ビジネスの教訓や気づきを得られる社長本まとめ

似鳥昭雄さん|ニトリ創業者が「劣等生」から28期連続増収増益を達成した経営哲学7選

似鳥昭雄さん|ニトリホールディングス社長の経営哲学

小学校のクラスで、自分の名前を漢字で書けなかったのは似鳥昭雄さんだけだった。

通信簿は5段階の1か2ばかり。あまりの悪さに恥ずかしくなり、母に「1が最高で5が最低」と嘘をついた。それが長い間ばれなかった。母は井戸端会議で「うちの子は1とか2ばっかりで優秀なんだ」と自慢していたという。

高校入試は全滅し、広告会社では営業ノルマをまったく達成できずにクビ。留置所に入れられ、宿舎の火災で仕事を失い、23歳で「食べていくため」に家具店を始めた。

そのニトリが2015年2月期、28期連続の増収増益を達成しました。

「成功の秘訣は何ですか」と聞かれると、似鳥さんはいつも同じように答えます。「ロマンとビジョンを掲げ、他社より5年先をゆく経営を続けてきた結果です」と。

似鳥昭雄さんの自伝的回顧録『運は創るもの』をもとに、その経営哲学7つを解説します。


似鳥昭雄さんの基本プロフィール

項目内容
氏名似鳥昭雄(にとり・あきお)
生年1944年(樺太生まれ)
経歴北海学園大学卒→広告会社クビ→1967年ニトリ1号店創業
主な実績28期連続増収増益、ニトリを国内最大のホームファニシングチェーンへ
座右の哲学「短所あるを喜び、長所なきを悲じめ」「ロマンとビジョン」
こだわり飲みニケーション、カラオケ、釣り、漫画
ゆかりの地樺太(生誕)、札幌(創業)、函館(成長の転換点)、アメリカ西海岸(覚醒の地)

「頭が悪いから、人のやらないことをやるかだ」——父の言葉が原点

この本を読んで最初に驚くのは、似鳥さんの幼少期の過酷さです。

1944年、樺太生まれの開拓民4代目。戦後引き揚げで函館から札幌へ。一家が住んだのは廊下が土のむき出し、雨漏りのひどい引き揚げ者住宅でした。

父はシベリアから帰国後に大工の修業を始め、母はヤミ米屋で家計を支えました。ヤミ米の配達は幼い似鳥さんの仕事で、冬の吹雪の中、馬ぞりが溝に落ちて凍え死にそうになったこともあります。

学校ではつぎはぎだらけの服を的にしたボール当てをされ、「ニタリくん」と呼ばれてからかわれました。勉強も「のみ込みが悪く、先生の言うことが頭に入ってこない」状態が続きました。

そんな似鳥さんに父親がかけた言葉が、後の経営哲学の原点になります。

「おまえは頭の悪い人間が結婚して生まれた子だ。だから勉強ができないのは当たり前だ。だから人より努力するか、人のやらないことをやるかだ」

賢くないから、あれこれリスクを考えずに突っ走ることができた——。後年の似鳥さんはそう振り返っています。


経営哲学①|「ゴールから逆算せよ」——中学の先生の一言が経営を変えた

本書には、似鳥さんの経営哲学の根幹を形作った一言が記されています。中学時代のこと、チョークを投げつける厳しい数学の先生がある日、授業の中でこう語りました。

「人間はいつ死ぬか分からない。やりたいことをやって、思い残すことはないように。そのときは肉親にも、後悔していないから悲しまないでと言えるような人生であってほしい」

似鳥さんはこの言葉に深く感動し、ずっと覚えていました。後に中学の先生のこの一言が「ゴールから今のありようを考える」という経営の原理原則につながっていったと書いています。

死を見つめることから逆算する——。1979年、ニトリはその原則に則り、「30年後の2002年に100店・1000億円を達成する」という途方もない30年計画を立案します。当時の店舗数はわずか7店、年商30億円にも満たない時代です。

「まず葬式はカラオケ大会にしてほしい」と家内に伝えていること、後継者を50代から決めていること、自分が死んでも大丈夫なように対策を講じていること——これらすべて、中学の先生の言葉から始まった「ゴールから逆算する」姿勢の表れです。


経営哲学②|アメリカ視察で覚醒——「日本に豊かな生活を実現したい」

ニトリ1号店を開業した1967年、似鳥さんは27歳のとき最大の転機を迎えます。2号店の出店後、大型競合店が近くにできて売上が急落。倒産寸前の窮地に追い込まれ、「鬱状態になり、死ぬことばかり考えていた」というほどの危機でした。

そんな折、家具業界のコンサルタントから米国視察セミナーの話が持ちかけられます。費用は40万円。苦しい懐事情でしたが、「わらにもすがる気持ちで」参加を決めました。

ハワイ経由でアメリカ西海岸に降り立った似鳥さんが見たのは、日本とまったく異なる家具の世界でした。品質も機能も素晴らしく、色とデザインがしっかりコーディネートされている。そして何より——米国の家具の価格は日本の3分の1でした。

「日本でも米国の豊かさを実現したい。自分の力で給料を3倍にすることはできないが、価格を3分の1に下げることはできるかもしれない」

この瞬間、ぶつぶつと湧いてきた言葉が、ニトリの根本的なロマンになりました。これまでの悩みがちっぽけなものに思えてきた。帰りの機内で決意表明をメモ書きしたといいます。

参加者は50人以上いましたが、実行に移したのは似鳥さんだけでした。


経営哲学③|渥美俊一先生との出会い——「ゴルフはするな、趣味は持つな」

1978年、似鳥さんはチェーンストア理論の権威・渥美俊一先生が主宰するペガサスクラブに加盟します。この出会いが、個人商店の延長だったニトリを本格的なチェーンビジネスに変えていきました。

渥美先生の教えを「人生をかけるに値する」と信じ、忠実に経営に生かした——。似鳥さんはそう語っています。

「他社より5年先をゆけ」「状況が悪いときに撤退する勇気を持たないから、会社はダメになる」「スカウトしないで急成長した会社はない」——先生の言葉はどれも、後のニトリの経営判断に直接的な影響を与えました。

そして最も有名な至言が「ゴルフはするな、趣味は持つな」です。本書には「守れていない」と正直に告白されていますが、先生の意図はひとつの仕事に集中しつつも人間として幅を持てという精神でした。

渥美先生は2010年に亡くなられましたが、似鳥さんはその後、先生の代官山の自宅を購入して「渥美俊一記念館」を開設しています。「渥美先生なしでは私の成功はなかった」と書かれた言葉は、本書の中でも特に印象的です。


経営哲学④|「短所あるを喜び、長所なきを悲じめ」——接客が苦手だから大きくなれた

似鳥さんが好きな言葉として本書で繰り返し登場するのが、「短所あるを喜び、長所なきを悲じめ」という言葉です。

1号店を開業した当初、似鳥さんは極度のあがり症で、接客がまともにできませんでした。緊張して体が固まり、汗が噴き出て、初対面の客とまともに商談ができない。広告会社でも営業ノルマをまったく達成できずに解雇された人物です。

ところが、8回目のお見合いで出会った妻の百百代さんが商売上手でした。百百代さんが販売担当として店に立つようになると、1年目に年間売上高が1000万円に達し、2年目には1500万円に伸びました。

「もし私が販売上手だったら、ただの優良店で終わっていたかもしれない」と似鳥さんは書いています。苦手な販売を妻に任せ、自分は仕入れ・物流・店作りに集中したこと——この役割分担こそが、ニトリを企業として羽ばたかせる原動力になりました。

「上司がするべきことは部下の欠点を見つけることではない。長所を見つけて、伸ばしてあげ、それに適した仕事を探すことだ」——自分の弱みを認め、他者に任せる謙虚さが、似鳥さんの経営を支え続けました。


経営哲学⑤|30年計画の力——「ゴールから物事を考える先制主義」

1979年、ペガサスクラブに加盟した際、渥美先生から「もっと大きな計画にしろ」と言われた似鳥さんは、「100店・1000億円」という30年計画を立案します。起点は多店舗化を決めた1972年。30年後の2002年を達成の時期と定めました。

当時の年商は30億円にも満たない規模です。社員を含め、誰も本気にしていませんでした。

しかし、この計画はニトリを根本から変えます。採用活動でも「いずれ100店を作り、売上高を100億円にする」と大風呂敷を広げてロマンとビジョンを語ると、触発された学生が15人入社しました。そのうちの1979年入社組は「花の4期生」と呼ばれ、その後のニトリ成長の中核となります。

30年計画は2003年、1年遅れで達成されました。現在ニトリは次の30年計画として「2032年までに3000店・3兆円」を掲げています。計画を立てることが、そこへ向かう人材と組織を引き寄せる——それが似鳥さんの確信です。

「ゴールから物事を考える先制主義」として本書で語られるこの思想は、事業だけでなく採用・海外進出・後継者育成まで、あらゆる判断の土台になっています。


経営哲学⑥|日本初の家具専用自動倉庫——「日産自動車からヒントを得た」

1980年、似鳥さんは日本初となる家具専用の自動立体倉庫を札幌市手稲区に完成させます。きっかけは関東にある日産自動車の工場見学でした。

高層の構造物の中を部品が上から下へ、下から上へと流れる倉庫を目の当たりにして、「これを家具の倉庫に使えないか」とひらめいたのです。

平屋の倉庫では従業員が行き来するだけで時間と人件費がかかります。自動倉庫にすれば電気代だけで済む。「我ながらいいアイデアじゃないか」と一人ほくそ笑んだ——と本書には書かれています。

社内の反応は「札幌の田舎にそんなものを作ってどうするんだろう」と不思議がられました。それでも機械メーカーのダイフクと共同開発を進め、6階建ての施設を実現させます。

この自動倉庫が稼働するとメーカーからのまとめ買いが可能になり、低価格化と出店拡大に大きな力を発揮しました。82年には年商50億円を突破します。他業界の技術や仕組みから自社の課題解決のヒントを探す——「他社より5年先をゆく」姿勢が、この発想を生みました。


経営哲学⑦|「運は創るもの」——80%の運は経験と挑戦から醸成される

本書のタイトルである「運は創るもの」について、似鳥さんはこう書いています。

「ここまでニトリを成長させることができたのは80%が運だと思っている。だがそれは偶然の産物ではない。運は、それまでの人間付き合い、失敗や挫折、リスクが大きい事業への挑戦など、深くて、長く、厳しい経験から醸成される」

本州進出を決断してバブル期に4億円の違約金を払ったこと、スカウト組の役員に実権を奪われかけたこと、母や兄弟から遺産相続の裁判を起こされ「生涯で最もつらい記憶」と語るほどの経験——。

しかし似鳥さんは、これらの挫折をすべて「運を創る材料」として受け止めてきました。「仕事で失敗したり、思うような結果を出せなかったりすると、人は『私は運が悪い』と考えがちだ」と書きながらも、運は待つものではなく自ら醸成するものだと説いています。

「愛嬌と度胸」——本書の後半でこの言葉が繰り返されます。困難な状況ほどリーダーにはユーモアが必要で、自分で楽しみ周りを盛り上げることが子どもの頃からの姿勢だと語っています。いつでもバカになれることも、似鳥さんの大切な持ち味なのです。


似鳥さんの失敗談|「幻の1期生」と、覚えていない大失敗の連続

この本には、恥ずかしい失敗談がいくつも書かれています。中でも社長自身が「本当は書きたくなかった」と感じたであろうエピソードが、社員採用に関するものです。

1975年、大卒定期採用を初めて実施し、7人を採用しました。しかし「甘やかすと経営が安定しない」と考えた似鳥さんは、週1回の休みに工場見学という名の重労働を課し、低賃金で働かせました。

結果、7人全員が辞めてしまいます。この代は「幻の第1期生」と呼ばれ、「当時のニトリはブラック企業と呼ばれてもおかしくなかった」と本書では率直に認めています。

その後は休日を増やし、賃金も上げ、ようやく人材が定着するようになりました。「優秀な人材を集め、使うしかない」という父の言葉通り、人への投資こそが成長の鍵だという確信は、この失敗から強まっていきました。


似鳥さんのこだわり

この本には、似鳥さんの人となりが伝わる習慣やこだわりがいくつか記されています。

漫画:授業中はろくに聞かず、漫画ばかり描いていた似鳥さん。「まずまずうまかった」とあり、友人から好きな漫画を拡大して描くように頼まれるほどでした。下手な勉強より面白いことを探し続けた子どもの頃の姿勢が、後に「周囲を笑わせる快感」「愛嬌と度胸」という似鳥さんの持ち味につながっています。

飲みニケーション:「夜中3時前に帰るのは男じゃない」と放言するほどの飲み歩き派です。本社屋上で毎月ジンギスカンパーティーを開き、社長自ら参加します。社員1人あたり5000円の会費を会社が負担し、ときには家族連れも交える。「コミュニケーションの投資は教育投資と同じだ」という信念から来ています。

釣り:本書の写真では社員と小樽でカレイ釣りをする似鳥さんの姿が確認できます。アラスカへ仕入れ出張に出た際は、休日に水上飛行機で氷河を越え、鮭の入れ食いを楽しみました。引きが強すぎて海まで引きずられそうになり、現地ガイドに助けてもらったというエピソードも本書に記されています。渥美先生とカナダでサーモン釣りをした思い出も、大切にしています。


似鳥さんゆかりの地

札幌市北26条西5丁目(ニトリ1号店):1967年12月、父が経営するコンクリート会社が所有していた30坪の土地・建物に「似鳥家具卸センター北支店」を開業しました。「卸」は安いイメージ、「センター」は大きいイメージ、「北支店」は本店がある印象を与えるための嘘3点セット——その浅知恵も甚だしいと本人が笑いながら振り返るこの小さな店が、すべての原点です。

アメリカ西海岸(覚醒の地):1972年の視察ツアーで似鳥さんが訪れた場所です。「米国の家具は日本の3分の1の価格」という発見が、「日本に豊かな生活を実現したい」というロマンを生みました。以来、毎年社員800人以上を同じ地に連れて行き、自らも参加しています。「鉄は熱いうちに打て」として、入社2年目の社員に必ず体験させています。

函館(成長の転換点):11店目となる函館店(1983年)の出店交渉は難航を極め、地主から何度も断られました。粘り強い交渉の末に開業した函館店の年間売上高は目標の2倍の12億円を達成し、経常利益率5%を初めて超えます。資金繰りが一気に好転したこの成功が、ニトリの本格的な全国展開への自信を生みました。


似鳥さんから学ぶ、経営者への3つの教訓

1. 短所を「武器」に変える視点を持つ 似鳥さんは接客が苦手だったからこそ、妻に任せて仕入れ・物流・店作りに集中できました。勉強が苦手だったからこそ、賢い人材を集めることを徹底しました。「短所あるを喜び、長所なきを悲じめ」——できないことに嘆くより、できないからこそ開く道があると信じることが、逆転の出発点になります。

2. ロマンとビジョンこそ最大の採用ツール 「いずれ100店を作る」と語ったことで、1979年に花の4期生が入社しました。ロマンとビジョンは経営計画である前に、一緒に働きたい人間を引き寄せる磁石です。数字の裏にある「なぜ」を語れるかどうかが、組織の熱量を決めます。

3. 運は偶然ではなく、醸成するもの 28期連続増収増益は奇跡ではありません。失敗して立ち直り、人と付き合い、リスクを取って挑戦し続けた積み重ねの結果です。「運が悪い」と嘆く前に、自分の失敗と挫折が運を醸成する素材であることに気づけるかどうか——似鳥さんが本書を通じて最も伝えたいことは、ここにあるように思います。


この記事で語りきれなかった似鳥さんの魅力

本書には、まだ語りきれないエピソードがあります。

倒産寸前の危機に参加した米国視察のツアーで、シアーズの店長による講義を聞いているうちに眠ってしまい、目が覚めると誰もいなかった——「このままのたれ死ぬのではないか」と本気で不安になったというエピソード。覚醒の旅にそんな裏話があったとは、と思わず笑ってしまいます。

また、「夜中3時前に帰るのは男じゃない」と豪語していた時期、刑事2人に半年間も尾行されたこと。銀行口座まで調べられ、ようやく「シロ」と認定された後、刑事が「ああいう噂はだいたい当たっているのだが、珍しいことだ」と首をかしげたというエピソードも記されています。

そして2009年に200店を達成した際、渥美先生が「まだまだ半人前です。1人前は500店です」と語った記念パーティーで、似鳥さん夫婦が涙を流した場面——。劣等生と言われ続けた人物が、師匠に認められた瞬間の重みが伝わります。

📚 運は創るもの(似鳥昭雄著、日本経済新聞出版社)を読んでみる


まとめ|似鳥昭雄さんが教えてくれること

通信簿は1か2ばかりで、自分の名前を漢字で書けなかった。営業はまったくできず、クビになり、留置所にも入った。23歳で食べていくために始めた家具店が、28期連続増収増益の企業になりました。

「逆に何もできないから、色々な人の力を借りながら成功できた」——これは謙遜ではなく、本書を通じて伝わってくる事実です。

「短所あるを喜び、長所なきを悲じめ」「ロマンとビジョン」「運は創るもの」——似鳥さんの言葉は、才能がないと思い込んでいる人ほど深く刺さります。

ゴールから逆算し、他社より5年先をゆき、失敗しても忘れっぽい性格で前に進む。それが、似鳥昭雄さんの人生の姿でした。


参考文献:似鳥昭雄著『運は創るもの』(日本経済新聞出版社)