたときには、鈴木さんが株の過半数を握り、カルピス社の社長に就任していた——。

三島さんは自伝で「元来、株数がどうのという方面にはあまりこだわらない」と弁解しています。経営者として株や経営に無頓着すぎる、という批判は免れませんが、この浮き世離れした無欲さが三島さんの魅力でもありました。

友人たちの必死の交渉でカルピスを取り戻せたものの、晩年まで横須賀の別荘近くにあった鈴木邸の前を通るたびに「鈴木にカルピスを乗っ取られたんだ」と子どもっぽく愚痴をこぼしていたといいます。


三島さんのこだわりグッズ

乳製品ジョウヒ:内モンゴル・ヘシクテン旗で遊牧民のジャンバルジャヴ一族から教わった乳製品です。三島さんはその製法を細かくメモに取り、大阪毎日新聞の「酸乳が健康の秘訣」という記事と重ね合わせて確信しました。このジョウヒとの出会いがなければ、カルピスは生まれませんでした。今もモンゴルの草原では伝統的な製法で作られています。

4Bの鉛筆とわら半紙:三島さんの創造の源泉でした。就寝時も枕元に置き、思いついたことを即書き留めました。秘書の酒本うめさんだけがその判読しづらい文字を読みこなせたといわれます。メモには「個人の利益を超越してカルピス愛用家のため、大衆のため……」「メロンは尿量を増加す」など、仕事のアイデアから健康観察まで何でも書かれていました。


三島さんゆかりの地

大阪府箕面市稲(教学寺):三島さんが生まれ育った浄土真宗の貧乏寺です。境内には「三島海雲翁頌徳碑」が建っています。箕面市観光協会も「カルピスのルーツ」として紹介しており、現在も全国から訪問者が絶えません。現住職の塚田さんが三島さんの語り部として丁寧に伝えています。

内モンゴル・ヘシクテン旗:カルピス着想の地です。1908年夏、三島さんがジャンバルジャヴ一族のパオに滞在してジョウヒと出会った草原。100年後もその一族は三島さんの記憶を語り継いでいました。ジャンバルジャヴのひ孫・ボインイブグルさんは「三島さんは日本人でありながらモンゴル人の心を持っていた」と語っています。

東京・杉並区和田堀廟所:三島さんが眠る墓所です。境内には居庸関の過街塔をモデルにした顕彰碑が建立されています。漢字、モンゴル文字、サンスクリット文字、チベット文字、ウイグル文字、西夏文字で「我と一切の有情をきよめよ」と刻まれた碑は、三島さんの生き方そのものを象徴しています。


三島さんから学ぶ、経営者への3つの教訓

1. 「素直さ」こそが最強の武器である 三島さんは「素直とは自分の心を空しゅうして人の声に聞くことである。人の言の中から良いこと、真理を発見したらばそれに順うその態度のことである」と語っています。権威にも子どもにも村人にも等しく「どうですか」と問い続けた姿勢が、カルピスを磨き上げました。

2. 「弱さ」を商品の哲学に昇華する 幼少期から体が弱く、吃音に悩んだ三島さん。「自分と同じような症状を持つ人をどれだけ助けられるだろう」という思いが乳製品開発の出発点でした。個人の弱さや痛みが、社会への貢献に転化する——これが三島さんの発明の動機でした。

3. 人間は「関係の網」の中でしか生きられない 「重々無尽の相関関係」——すべては他者との関係で成り立つ、という仏教的哲学が三島さんの土台です。友への恩返しを命を賭けて果たし続けた姿は、現代の「個人主義」「自己責任」の風潮に対する静かな問いかけです。


この記事で語りきれなかった三島さんの魅力

著書『カルピスをつくった男 三島海雲』には、まだ紹介しきれないエピソードが詰まっています。

たとえば、三島さんが第一次世界大戦後のドイツを訪れ、ノーベル化学賞を受賞した化学者フリッツ・ハーバーと調味料の輸入について交渉していた話。また独裁者ムッソリーニに手紙を送り、日本の青年へのメッセージをもらって飛行機からビラを散布した奇抜なプロモーション。

そして「フルーツ乳酒」の開発——戦中の日記には、牛乳を原料にしたオレンジ、ピーチ、アップル、ストロベリー風味の乳酒の構想が書かれており、「見事な乳酒が出来た。ところが敗戦となった。一滴の夢となった」と綴っています。現代のフルーツ系アルコール飲料をはるか先に構想していた先見性に驚かされます。

また、親交があった化学者・ハーバーの言葉を三島さんは繰り返し引用しています。「独創的な発明は孤立した知識、思想によってできるものではありません。たえずその周囲の文化に触れ、自分の工夫や情操を積み重ねていって、はじめてその境地に達することができるのであります」——三島さん自身の生き方そのものでした。

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まとめ|三島海雲さんが教えてくれること

仏像を燃やした少年が96歳まで生きた。貧乏寺を出て、草原を旅して、無一文に戻って、それでも「カルピスはそうそう潰れてたまるものか」と笑った。

三島さんが体現したのは「覚行窮満」——信じたことをただちに実行に移す、という生き方です。

「日本一超俗的な経営者」という称号は、金や権力を求めないという意味だけではありません。時代の流行や世間の目に流されず、自分が信じた「人間の健康」と「精神の豊かさ」という軸を、96年間ぶれずに持ち続けた人間に贈られた言葉です。

草原の遊牧民から受け取った一杯の乳製品が、100年後も愛される国民飲料になった。カルピスの水玉模様が今も変わらぬのは、三島さんが見上げた「断雲の間の深さ極みなし 百光年のみどりたたえて」という空の色が、そこに宿っているからかもしれません。


参考文献:山川徹著『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館文庫)