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1997年1月7日、火曜日、モロッコ。
午前5時20分、ブランソンさんはベッドに座って手紙を書いていました。妻のジョーンが目覚める前のことです。相手は娘のホリーと息子のサム。これから世界一周の気球飛行に出発するのに、万が一自分が戻れない場合のための手紙でした。
「人生には時として信じられないことがある。ある日、みんなは健康ではつらつと生きていて、お互いに愛し合っている。でも翌日には、もうそうではないかもしれない」
手紙を小さくたたんでポケットにしまい、ジョーンの横に横たわった。出発の時間がやってきた。
本書『ヴァージン——僕は世界を変えていく』は、ヴァージン・グループ創業者リチャード・ブランソンさんの自伝です。レコード会社の創業から航空会社の設立、英国航空(BA)との壮絶な戦い、大西洋・太平洋横断の気球冒険まで、破天荒な半生が本人の言葉でつづられています。
リチャード・ブランソンさんの基本プロフィール
| 氏名 | リチャード・ブランソン(Richard Branson) |
| 生年 | 1950年、イギリス生まれ |
| 学歴 | ストウ校(16歳で中退) |
| 主な事業 | ヴァージン・グループ(レコード・航空・通信・宇宙など400社超) |
| 父テッド | ケンブリッジ大学法学部出身の弁護士、考古学好き |
| 母イヴ | グライダー教官、スチュワーデス、常に新しいことに挑戦 |
| 祖母ドロシー | 89歳でダンス試験合格、90歳でホールインワン、99歳で没 |
母が与えた「チャレンジ」——草原と自転車と10シリング
本書には、ブランソンさんが母イヴから受けた「チャレンジ」のエピソードが次々と登場します。
ブランソンさんが4歳のとき、母は車を家から数キロ離れたところで止め、草原を横切って自分で自宅まで戻るようにいいました。当然、道に迷いました。
12歳になると、まだ暗いうちに起こされました。「今日はボーンマスに自転車で行く日よ」と母がいったのです。サンドイッチとりんごを包んで、水は途中で何とかするようにといいました。ボーンマスは自宅のサリー州シャムリー・グリーンから80キロ離れていました。
そして水泳にまつわる10シリングの賭けのエピソードがあります。
父の妹であるジョイス叔母さんが、2週間の休暇が終わるまでに水泳を習うことができない方に10シリング賭けた。最終日になっても泳げなかったブランソンさんは、帰り道の車の中から川を見つけ、「パパ、車を止めて」と叫びました。
「リッキーが川を見つけたのよ」と母がいい、みんなが車から降りた。冷たく流れの速い川に飛び込んだブランソンさんは溺れかけ、激流に押し流された。その瞬間、ずぶ濡れになった父が後を追って川に飛び込み、息子を引き寄せました。
結果として50メートル泳ぎ切ったブランソンさんは、ジョイス叔母さんから大きな茶色の10シリング紙幣を受け取りました。「そんな大金をこれまで持ったことがなく、まるで財宝のように見えた」と本書に書かれています。
この叔母さんとの賭けがのちに大きな意味を持ちます。マナーハウス購入の際、ジョイス叔母さんは自分の家をもう一度担保に入れて7500ポンドを融通してくれたのです。
監獄の夜が変えた価値観
16歳でスチューデント誌を創刊し、学校を中退したブランソンさんは、ヴァージンのメール・オーダー・レコード事業を始め、やがてオックスフォード通りにレコードショップを開きます。
しかし事業は赤字続きでした。そこで思いついたのが、輸出用レコードを国内で販売する脱税行為でした。ベルギーへの輸出を装い、購買税を払わないレコードをショップで売る手口です。「この旅をやり、1万2000ポンドの税金をくすねていた」と本書には率直に書かれています。
やがて税関の手入れが入り、ブランソンさんはドーヴァーで逮捕されました。
独房の天井を見つめながら、彼は考えました。すべての自由が剥奪された夜、「監獄に二度と再びぶち込まれるようなことはやるまい。そして恥ずかしいと思うようなビジネスの取引はどんなこともやるまいと誓った」
翌朝、母が裁判所に会いにきました。保釈金の3万ポンドを用意できないブランソンさんのために、母は自宅のタンヤード・ファームを担保に差し出すと申し出ました。「私は母が示してくれた信頼に感激した。法廷をはさんでお互いの顔を見つめあい、二人とも泣き出してしまった」
税関との示談で、即金で1万5000ポンド、その後3年間の分割払いで4万5000ポンドを支払うことになりました。脱税額のちょうど3倍です。
この経験がブランソンさんの価値観を根底から変えました。「人生で最も大切なのは自分の評判である、と両親はいつもいい聞かせていた」——その言葉が独房の夜に初めてリアルな重さを持って響いたのです。
マナーハウスとチューブラー・ベルズ
ロンドンから離れた田舎の家でのんびりレコーディングできる環境があれば、もっといい音楽が生まれるはずだ——そう考えたブランソンさんは、1971年、レコーディングスタジオに改造できそうな館を探し始めます。
雑誌「カントリー・ライフ」でオックスフォードから北に8キロのシプトン・オン・チャーウェルという村にあるマナーハウス(庄園領主の館)を発見。内見に行くと、夕方の太陽に光る黄色がかったコッツワルド石でつくられた17世紀の館がありました。売値は3万5000ポンドでしたが、すぐに買ってくれるなら2万ポンドでいいと不動産屋が合意しました。
スーツと黒い靴でクーツ銀行に出向き、2万ポンドのローンを取得。父の勧めでジョイス叔母さんに相談すると、彼女は自宅を担保に入れて不足の7500ポンドを融通してくれました。
「このマナーハウスのことは聞いているわ。クーツ銀行がいくらか貸してくれたっていうじゃない。でも、まだ足りないでしょ。それじゃ、私が不足額を埋めてあげましょう」
ブランソンさんはこの申し出に感激し、心の中で誓いました。「何が起ころうと、このお金に利子をつけて必ず返そう」
館の離れをスタジオに改造したある日、1台のヴァンがやってきました。バンドのバック演奏のためにロンドンからきた若い作曲家と、フォーク・ソングを歌う彼の妹が乗っていたのです。マイク・オールドフィールドとサリー・オールドフィールドでした。
マイク・オールドフィールドのマナーハウスでのレコーディングが「チューブラー・ベルズ」として結実し、ヴァージン・レコード初の作品として発売されると大ヒット。ブランソンさんは後に「七〇年代に最高の富をもたらしてくれたアーティスト」と振り返っています。
ヴァージン航空の誕生——反対を押し切った航空会社設立
レコード事業が軌道に乗るなか、1984年にブランソンさんは突拍子もない決断をします。航空会社の設立です。
社内の誰もが反対しました。なかでもビジネスの相棒だったサイモンは「一緒に築いてきたすべてを新しいベンチャーに賭けるのは狂気の沙汰だ」と思っていたといいます。
最初に設立されたヴァージン・アトランティック航空は、格安ではなく「最高のサービスを手頃な価格で」を目指しました。全座席にシートバックのビデオを装備するというアイデアが資金不足で壁にぶつかったとき、ブランソンさんは思い切った賭けに出ます。ボーイング社のフィル・コンデュイット会長に電話し、「もしも747-400を10機購入したら、エコノミークラスにもビデオを無料でつけてくれるか」と尋ねたのです。不況下で飛行機を10機注文してくる男の出現に会長は驚き、すぐに合意しました。さらにエアバス社に同じ質問をして同じ返答を得た結果、1000万ポンドを借りるよりも新しい18機の飛行機を購入するために40億ポンドを借り入れる方が容易だということが分かったのです。
「突然ヴァージン・アトランティック航空は、業界で最新鋭の飛行機を、空前絶後の安い値段で購入することができた」
BAとのダーティ・トリックス
ヴァージン・アトランティックが成長するにつれ、英国航空(BA)との対立が激化しました。BAは組織的にヴァージンの乗客に電話をかけてBAへの乗り換えを説得したり、空港ターミナルでヴァージンの乗客に近づいて乗り換えを促したりしていました。
「BAの社員がヴァージン・アトランティック航空の客の自宅に電話をして、ヴァージンからBAにフライトを変更するように説得したという二つのレポートを受け取った」
この「ダーティ・トリックス」に対して、ブランソンさんは名誉毀損訴訟を起こします。
1992年1月、法廷での陳謝状朗読。BAのロード・キングとコリン・マーシャル卿をはじめとする主人公たちは全員欠席していました。弁護士のジョージ・カーマンが和解文を読み上げると、法廷内に突然のざわめきが起きました。
「BAとロード・キングはリチャード・ブランソンに賠償金50万ポンド、ヴァージン・アトランティックに賠償金11万ポンドを支払うものとする」
大衆紙サンの見出しは「ヴァージンがBAをヤッちまった!」でした。父の頬に涙が伝わるのを見たブランソンさんは、「喜びに跳び上がるのを我慢しながら、古い樫のテーブルの下でこぶしを握りしめていた」といいます。
そして、自分に与えられた50万ポンドの賠償金を、ヴァージン・アトランティックの社員全員と分かち合うことを決めました。「彼らは、BAが与えたプレッシャーによって、減給やボーナス減額などの形で、全員被害を受けていたからだ」
リチャード・ブランソンさんのこだわり
本書には、ブランソンさんの人となりを示すこだわりがいくつも描かれています。
気球冒険:大西洋横断・太平洋横断・世界一周挑戦と、ブランソンさんは繰り返し気球の極限冒険に挑みました。太平洋横断の際には、パル・リンストラントが海に落ちて2時間アイルランド海で泳ぎ続けるという瀕死の経験を経て横断を達成。世界一周挑戦では本書の冒頭にある通り、アルジェリア砂漠への不時着を経験しました。「もう二度とやるまい」と誓いながら、「自宅に戻ってこれから世界一周を試みようとしているほかの気球冒険家と話をしたとたん、最後にもう一度やってみたい、といいだすに違いない」と自己分析しています。
ネッカー島:本書の中でフォーチュン誌が「ネッカー島で浮かぶデッキチェアーに座ってくつろいでいる」ブランソンさんの写真を掲載した場面があります。英領ヴァージン諸島に位置するこの私有島は、ブランソンさんの隠れ家として知られています。
ハウスボート生活:ブランソンさんはリトル・ヴェニスのアルベルタ号という船に住み、のちにデュエンデ号に移ります。事業の苦境のさなかにも、ジョーンと子どもたちとハウスボートで暮らしながら仕事をするという生活スタイルを続けました。
社員との食事とパーティー:「私はヴァージンの社員にはいつでも楽しんで欲しいと思っている。それで、自分が先頭を切って馬鹿な真似をして、パーティーの雰囲気を盛り上げようとするのだ」と本書に書かれています。ヴァージン・ミュージック売却後の勝利の夜も、ホランド・パークの本社でパーティーを開き、BAに勝訴したその日に社員全員と喜びを分かち合いました。
「楽しさ」の経営哲学
1992年、ヴァージン・ミュージックをソーン・EMIに5億ポンド超で売却し、BAとの訴訟にも勝利して、ブランソンさんはヴァージンの歴史で初めて「潤沢な資金」を手にします。
引退することも可能でした。しかしブランソンさんにはそれができませんでした。
「周囲の人々は私に尋ねる。『なぜ人生をもっと楽しまないのですか』しかし、彼らは的を外している。私にとって、これが楽しみなのだ。私のビジネスをしたいという意志の根幹には『楽しさ』があり、それが私が初めからやってきたことのすべての核心をなしている。他のどのような要素よりも、『楽しさ』がヴァージンの成功の秘密である」
ビジネスの哲学についてブランソンさんは、教えることを拒みます。
「ビジネス哲学について尋ねられるが、それは料理のレシピのように教えられるとは思わないので、私はいつも規定しないようにしている。成功を約束する要素や技術はこの世に存在しない。ビジネスの存続を保証するパラメーターは存在するが、ビジネスの成功を明確に保証したり、その手法を香水のように瓶詰めにすることはできないのだ」
「会社というものは絶対に静止していない。それはいつでも変化し、定義できないものだ」——そう断言するブランソンさんにとって、ビジネスとは常に流動する冒険そのものでした。
脱税で逮捕されたドーヴァーの独房から、世界を股にかけるヴァージン帝国の創業者へ。その軌跡を読み進めるうちに、ひとつのことが浮かびあがってきます。ブランソンさんが「楽しさ」と呼ぶものは、単なる娯楽ではなく、困難にぶつかるたびに創意工夫を引き出す燃料だったのだということです。
📚 ヴァージン——僕は世界を変えていく(リチャード・ブランソン著、阪急コミュニケーションズ)を読んでみる
参考文献:リチャード・ブランソン著・植山周一郎訳『ヴァージン——僕は世界を変えていく』(阪急コミュニケーションズ)

