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潰れかけたスターバックスを、なぜ創業者は「一杯のエスプレッソ」から立て直したのか|ハワード・シュルツ『スターバックス再生物語』

潰れかけたスターバックスを、なぜ創業者は「一杯のエスプレッソ」から立て直したのか|ハワード・シュルツ『スターバックス再生物語』

2008年2月のある火曜日の午後、アメリカ中のスターバックスから、いっせいに灯りが消えました。国内の約7,100店舗すべてが同時に扉を閉め、入り口にはこう貼り出されたのです。「完璧なエスプレッソを作るための研修中です」。

世界一のコーヒーチェーンが、売り上げも人件費も数百万ドルを捨て、店を閉めてまでやろうとしたこと——それは、たった一杯のエスプレッソを淹れ直すことでした。

その大胆な決断を下したのが、ハワード・シュルツさんです。この記事は、シュルツさんが会社の崖っぷちを内側から綴った著書『スターバックス再生物語』をもとに、絶頂から転落した企業を「魂ごと」立て直した経営を読み解きます。

ハワード・シュルツさんの経営思想を一言で表すなら「つながり」です。利益の数字よりも、人と人とがコーヒー一杯でつながる体験を守り抜いた経営者でした。

項目内容
氏名ハワード・シュルツ(Howard Schultz)
生年1953年
出身アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン
会社スターバックス(元会長兼CEO)
経歴貧しい団地で育ち、働きながら大学を卒業。シアトルの小さなコーヒー会社スターバックスのマーケティング責任者に
転機イタリアのエスプレッソバーに魅了され、独立してイル・ジョルナーレを創業。1987年に元の会社を買い取り統合
本書の主題2000年に会長へ退いたのち、2008年1月にCEOへ復帰し、金融危機下でスターバックスを再生させた記録
著書ハワード・シュルツ&ジョアンヌ・ゴードン『スターバックス再生物語 つながりを育む経営』(月沢李歌子訳、徳間書店、2011年)

人物の経歴の概略は、ハワード・シュルツ – Wikipediaも参照できます。

なぜスターバックスは、成功の絶頂で「セーターの糸」のようにほつれたのか

物語は、栄光の頂点から始まります。スターバックスは、アメリカの企業として初めてパートタイムの従業員に健康保険とストックオプション(自社株購入権)を与え、「素晴らしい職場」と評されてきた会社でした。

2000年、ハワード・シュルツさんはCEOを引退して会長となり、日々の業務ではなく海外戦略や拡大に注力するようになります。その後も会社は成長を加速させ、株価は四半期ごとに上昇していきました。

ところが、ある四半期から歯車が狂いはじめます。2007年、スターバックスは道を見失いました。成長に固執するあまり業務から目をそらし、中核となるものから離れてしまったのです。

シュルツさんは『スターバックス再生物語』のなかで、その崩壊を「セーターの糸が少しずつほつれていくように、ゆっくりと静かで漸進的だった」と表現しています。一つの決定や戦略が悪かったのではありません。店をつくるたびに、お客様を失うたびに、スターバックスを特徴づけるものが少しずつ消えていったのでした。

追い打ちをかけたのが、外の世界の激変です。景気後退は大規模な金融危機に変わり、住宅バブルが破綻し、失業率が上がり、世界は不況に陥りました。同時に、オンラインメディアやソーシャルネットワークの発達で情報の流れも一変し、スターバックスが何か行動を起こすたびに、世界中で賛否が飛び交うようになっていました。お客様は出費に敏感になり、独立系コーヒーハウスや国際企業といった新たなライバルがスターバックスを標的に批判を強めます

会長として問題の責任をとらなければならなかったシュルツさんは、一つの結論に達しました。日々の業務をふたたび自分の手で指揮しなければ、この会社を衰退から救うことはできない、と。では、七年も現場を離れていた創業者は、どうやって指揮官の座に戻ったのでしょうか。

2008年1月、シュルツさんはなぜ「株式公開以来最悪」の会社に自ら飛び込んだのか

CEOに戻る——。その重い決断を、シュルツさんはハワイのコナの海岸で固めます

当時シュルツさんは、パソコン大手デルの創業者マイケル・デルさんと、コナの海岸を自転車で走るのを日課にしていました。ある日、シュルツさんは打ち明けます。「CEOとして戻らなければならない」。マイケルさんは驚かず、二人は復帰にともなう戦略や不安について話し合いました。シュルツさんはマイケルさんの家まで足を運び、前年に彼がデルで実行した再建の手順を一つずつ聞き、当時の書類まで見せてもらっています。

このときシュルツさんが強く惹かれたのが、マイケルさんがデルで使った「変革に向けたアジェンダ」という考え方です。当時のスターバックスには無かった言葉でしたが、行わなければならない変化の大きさを前向きに表現し、やるべきことの枠組みを示してくれる。これが鍵だと直感しました。

ハワイにいてもシュルツさんは毎朝、日々の売り上げを確認せずにはいられませんでした。目にした数字は信じがたいものでした。既存店売上高が前年比でマイナス、それも二桁台の落ち込みです。「朝食も食べられない。家族と一緒にいるのも楽しめない」と本人が振り返るほど、恐れていたことがすべて現実になっていました。

復帰は、単にCEOの椅子に戻ることではありません。株式公開以来、最悪の三カ月間を記録した会社の梁を支えるための復帰でした。準備は、統率のとれたチェスのように進められます。当時のCEOジム・ドナルドさんと直接話し、取締役会で経営陣の交代を承認し、ナスダック市場に警告を発する。シュルツさん自身もドリームワークスの取締役を辞任し、退路を断ちました

発表に向けては、スターバックスのウェブサイトに載せる公式レターも書き上げます。25年前に一号店を見たときに情熱の火がつき、その火がいまも燃えていることを伝え、元来の使命は忘れていないが、いまは試練のときだと訴える内容にしたかったのです。あわせて、従業員が誰も健康保険や自社株を失わないことを明記した書類も用意し、46カ国で運営する現地の責任者にも電話で直接、意図を伝えていきました。

そして迎えた2008年1月7日の月曜日、夜明け前。シュルツさんはシアトルの並木道を、自分でハンドルを握って第一号店へと車を走らせます。自分の鍵で暗い店の扉を開け、創業当時からの木のカウンターを右手で撫でた——この静かな場面から、七年ぶりの復帰の一日が始まりました

復帰を決めた理由の一つには、仕事に恵まれなかった父の存在があった、とシュルツさんは記しています。何万というパートナーの生活と夢がこの会社にかかっている以上、あきらめるわけにはいかなかったのです。 指揮官として最初に彼が下したのは、誰もが耳を疑う決断でした。

全米7,100店を3時間半閉めた、「一杯のエスプレッソ」への賭け

「よし、やろう」。シュルツさんが唇をすぼめてそう答えた瞬間、小売業の常識を覆す計画が動き出しました。

きっかけは、あるチームの提案でした。完璧なエスプレッソを作るため、約22万5000人のバリスタを短期間で再研修するには、全店舗を一斉に閉めるしかない、というのです。シュルツさんはリスクを瞬時に計算しました。数百万ドルの損失、ライバルにお客様を奪われる危険。

そして最も怖いのは、大々的に再研修することで「スターバックスの質が落ちた」と自ら認めることになる点でした。しかし——正直に言えば、それは事実だったのです。

こうして2008年2月のある火曜日の午後、アメリカにある約7,100店舗がいっせいに扉を閉めました。時計の針が五時半を示すと、お客様に丁寧に退出をお願いし、グリーンのエプロンを着けたバリスタたちは、シアトルのコーヒーエキスパートが数日で作り上げた研修用フィルムを店内で見つめます。

映し出されたのは、まじりけのない真実ばかりでした。「理想的なのは、スプーンから蜂蜜が落ちる速さです。濃く、キャラメルのように甘いエスプレッソになります」。抽出が速すぎれば風味は弱くなり、豆を細かく挽きすぎれば苦みが出る。エスプレッソの出来が悪かったら、ぜひ作り直してほしい——動画のなかでシュルツさんは、バリスタたちにそう静かに語りかけました。

そしてミルクです。効率化の名のもとに、一部のバリスタは注文を受ける前から大きなピッチャーでミルクを泡立てて置いておくようになっていました。しかし、ミルクは一度泡立てると分離が始まり、甘みを失います。崩れていた一つひとつの基本を、シュルツさんは店を閉めてまで取り戻そうとしたのです。

報道は騒然となりました。各地の局が閉じた店にカメラを向け、《ボルチモア・サン》紙は「スターバックスがない世界?」と見出しを打ちます。それでもシュルツさんは怖くなかったと言います。「コーヒーを完璧なものにすること以上に、仕事に対する情熱や献身を全員に取り戻してほしかった」からです。

数字ではなく、コーヒーそのものと、それを淹れる人の心から立て直す。派手な新戦略ではなく、地味な手仕事の精度にこそスターバックスらしさが宿ると信じていました。しかし、そもそもシュルツさんが命がけで守ろうとした「中核」とは、何だったのでしょうか。

シュルツさんが、スターバックスの中核を「愛」と呼ぶわけ

『スターバックス再生物語』を読んでいて印象的なのは、シュルツさんが従業員のことを考えるとき、まっさきに「愛」という言葉を口にすることです。効率や利益ではなく、愛。そこにこそ、この会社を再生させる鍵があると彼は信じていました。

シュルツさんが挙げるスターバックスの価値観は、飾り気のない言葉で並びます。尊敬と尊厳。情熱と笑い。思いやりとコミュニティと責任。本物であること。多くの人がひとりで画面に向かう時代に、人と人とのつながりを大切にする。無駄なものが切り捨てられる時代に、たとえコストがかかっても倫理的に行動する。

これこそが誇るべき探求であり、スターバックスの根幹だと本書は繰り返します。だからこそ、パートタイムの従業員にまで医療保険を提供してきたことを、シュルツさんは何より大切にしていました。

その根っこにあるのが、コーヒーそのものへの敬意です。ルワンダの栽培農家、二つの大陸にある六つの工場で働く約80人の焙煎マスター、54カ国で活躍するバリスタ——一杯のコーヒーは、その魅力を伝える一握りの人たちの手に託されている。

「コーヒーは噓をつかない。つくことができないのだ」とシュルツさんは書きます。農園の土からカップに注がれるまで、すべてが人の技術と真心でつながっている。土壌づくりからカップに注がれるまで、すべてが思いどおりにいくとは限りません。それでも、すべてがうまくいったときにだけ、噓のない素晴らしい一杯ができあがるのです。なお、シュルツさんがこの「つながり」を築いた創業と急成長の歩みは、前著をもとにしたハワード・シュルツさんの別記事で詳しく紹介しています。危機のなかで、その連なりを支える「人」を、彼は守り切れるのかという問いに直面します。

数百の店を閉じても、なぜ従業員の健康保険だけは守ったのか

不況が深まるなか、シュルツさんは経営者として最もつらい仕事に向き合います。人を減らすことでした。

業績が改善しなければ、店舗の閉鎖も人員の削減も避けられません。実際、スターバックスは採算の合わない店を数多く閉じ、雇用の縮小にも踏み込みました。それでもシュルツさんは、社員向けの説明で一点だけはっきりと約束しています。従業員は誰も、健康保険や自社株を失うことはない。ここに迷いはありませんでした。

パートタイムにまで医療保険を提供してきたこと——それこそがスターバックスの誇りであり、たとえコストがかかっても倫理的に行動するという、この会社の根幹だったからです。

シュルツさんが繰り返し使うのが、「信頼の貯水池」という言葉です。長年かけて従業員と会社のあいだに蓄えられてきた信頼が、危機のなかで枯れかけている。これに水を注いで生き返らせなければ、どんな戦略も実を結ばない。

コスト削減が叫ばれる時代に、あえて社員への投資を選んだのは、この確信があったからでした。同じように一杯のコーヒーから人と人とをつなごうとした経営者としては、日本でタリーズコーヒーを育てた松田公太さんの物語も、読み比べると味わいが深くなります。

『スターバックス再生物語』でシュルツさんは、難しい選択をするときの孤独をこう記しています。何千人ものパートナーのために、目の前の誰かの感情や人間関係を犠牲にしなければならない——それがCEOという役割の、最もつらい部分だと。その覚悟の集大成となったのが、被災地で開いた前代未聞の会議でした。

ニューオーリンズに1万人を集めた、シュルツさんの本当の狙い

経費削減の真っ只中に、シュルツさんは約1万人の社員を一つの街へ集めるという大勝負に出ます。選んだ場所が、ハリケーンで壊滅的な被害を受けたニューオーリンズでした。

その街は、アメリカ史上まれにみる規模のハリケーンに襲われ、堤防の決壊による洪水で多くの命が失われ、一時は市の八割が水没していました。スターバックスは基金を通じてすぐに500万ドルの義援金を約束し、シュルツさんと妻のシェリさんはさらに100万ドルを寄付します。

それでも三年たって復興は進まず、瓦礫のあいだで暮らす人々がいました。会議の一カ月前に現地を歩いたシュルツさんは、「まるで墓場にいるような気がした」と書いています。

2008年10月26日、シュルツさんはシアトルを発ちました。集まったのは店長、900人のディストリクトマネジャー、210人のリージョナルディレクター、そして海外から来る250人のパートナーたち——約1万人です。38のホテルを満室にし、毎日3万3000食を用意し、毎晩32のレストランや宴会場を借り切る膨大な後方支援を、家を失った人々のためのシェルターから雇った手伝いとともに回しました

プログラムの柱は五つ。説明会や討論会、巨大なインタラクティブ展示、被災地を再建・改築するコミュニティ・ボランティア・イベント、二つの突然の発表が用意された閉会式、そして地元のミュージシャンが主役のストリートフェアです。

これは単なる決起集会ではありませんでした。枯れかけた「信頼の貯水池」に水を注ぎ、社員が自分の店へ帰ってより良い成果をあげたいと思えるようにする——変革への投資そのものだったのです。街に仕事をもたらすスターバックスを見て、涙を浮かべる地元の人もいました。

人を救う会議が、会社をも救う。シュルツさんの狙いは、その二つを一度に成し遂げることにありました。

「ヴィア」という名前に、シュルツさんが最後まで妥協しなかったわけ

再生の物語には、商品開発をめぐる細部へのこだわりも刻まれています。象徴が、インスタントコーヒー「ヴィア(VIA)」でした。

祖母たちの時代からあるインスタントとはまったく違う、革新的な商品にする。そのためにまず必要なのが、完璧な名前でした。ブレーンストーミングでは「サイドキック」「スパーク」「カフェ・カダブラ」といった案が飛び交い、一時は候補が500ほどにも膨れ上がります

そんななか、社内のクリエイティブスタジオが付け加えた一語が最後に残りました。選ばれた「ヴィア」は、イタリア語で「通り」や「道」を意味する言葉です。スターバックスがイタリアで着想を得たこと、そして持ち歩けて手軽に飲めるという狙いを、短く言いやすい響きで伝えていました。

ところが発売直前、包装デザインの最終決定の日、シュルツさんは提示された案に首を横に振ります。デザインをやり直せばスケジュールに支障が出るのはわかっていました。それでも「デザインが悪ければ成功は望めない」と妥協しませんでした。

そこで彼は、創業時代によくやった手を使います。日曜日に、シアトル最古のブランディング会社の共同設立者ジャック・アンダーソンさんを自宅に招いたのです。ジャックさんは、創業期にフラペチーノのイメージや最初の紙袋をデザインし、ブランドの温かさをつくり出した人物でした。彼が連れてきたデザイナーたちは、ヴィアの発売も、シュルツさんが包装を任せようとしていることも、その場まで知らされていませんでした。

外部の企業をこっそり雇ったことは社内に不満も生みましたが、シュルツさんは会社の利益になると信じたことをやり抜きます。一杯のコーヒーの名前と包装にすら魂を注ぐ——その執念が、危機のスターバックスを支えていました。

なお『スターバックス再生物語』には、ここで紹介しきれなかった変革の実務が、まだ数多く描かれています。

ハワード・シュルツさんのこだわりとは?

経営の話が続きましたが、ここで少し、ハワード・シュルツさんという人そのものに目を向けてみましょう。『スターバックス再生物語』には、その人柄がにじむ習慣が描かれています。

一つは、一号店の鍵を今も持ち歩いていることです。1971年にオープンしたシアトル・パイクプレイスの一号店。その正面玄関の鍵をポケットに忍ばせ、店で若いバリスタたちに見せて回ります。

「CEOがそんなことを、と思うかもしれない」と本人も書いていますが、それは、会社の伝統と、自分より前にスターバックスを立ち上げた人たちへの敬意を、常に思い出させてくれる道具なのです。1971年のオープン以来、その正面玄関はロゴも含めて変わっていないといいます。復帰初日の夜明け前、誰よりも早く自分の鍵でその店の扉を開けた場面にも、同じ姿勢がにじみます。

もう一つは、体を動かしながら思考する習慣です。重大な決断を前にしたハワイでは、マイケル・デルさんとコナの海岸を自転車で走るのを日課にしていました。人生を左右する「CEO復帰」の決意も、この自転車のうえで言葉になっています。

決断の重さを、机の上ではなく、風を切る自転車の上で受け止める。静かな場所で体を動かしながら本質を見極める——それがシュルツさんらしい思考のスタイルでした。こうした人となりは、彼が縁を結んだ土地にも刻まれています。

ハワード・シュルツさんゆかりの地とは?

ハワード・シュルツさんの足跡は、いくつかの土地に残されています。本書の世界をより深く感じたい方のために、ゆかりの地を紹介します。

まず、生まれ育ったアメリカ・ニューヨーク州ブルックリン。貧しい団地で育ち、働きながら大学を卒業した日々が、後の夢の実現へと彼を駆り立てました。(地図で見る

次に、ワシントン州シアトル。スターバックスのマーケティング責任者として移り住み、パイクプレイスの一号店で豆を袋詰めしながらコーヒーを学んだ土地です。再生の物語も、この街の本社と一号店を舞台に展開します。(地図で見る

そして、彼のビジョンが生まれたイタリアのミラノとヴェローナ。小さなエスプレッソバーで、カップ一杯のコーヒーが人と人をつなぐ力に魅了されたことが、すべての出発点でした。(地図で見る

土地をたどると、ブルックリンの団地からシアトルへ、そしてイタリアで得た着想を武器に世界的ブランドを再生させた、一人の商人の軌跡が立体的に見えてきます。では、その軌跡から私たちは何を学べるのでしょうか。

ハワード・シュルツさんから学ぶ3つの教訓とは?

『スターバックス再生物語』が現代の私たちに伝えるものを、ここでは3つに絞ってお伝えします。

一つめは、再生は「数字」ではなく「中核」から始めるということです。シュルツさんは、落ち込む売上を前にしても、最初に手をつけたのは一杯のエスプレッソの淹れ方でした。全店を閉めてまで基本に立ち返る。目先の業績よりも、自社を自社たらしめている中核を取り戻すことを優先した順番に、再生の本質があります。業績は原因ではなく結果である——この発想の転換こそが、どん底からの再起を支えました。

二つめは、危機のときこそ、人への約束を守るということです。店を閉じ、雇用を減らす苦しい局面でも、シュルツさんは従業員の健康保険と自社株だけは守り抜きました。コストではなく信頼への投資と考える。その姿勢が「信頼の貯水池」を涸らさず、再建を支える力になりました。

三つめは、利益と魂は、両立させるものだということです。ニューオーリンズの被災地で1万人が汗を流した会議も、ヴィアの名前への執念も、突き詰めれば「らしさ」を守る行為でした。儲けと理念を天秤にかけるのではなく、両方を同時に成り立たせようとし続けたのです。魂を守ることと会社を守ることは、シュルツさんにとって別々の課題ではありませんでした。

これらの教訓は、ほんの入り口にすぎません『スターバックス再生物語』には、ここでは紹介しきれなかったシュルツさんの闘いが、まだまだ詰まっています。

この記事で語りきれなかった『スターバックス再生物語』の魅力

ハワード・シュルツさんの歩みをたどってきましたが、本書の魅力はこれだけではありません。記事では触れられなかった、印象深い3つの内容を紹介します。

一つめは、「パイクプレイス・ロースト」誕生の舞台裏です。定番のコーヒーを刷新する挑戦は、味づくりからネーミングまで、社内の議論と試行錯誤の連続でした。看板商品にどう手を入れたのか、その緊張感が本書には描かれています。

二つめは、新しい抽出機「クローバー」や店舗改革をめぐる決断です。何を導入し、何をやめるのか。中核事業を立て直すための細かな選択の一つひとつに、シュルツさんの価値観が表れています。

三つめは、株主や金融界と向き合う「透明性」の経営です。都合の悪い数字も認めたうえで、自信と希望をどう取り戻していったのか。過去を責めるのではなく前へ進む、そのコミュニケーションの技術は、いまの経営にも通じます。

これらのエピソードは、ぜひ本書で味わってみてください

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まとめ

ハワード・シュルツさんは、成功の絶頂で「ほつれ」に気づき、2008年に自らCEOへ復帰して、崖っぷちのスターバックスを立て直した経営者でした。

全米約7,100店を閉めて一杯のエスプレッソから作り直し、苦しい削減のなかでも従業員の健康保険を守り、被災地ニューオーリンズに1万人を集めて「信頼の貯水池」に水を注ぎ、ヴィアの名前一つにも妥協しませんでした。その軌跡は、危機にある会社ほど、数字より先に「自分たちは何者か」を取り戻せ、と静かに語りかけてきます。

会社の数字が最悪だったその時期に、シュルツさんが最初に立て直したのが「一杯のコーヒーの味」と「働く人の誇り」だったという事実は、経営の順番について静かな示唆を与えてくれます。彼の肉声で綴られた『スターバックス再生物語』は、逆境で魂を手放さないための覚悟をくれる一冊です。

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よくある質問(FAQ)

Q. ハワード・シュルツさんとはどんな人物ですか?

A. スターバックスを世界的ブランドに育てた経営者です。ニューヨーク州ブルックリンの貧しい団地で育ち、シアトルの小さなコーヒー会社に加わったのち独立。イタリアのエスプレッソバーに着想を得て事業を広げ、2000年に会長へ退いた後、2008年にCEOへ復帰して危機下の同社を再生させました。1953年生まれで存命です。

Q. 『スターバックス再生物語』はどんな本ですか?

A. シュルツさんが2008年のCEO復帰前後を、共著者ジョアンヌ・ゴードンとともに綴った再建の記録です。全店一時閉鎖による再研修、雇用削減下での従業員保護、ニューオーリンズでの大規模会議、VIA発売など、金融危機のなかで魂を失わずに会社を立て直す過程が描かれています。

Q. スターバックスが全店を一時閉鎖したのはなぜですか?

A. 2008年2月、エスプレッソの品質を取り戻すためです。効率化のなかで崩れていた抽出やミルクの扱いを立て直すべく、約22万5000人のバリスタを再研修する必要があり、全米約7,100店を一斉に閉めて研修を行いました。数百万ドルの損失を覚悟した、中核回帰の象徴的な決断でした。

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参考文献

ハワード・シュルツ、ジョアンヌ・ゴードン『スターバックス再生物語 つながりを育む経営』(月沢李歌子訳、徳間書店、2011年)