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矢頭宣男|「44歳で目覚めた」やずや創業者が死の5ヶ月前に語った、七転び八起きの人生逆転術

矢頭宣男|やずや創業者が44歳で経営計画書に目覚め、七転び八起きから年商62億円を達成した人生逆転術

1999年1月26日、福岡のやずや本社。

著者の栢野克己は、54歳の矢頭宣男に約3時間、じっくりと話を聞きました。年商30億円が2年で60億円になる破竹の勢いの最中でした。

「思わず当時のことを思い出し、グッと来てしまった。つい、感極まって涙してる」

取材中、矢頭宣男は涙をこらえながらそう話しました。家内と商売を始めた頃のことを思い出したのです。食えない時代のことを。

この収録からわずか5ヶ月後、矢頭宣男は急性脳出血で急逝します。54歳でした。
本書『創業者夫婦が初めて語るやずやの秘密』に収められているのは、「やずや」創業者が公の場で語った最後の肉声です。


矢頭宣男の基本プロフィール

氏名矢頭宣男(やず のりお)
生没年1944年頃〜1999年6月24日(54歳没)
学歴熊本大学教育学部(3ヶ月で退学)→長崎の夜間短大→同志社大学夜間(25歳卒業)
職歴大和ハウス営業→ボウリング場支配人(神奈川・海老名)→パブスナック支配人(下関)→脱サラ→1975年やずや創業(福岡県飯塚)
44歳の転機福岡県中小企業家同友会入会→経営計画セミナーで目覚める
やずや年商創業時6000万円→死去直前62億円→2009年度グループ全体400億円(美世子会長時代)

公園の乳母車——妻が「この人を男にする」と決めた朝

本書には、やずやの原点といえる場面があります。語るのは妻・矢頭美世子さんです。

食えない時代のこと。子供が上が2歳と下が3ヶ月。美世子さんは朝4時に起き、7時までヤクルト配達をして家計を支えていました。月に5万円。それが最低限の生活の支えでした。

ある日、ヤクルトを配っていると、公園の前を通りかかりました。男性が乳母車に子供2人を乗せてあやしている。

「見たら……主人なんですよ」

子供が泣き出し、アパートのご近所に迷惑をかけないように、朝6時ごろ外に連れ出していたのです。

「その主人の姿を見たとき、私は涙で涙で。近くに行ったら泣くでしょう。だからそこは通れないんですよ」

その瞬間、美世子さんは決めました。「この人は仕事がうまくいかずにいろいろ寄り道しているけど、本当はスゴイ人なんだから、この人を男にする——それを私の目標にしよう」と。

この場面が、やずやという会社の本当の起点でした。


大学も「転職」を繰り返す

矢頭宣男の人生は、若い頃から常識外れでした。

高校時代は優秀で「先生に向いている」と言われ、現役で熊本大学の教育学部に入学します。家が貧乏だったので特別奨学金を得て。

ところが入学してみると、クラスは女性主導で、卒業したら田舎に赴任、転勤を繰り返して最後に校長——そんな平坦な道が一本のレールとして見えてきた。「先生の道が一本のレールに見えてきて、なんか、平坦な道がイヤになって辞めた」

3ヶ月で退学。

その後2年間、他の大学を受けてはことごとく落ち、長崎の夜間短大、そして同志社大学の夜間に編入。25歳でやっと卒業したのが昭和44年(1969年)でした。

「そのへんのとこが、普通の方と違ってるんですね」と本人は語っています。

大和ハウスに入社して住宅営業をやりましたが、辞令一つで全国転勤の可能性があり、「やっぱり九州に帰ってきたい。親を見らないかん」と数年で退職。神奈川・海老名でボウリング場の立ち上げを手伝い、次は九州に戻って小倉の職業紹介所へ。

「大学出の人が行くところじゃなくて、人が行かない、行きたがらないところに行ったほうが稼げる」

そう考えて飛び込んだのが、山口県下関のパブスナックでした。


パブスナックで学んだ女性の活かし方

下関のパブスナックで2代目マネージャーとして働いた2年半。矢頭宣男はここで、のちのやずや経営の根幹となる教えを受けます。

大阪から来た名マネージャーに言われた言葉です。

女性を人格者として見なさい

具体的には——女性の体に触れるのは絶対にダメ。髪も触ってはいけない。触っていいのは「肩だけ」だ。「頑張れよ、一緒にやろう」という意味の仲間の証として。

「女の子は使われているから文句は言わないけど、心の中では絶対軽蔑している」

また、叱るときは人前ではなく、必ず1対1で部屋に呼ぶ。「あなたが見込みがあるから、今から思いっきり叱る。それをわかってくれよ」と前置きしてから。

矢頭宣男はこの教えを生涯守り続けました。のちにやずやの社員の80%が女性になりますが、その組織が機能したのはこの原点があったからだと本書は伝えています。


脱サラ一年で三つの事業に失敗

下関のパブスナックを辞め、脱サラした矢頭宣男が最初に手がけたのは「バックします」でした。

車のバックギアに連動して「バックします。ご注意ください」とアナウンスするアイデア商品。脱サラ本で見つけてワンケースを仕入れましたが、自分の車につけてみたら「バックします——バックします——」とうるさくて仕方ない。「こりゃ売れないわ」と、一つも売らずに終わりました。

次は靴クリーム。ホテルへのレンタル商品として権利金を払い、「オレのもんだ!これは早くやらないと!」と計算して大喜びしましたが、どのホテルも買ってくれませんでした。

3つ目は生命保険の外交員向け贈答品。これはよく売れました。ところが利益が出ない。発注単位と注文数が合わず、デッドストックが積み上がり、売上は上がるのに金が廻らない。

「だんだんだんだん不安になってくるんですねえ」

女房が東京の朝日生命の事務員時代に貯め込んでいた100万円(現在の価値で300万円相当)を、8ヶ月でスッテンテン。電話一本しかない下関の借家に、店もない、銀行にも相手にされない、そんな状況が続きました。


脱サラに大事な三つのこと

矢頭宣男が体験から導き出した「脱サラして成功する三つの条件」があります。

ひとつ目はパートナー(配偶者)の応援。疲れ果てて帰ってきたとき、「大丈夫よ、家はどうにかなるから。あんた絶対いつか何かする人よ」と言われるか、「だから私はあの会社を辞めるのは反対したじゃない」と言われるかで、全然違う。

ふたつ目はサラリーマンの3倍働けるか。夜の10時に来い、11時に来いといわれてもすっ飛んで行く。朝7時に出社して夜11時に帰宅。忙しいときは睡眠時間3時間でも何ともなかった。

みっつ目は商品に惚れているか。儲かるからではなく、この商品を広めたいという想いです。「この三つがあって失敗するということは、よほどのこと」と矢頭宣男は断言しています。


フェリーで三回、お願いに行く

脱サラ後、司会業・健康食品販売と転々とした末に矢頭宣男が出会ったのが、クロレラでした。

最初の仕入先のメーカー社長に「瓶を開けて飲ませ、いらんと言ったらもう開けてますから返品できませんと言え」と詐欺的商法を勧められて「辞めた!」と即座に切り替えます。

「本物を探す」と決め、20社以上に資料を請求して選んだのが、京都のサンクロレラ(当時はトップメーカーだが創業6年のベンチャー)。ところがサンクロレラは直売主義で卸はしないと言う。

それでも矢頭宣男はあきらめませんでした。小倉・苅田からフェリーに乗り、ホンダのステップバンで、3回にわたって京都まで直談判に行ったのです。

「どうしてもあなたのところの商品を売らせてほしい」

3回目でやっと、「じゃあ、やってみなさい」と言われました。最終的には九州を全部任されます。「頭ではなく心でぶつかっていったのかなという気がします」と矢頭宣男は振り返っています。


44歳の転機——経営計画書が売上を3倍にした

1975年に飯塚で創業してから長年、やずやは小さな会社のままでした。40歳前後に取引先の倒産に巻き込まれ、倒産寸前で踏みとどまるという危機も経験しました。

転機が訪れたのは44歳のとき。福岡県中小企業家同友会への入会でした。

同友会で「経営計画セミナー」を受講します。そこで生まれて初めて「利益から積み上げる経営計画書」を書かされました。売上ありきではなく、先に利益目標を置き、そこから経費を積み上げて必要売上を算出する手法です。

利益1000万円と書けといわれ、手が震えました。当時の経常利益は50〜60万円だったからです。それでも言われるまま書き、夫婦で欲しい給料、会社をこうしたいという想いをすべて入れていくと、必要な売上が2億円だと弾き出されました。当時の約3倍です。

その結果を友人約50人の前で発表し、自分を追い込んだ。

「みんなに言った手前やらないかん。発表した手前やらないかん」

翌年、売上は1億8000万円を達成。利益も1200万円を上げることができました。6000万円から始まった会社が、1年で3倍になったのです。


「これだ!」——犬が草を食べた朝

3億円で売上が停滞していたころ、先輩からこう言われました。「そろそろ自分流を考えなね。他人様の商品は、所詮、他人様の心だ。自分の心の商品を開発しなさい」

自分の商品が欲しい。毎日そう思っていたある朝のことです。

「マロン」という雑種の柴犬を連れて散歩に出ると、犬が草を食べていました。なぜ食べるのか。人に聞くと「調子の悪いときに食べる」という。手に取ってみると、麦の葉っぱのようにつるつるしている。

その2日後、ある製薬会社が麦の葉っぱの研究をしているという情報が飛び込んできました。

「私はその情報を聞いて大阪に飛んだんです」

大阪でその青汁を飲ませてもらった瞬間のことを、矢頭宣男はこう語っています。

正直、体が震えました。『これだ!!』と思ったですね。『見つけた!』というカンジでした

従業員10名に満たない会社でしたが、5回近く足を運んでOEM製造を頼み込み、「養生青汁」が誕生します。

「自分でつくった商品というのは下には置ききれませんね。社員が粗末に扱ったら叱りとばします。まさに心の商品。抱いて寝たこともあります」

サンプル4包を無料で提供する通販を始めると、3億円の売上が一気に14億円に跳ね上がりました。


矢頭宣男のこだわり

本書に収められた写真や証言から、矢頭宣男の人となりが伝わってくるエピソードがあります。

ノートと手帳はメモだらけ:1999年頃の写真には「ノートや手帳は夢や気づきのメモだらけ」というキャプションがあります。テレビを見ても雑誌を見ても新聞を読んでも「ピーンと閃くことがある」と語り、気づいたことを即座にメモすることを習慣にしていました。「油断すると何やったかな、と忘れてしまうので」と言っています。

社長室の壁は夢と目標の紙だらけ:1994年頃の社長室の写真には「壁には夢や目標の紙が一杯」とあります。経営計画書に書いた夢を毎日目に見える場所に置いておくことが、矢頭宣男の習慣でした。

車は日産の安いもの:儲かった頃に見聞きした他人の失敗から学んだ教訓が「立派な車に乗ってしまう。社長室に凄く金かける。力がないのに有るように見せる」という落とし穴でした。本書の収録時点でも「今は日産の安いのに乗っています」と話しています。

犬との朝の散歩:「これだ!」の原点となった養生青汁との出会いも、雑種の柴犬マロンとの朝の散歩がきっかけでした。「自分が健康でいたいと思うモノは何なのかなあと思っていると、不思議と来るんですよ」という言葉通り、日常のふとした瞬間に閃きを得る体質でした。


「深く穴を掘れ」と座右の銘

矢頭宣男が講演で繰り返し語った言葉があります。

深く穴を掘れ。穴の直径は自然に広がる

先輩から受け取ったこの言葉を、矢頭宣男は座右の銘にしました。「つい気の多い人は、あっちを掘り、こっちを掘り、小さな穴ばっかり掘って儲からんぞ。一つの事を徹底して掘り下げてみよ。そしたら必ず下に宝が埋まっている」と。

また、毎朝の朝礼では全社員がこの言葉を唱和していました。

さあゆこう——今から一日が始まる。私のための今日が始まる。昨日までのマイナスは全て解決される。今日はいいことが次々と起こる。今日もがんばるぞ〜

これは自己暗示法として矢頭宣男がセミナーで学んできた言葉で、1993年から毎朝の朝礼に導入されました。

さらに毎週水曜の朝6時半には「夢は必ず実現する」と題した早朝勉強会を主催。仲間と目標や決意を発表し合う場でした。


妻・美世子さんの逆転劇——32億が62億に

1999年6月24日、矢頭宣男は急性脳出血で急逝します。パリ行きの飛行機を予約していた矢先のことでした。

「なんで亡くなるの?神様、なんてことをしてくれるんだろう」

遺された矢頭美世子さんは、各新聞に「カリスマ社長が死んだ。やずやも危ない……」と書かれた記事を切り抜きます。それを拡大コピーして胸にしまい、「前期32億を一億二億程度だったら噂が広がるから、それをワープして倍にしたら誰も言わなくなる」という目標を立てました。

矢頭美世子さんは3つの決断をします。先代の文化を形にして伝えること。矢頭宣男が5年かけて中国と交渉して商品化した「香酢」を日本一にすること。そして全員参加型の企業にすること。

「社員を幸せにする。そうなると、パワーが爆発しちゃうんですよ」

誰も辞めなかった。社員たちは集まって「社長が頑張るじゃなくて、僕たちが支える時代になったんだから頑張ろう」と結束していました。

その年、32億円の売上は62億円に倍増しました。のちに売上は203億円(2002年度)、400億円(2009年度グループ全体)へと拡大していきます。

矢頭宣男が44歳で書いた夢の計画書は、自分の死後に妻と社員たちの手で実現されていきました。

📚 創業者夫婦が初めて語るやずやの秘密(栢野克己著、経済界)を読んでみる


参考文献:栢野克己著『創業者夫婦が初めて語るやずやの秘密』(経済界)