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1949年の春、東京・阿佐ヶ谷のバラックで、二人の男が向き合っていました。
一方は、浜松で軍の払い下げエンジンをつくっていた本田宗一郎さん。もう一方は、東京で町工場を経営しながら「だれかをとっつかまえて、いっしょに組んで自分の思い通りの人生をやってみたい」と長年夢見てきた藤沢武夫さん。
初対面の場で、藤沢さんはこう言いました。
「私は商売人だから、これからいっしょにやるけれども、別れるときに損はしないよ。ただし、その損というのは、金ということではない。何が得られるかわからないけれども、何か得るものを持ってお別れするよ。だから、得るものを与えてほしいとも思うし、また得るものを自分でもつくりたいと思う」
「うん、結構だね」
本田さんはそう答えました。最初の出会いで、いつか来る「別れ」まで語り、互いの覚悟を確かめ合った二人。あまりにも短い会話から、世界的な自動車メーカー・ホンダが生まれることになります。
藤沢武夫さんの回顧録『経営に終わりはない』は、技術者・本田宗一郎さんの陰で25年間、経営のすべてを担い続けた男が「初めて明かした」半生の記録です。
藤沢武夫さんの基本プロフィール
| 氏名 | 藤沢武夫(ふじさわ・たけお) |
| 生年 | 1910年 |
| 経歴 | 東京の町工場経営→1949年本田技研参加→1973年本田宗一郎とともに引退 |
| 主な役割 | ホンダ副社長・経営全般(財務・販売・組織・海外展開) |
| 座右の哲学 | 「たいまつは自分で持て」「万物流転」「得るものを持って別れよう」 |
| こだわり | 手帖・ノートを一切使わない、銀座散策、読書(古典・外交史) |
| ゆかりの地 | 阿佐ヶ谷(本田との初対面)、浜松(本田夫人のうどん)、銀座(一人引き籠りの場所) |
手打うどんが決めた、一生をかけた賭け
本田宗一郎と会った後、藤沢さんは浜松まで会社見学に出かけます。
その浜松訪問で本田の奥さんが出してくれた手打うどんの話が、本書でいちばん好きな場面のひとつです。
戦後のまだ貧しい時代。大きな盆に山盛りにされた手打うどん。奥さんの気持ちが伝わってくる。「あの奥さんを持ったのは、本田の幸せです。もしも奥さんがうどんを小さな盆で出したら、私は手を結ばなかったかもしれない、と思うくらいです」と藤沢さんは書いています。
これは単なる食事の話ではありません。藤沢さんはこの逸話の直後に、「人と人との間を結びつける条件は、まず信頼であり、いたわり合いであると思います。その基本は家庭にある」と続けます。一杯のうどんで、その家族の温度を確かめた。
藤沢さんが本田と手を組む前に製材業を辞めると伝えたとき、藤沢の奥さんに「あなた我慢できるの」と言われました。「この人となら面白いんだ。だから、おれやってみるからやらせてくれ」と答えた。月給取りの経験もなかった人が、他人の会社に飛び込んでいった。
「大きな夢を持っている人の、その夢を実現する橋がつくれればいい」——それが藤沢さんの夢だったのです。
タテ糸の経営——本田宗一郎と「口出しなし」の役割分担
二人の約束はシンプルでした。
本田は経営に口を出さない。藤沢は技術に口を出さない。
「お金のほうは私が引き受けよう。ただ、今期いくら儲かる、来期いくら儲かるというような計算はいまたたない」「あなたは社長なんですから、私はあなたのいうことは守ります。ただし、近視的にものを見ないようにしましょう」「それはそうだ。おたがいに近視的な見方はしたくないね」
この会話で決まり。3分程度の話でした。
本書の中で藤沢さんは中国文学者・吉川幸次郎さんの言葉を引用しています。「経営の経の字はタテ糸だ」——布を織るとき、タテ糸は動かずにずっと通っている。営の字のほうはヨコ糸で、状況に応じて自在に動く。タテ糸がまっすぐ通っていて初めて、ヨコ糸は自由自在に動ける。一本の太い筋を通しながら、その時々の状況に柔軟に対応するのが「経営」だと。
この二人の会社の「タテ糸」を性格づけたのは、本田のヒューマニズムと、藤沢のロマンチシズムだったと書かれています。
昭和29年の危機——倒産寸前に「マン島TT宣言」を書いた理由
ホンダの歴史の中で最大の転機とされる「昭和29年の危機」。
人気商品だったカブ号・スクーターのジュノオ号・ドリーム号の3種類が相次いで問題を起こし、売行きが止まりました。資本金6千万円の会社が15億円もの設備投資をしていた時期です。手形が落ちなければ倒産という状況。
本田はキャブレターの問題を夜通し考え続け、「床のなかでキャブレターを替えたら、頭の中でエンジンが完全に動き出して、止まらなくなっちゃった」と電話をかけてきます。技術の問題は解決した。でも従業員の心がへたり込んでいた。「藤沢のいったことはホラだったのか」という空気が漂っていました。
そこで藤沢さんが考え出したのが、「マン島TTレース出場宣言」でした。
モーターサイクルのオリンピックと呼ばれる、世界最高峰のレース。「実力もないのに、と思いながらも、現実の困った状況についてくどくどいわずに、将来の夢と目標を宣言した」。本田社長名で書いたこの宣言文は、「精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う」で締めくくられています。
「金をやるといっても金はないし、借りてきたとしても取引先にまわさなければならない。苦肉の策がマン島のTTレース出場の夢だった」
この危機を乗り切った後、藤沢さんは一人銀座の越後屋ビルに部屋を借り、各企業の有価証券報告書を読み込んで経営分析を始めます。同じ経済雑誌が「ホンダは倒産するんじゃないか」と書きながら、一方では「優秀な企業」と絶賛していたライバル会社が、まもなく潰れてしまった。「評論家や学者のいっていることと正反対のことをやれば、生き残れるのじゃないか」と気づいたのはこのときです。
「書類の山は無能力の証明」——ドイツから持ち帰った組織改革
昭和31年、藤沢さんは本田とともにドイツへ旅行します。「この旅くらい、生涯を通じて楽しい思い出のある旅はありません」と書くほど、忘れられない旅になりました。
フォルクスワーゲンの工場で気づいたのは、「伝票がない」という事実。日本のホンダの工場では、油まみれの手でサインした伝票が何重にも流れ、帳簿が積み上がっていた。それぞれが勝手な書類を使い、ソロバンを叩いている。
帰国後、藤沢さんはすぐ動きました。「ドイツの工場には伝票がない。うちでも伝票をなくせ」。事務管理委員会を設置し、ファイリング・システムを日本に導入します。そして有名な言葉が生まれます——「書類の山は無能力の証明」。机の上に書類を積んでいる人は能力がない、という基準を作った。
「国鉄労働組合を見ろ、書類がこんなに重なりあっている。東京都庁を見ろ、机の上に書類が積んである。これは能力がないという証拠だ」
椅子は社長から平社員まで全員同じ回転椅子にしました。藤沢さんはこういうことを、本田に相談せずにやっています。「経営にかけては、向こうより私のほうが本職なんですから」と書いてある通り、これは藤沢さんの仕事でした。
「不景気に値下げ、増産」——逆張りの経営判断
昭和32年、金融引き締めが始まりました。普通の経営者ならば守りに入る局面です。
藤沢さんはその逆を行きます。まず2割の値下げ。さらに公定歩合が上がると、また1割の値下げを発表し、同時に増産の命令を出しました。危機の2年間でコスト削減と管理体制の整備を徹底してきたから、できた判断でした。
結果、ホンダは国内二輪車市場の80%を獲得します。
不景気な時に静かに力を蓄え、タイミングを見て一気に動く。この判断の背景には、藤沢さんが繰り返し語る「万物流転の法則」があります。「どんな富と権力も必ず滅びるときが来る。だからこそ本田技研が生まれてくる余地があった」——競合他社もいつかは衰える、だから今のうちに力をつけておく。大きな視野でものを見ていた人でした。
「アメリカこそ主戦場」——市場調査の反対を押し切った確信
昭和34年、川島喜八郎さんのアメリカ市場調査の結果は「欧州のほうが有望」でした。当時のアメリカは二輪車が年6万台しか売れない市場で、オートバイに乗るのは「皮ジャンパーの暴れ者」というイメージ。一方の欧州には有力メーカーが揃い、年300万台が売れていました。
それでも藤沢さんは「アメリカに行け。欧州はだめだ」と言い続けました。
「世界の消費経済はアメリカから起こっている。アメリカに需要を起こすことができれば、その商品には将来性がある。アメリカでだめな商品は、国際商品にはなり得ない」
大蔵省は現地法人設立の許可をなかなか出してくれない。「後にも先にも、代議士にお願いしたのはこのときだけです」と書いているほど、追い詰められながら許可を取り、川島さんをアメリカに送り出します。「お前が行ってだめなら、社長に頼んで、オートバイじゃない他の商売をしてもらうよ」と言い添えながら。
「たいまつは自分で持て」——これがホンダの海外展開の原則でした。 商社を通じて既存のパイプに乗るのではなく、自分でパイプをつくる。苦労はするが、一度つくればそれは自分のもの。川島さんは見事にアメリカ市場を切り開き、ホンダは世界へ飛び出していきます。
「N360の全車修理」——45億円の決断と経営者の覚悟
四輪車に本格進出した後、N360が苦情の嵐に遭遇します。雨もりあり、オイルもれあり、雑音ありのさんざんな状態。
藤沢さんはすでに売った車をすべて直すよう指示します。費用の見積もりは45億円。そのころのホンダの年間利益を超える額です。決算は赤字になる。みんな腹の中では直したいと思っていても、費用のことを考えると誰も言い出せないでいました。
そこで藤沢さんはこう言います。「もし株主が、そんな奴に任せておけないといったら、私がやらせたんだといって責任をとる。ただし、ホンダの良心に賭けて、いい品物を残しておきたかったのだということを、今度の株主総会ではクビを覚悟で説明する」
一週間、徹夜に近い活動で全国の車を直し切りました。 費用は結局27億円で済みました。この行動が、販売店からの絶大な信頼を生み出します。後に「欠陥車騒動」が起きたときも、ホンダへの被害が最小だったのはこの蓄積のおかげでした。
浅間レース中止——孤独な決断と「評判の悪さ」
本書には、当時まわりから猛反発を受けながら貫いた決断が正直に書かれています。
昭和34年、浅間コースでのレース。道は狭い、霧は濃い、観客が走路に上がってきて危険な状態。委員長だった藤沢さんは翌年のレース中止を申し入れました。
「浅間でやる限りホンダからはレースに選手を出さない。生死に関する問題について私は無責任ではありえないから、委員長はやめさせてもらう」
社内でも外でも猛反発が起きます。一番レースをやりたかったのは本田宗一郎本人で、「なんでレースやらせねえのか」という電話が藤沢さんのところへ来る。詳しく説明しても仕方ないから「だめだ」の一点張りで押し通す。
「その時分の私の評判の悪さってものはなかった。いまもって評判は悪いですがね」と本人は笑っていますが、これは生命の安全を守るためなら社内の不満も社外の批判も引き受けるという、経営者としての孤独な覚悟でした。
藤沢さんのこだわり
この本を読んでいると、藤沢さんという人の輪郭がだんだん浮かんでくる不思議な感覚があります。
手帖・ノートを一切使わない:「私は手帖とかノートを手にしたことがありません」と本書のあとがきに書かれています。すべて記憶に頼っている。でも「私の記憶力がすぐれているわけではない。苦しみ抜いたこと、考え抜いた挙句のあれこれが、頭のなかにこびりついて残っているだけなんです」という言葉が印象深い。体に刻まれるほど考え抜いたから残っている、という言葉です。
銀座散策:昭和29年の危機の後、銀座の越後屋ビルに一人で部屋を借り、企業分析をして、そのあと銀座をぶらぶらして、また部屋に帰ってくるという生活を送っていました。工場が必死に頑張っているとき、藤沢さんは「私の出る幕はない」と銀座を歩いていた。これは怠けていたのではなく、次の一手を構想していた時間でした。
プラスチック部門への訪問:工場には滅多に行かなかった藤沢さんが、必ず顔を出した場所がありました。ジュノオ号の失敗で使い場所を失ったプラスチック部門です。「いま仕事のある華やかな職場には行きません」とはっきり書いている。仕事がない、目立たない場所に行って「どうだい、やってる?」と一時間でも二時間でも話し込む。うまくいっている場所へ行っても自分にできることはない、という考えでした。
25年目の幸せな別れ
1973年(昭和48年)、藤沢さんは「今年の創立記念日には辞めたいと思う」という意向を本田に伝えることにしました。ただし直接ではなく、専務を通じて伝えてもらいました。
本書で藤沢さんは、このことを「私は本田宗一郎との二十五年間のつきあいのなかで、たった一回の、そして初めで終わりの過ちをおかしてしまいました」と書いています。25年間ずっと二人で直接話してきたのに、最後の最後で間に人を立てた。本田は話を聞くやいなや「二人いっしょだよ、おれもだよ」と即答したのです。そんな大事なことは、自分の口で伝えるべきでした。
その後、顔を合わせたとき、本田が「まあまあだな」と言い、藤沢さんが「そう、まあまあさ」と答える。「ここらでいいということにするか」「そうしましょう」というやりとりがあって、「幸せだったな」「ほんとうに幸福でした。心からお礼をいいます」「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」——それで引退の話は終わりました。
25年間、一度もぶつかることなく続いたわけではない。でも根底では「二人は愛しあって、理解しあっていた」と藤沢さんは書いています。「これ以上はないという人にめぐり会えた」という気持ちが自分のなかにある、と。
引退後、役員会に顔を出したとき「なにかご意見は?」と聞かれて「けっこうです、いうことございません、はい」と答え、誰も呼んでくれなくなった。「私の望んでいた環境ができあがったということです」と書いてあって、読んでいてなんだかほっとします。
藤沢武夫さんが今も伝えてくれること
本書を読んでいると、藤沢さんという人は一貫して「役割を果たしきること」にこだわり続けた経営者だったと感じます。
藤沢さんがやり続けたことは、一言で言えば「役割を果たしきること」でした。本田宗一郎の才能が最大限に発揮できる環境を整え、会社が社会的な存在になった後にはそれにふさわしい組織をつくり、引退する際には後継者に「たいまつの火」をしっかり受け渡す。万物流転の掟から会社を少しでも遠ざけるために、やれることをやり続けた人でした。
自分が主役になりたかったわけではない。「軍人になることも、社長になることも夢ではありませんでした」とはっきり書いている。だれかの鞄持ちをして、その人の才能をフルに生かしてあげたい——それが夢だったと。
「よく私に経営哲学があるかのようにいわれますが、それは本田という人と出会って、一緒に仕事をしたから、結果としてできたことであって、あの人と組まなければあり得なかったものです」
あとがきにこう書いてあります。謙遜ではなくて、これはおそらく本当のことで、だからこそ重みがある。
「思ったことを全部やらしてもらえたし、私はほんとに幸せな男だと思います」——そう書いた藤沢さんの言葉が、読み終えた後もしばらく頭の中に残ります。
参考文献:藤沢武夫著『経営に終わりはない』(文春文庫)

