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「めざしているのは、零細企業や中小・中堅企業ではない。兆円企業をつくるのだ」
1973年7月、京都の染物屋の一階を間借りした30坪の工場。中古の旋盤と研磨機だけが置かれた粗末な作業場に、たった4人で集まった若者たちがいました。その創業者は28歳。資金も実績も知名度もなく、銀行には「大ボラ」と笑われ、家族にも猛反対された男でした。
しかし、その宣言は本物でした。
それから50年あまり、日本電産(現ニデック)は世界300社以上のグループ企業を擁し、従業員11万人を超える「世界一の総合モーターメーカー」へと成長しました。売上高は創業時の目標だった1兆円をはるかに超え、2兆円の大台へ。かつて「大ボラ」と言われた夢は、すべて現実になりました。
その男の名は、永守重信さん。1944年、京都の貧しい農家の末っ子として生まれました。
永守さんの経営哲学は、難解な理論とは無縁です。
「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」。この9文字に、すべてが凝縮されています。
華々しい学歴も、豊富な資金も、業界の後ろ盾もなかった男が、なぜ世界一になれたのか。著書『成しとげる力』をもとに、7つのポイントで解説します。
目次 表示
- 永守重信さんの基本プロフィール
- 貧しさと「一番」への執念|母が植えた反骨心
- 社長になりたいと思った日|チーズケーキとステーキの衝撃
- 経営哲学①|「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」
- 経営哲学②|一番以外はビリ|なぜ「一番」にこだわり続けるのか
- 経営哲学③|困難は必ず「解決策」を連れてやってくる
- 経営哲学④|「歩を金にする」人材育成
- 経営哲学⑤|単身アメリカへ|「必ずやる」で世界市場をこじ開けた
- 経営哲学⑥|先憂後楽|苦労に飛び込め、人生はサインカーブだ
- 経営哲学⑦|120歳まで生きる|学歴社会に風穴を開ける挑戦
- 永守さんの失敗談|山で倒れた教訓
- 永守さんのこだわりグッズ
- 永守さんゆかりの地
- 永守さんから学ぶ、経営者への3つの教訓
- この記事で語りきれなかった永守さんの魅力
- まとめ|永守重信さんが教えてくれること
永守重信さんの基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 永守重信(ながもり しげのぶ) |
| 生年月日 | 1944年 |
| 出身地 | 京都府(農村) |
| 学歴 | 職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校) |
| 創業年 | 1973年(日本電産、28歳のとき) |
| 業種 | 精密小型モーター(製造業) |
| 趣味 | ひまわりの鑑賞、トレーニング、山登り(過去) |
| こだわり | ネクタイは緑色のみ(2000本目標)、毎朝5時50分起床 |
| 座右の銘 | 「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」「一番以外はビリ」 |
| ゆかりの地 | 京都市(日本電産本社・創業の地)、京都先端科学大学 |
| 尊敬する経営者 | 稲盛和夫さん(京セラ創業者)、立石一真さん(オムロン創業者) |
貧しさと「一番」への執念|母が植えた反骨心
永守さんは6人きょうだいの末っ子として生まれました。父は農家でしたが自作地がわずかしかなく、リヤカーで野菜を売って生計を立てる貧しい暮らしでした。中学2年生のとき、その父が亡くなります。
中学では3年間首席を通しましたが、高校進学さえあきらめかけていた永守さんを救ったのは、担任教師の熱心な働きかけでした。奨学金を得て高校の電気科に進んだものの、学費と小遣いは自分で稼がなければなりません。そこで自宅の6畳間を改造して学習塾を開きます。生徒は最終的に80人以上に膨れあがりました。
そんな永守さんに「一番をめざせ」「一番以外はビリだ」と叩き込んだのが、お母さんでした。
子どものころ、友達とのけんかに負けて泣きながら帰ると、お母さんは慰めるどころか「もう一回けんかしてきなさい」と尻を叩いた。相手は年上で体も大きい、と泣いて訴えても聞く耳をもたず、「戦利品」を見せるまで納得しなかったといいます。
「努力は絶対に人を裏切らない」。この信念はお母さんの背中から学んだものでした。
創業の際にいちばん反対したのも、このお母さんでした。しかし永守さんが熱く訴えると、最後にこう言って折れたのです。「どうしてもやるというのなら、人の倍働くと約束してくれるか」。この約束は、以来半世紀にわたって守り続けられました。
社長になりたいと思った日|チーズケーキとステーキの衝撃
永守さんが「将来は社長になる」と決意したのは、小学校3年生のときです。
近所に、朝鮮特需で裕福になった同級生の家がありました。その家に招かれた永守さんは、子ども部屋のドイツ製鉄道模型に目を奪われ、「チーズケーキ」という初めて食べるものに驚き、台所から漂ってくる「ステーキ」の香りに衝撃を受けます。
「お父さんは何をしているの」と聞くと、「会社の社長だ」という答えが返ってきました。
その瞬間に永守さんの心に芽生えたのが「将来は社長になる」という思いでした。担任の先生には作文を見るたびに大笑いされましたが、その夢が色褪せることはありませんでした。
経営哲学①|「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」
日本電産の三大精神の筆頭に掲げられてきた言葉です。
創業まもない頃、永守さんは仕事を求めて営業に回ります。しかし聞いたこともない零細企業に注文を出す会社はなく、「無理難題」を押しつけて断らせようとする会社も出てきました。
「いまの製品より重さ半分でパワーは倍、消費電力も半分にできますか」
普通の会社なら断るような依頼でした。しかし永守さんは「ありがとうございます」と言って、大手メーカーが二の足を踏む仕事ばかりを引き受けていきます。会社に戻って4人で夜を徹して図面を引く。明け方まで試作を繰り返す。そうして完全には届かなくても、大幅な技術的進歩を遂げた試作品を持ち込むと、発注元は「すごい、大手に断られた仕事なのに」と驚いて、すぐに注文をくれました。
永守さんが無理難題を引き受けるたびに仲間に呼びかけたのが、「これから一緒に『できる、できる、できる』と百回言おう」でした。五百回を超える頃から「何となくできるような気がしてくる」から不思議、と永守さんは振り返ります。
スピードもまた、この哲学の核心です。
M&Aで傘下に入った会社で、永守さんが電話で幹部を呼んでも5〜10分経ってようやく現れる。日本電産では1分以内に廊下を駆けてくるのが当たり前。この差だけで、その会社は100億円の赤字を抱えていました。
経営哲学②|一番以外はビリ|なぜ「一番」にこだわり続けるのか
「一番以外はビリと同じ」という言葉を、永守さんは半世紀言い続けてきました。
オリンピックの100メートル走で金メダルと銀メダルの記録差は0.01秒。しかし、金メダリストの国歌が流れる表彰台で銀メダリストは一段低いところに立ち、その映像は世界中に中継されます。
ビジネスも同じです。シェア1位が全体の利益の6割以上を持っていく時代に、2位では生き残れても3位以下は赤字——そういう世界が現実になっています。
「一番をめざすとき、人はもてる能力を最大限に発揮することができる」と永守さんは言います。日本電産が進出先を深圳ではなく大連にしたのも、ベトナムへ誰よりも早く乗り込んだのも、「一番で参入する」という一貫した戦略でした。
ただし、すべてに一番である必要はありません。価値のないものは「いっそビリでもかまわない」というのも永守さんの流儀。ゴルフを例にとり、「ゴルフが上手で会社を大きく成長させた経営者には、ついぞお目にかかったことはない」と言い切っています。
経営哲学③|困難は必ず「解決策」を連れてやってくる
2008年のリーマン・ショック。日本電産グループの売上はピーク時の半分以下、一部の会社では5分の一にまで落ちました。
そのとき永守さんが向かったのは、図書館でした。「百年に一度の危機」と評される事態に、百年前の世界大恐慌の事例を片っ端から読み込んだのです。日本語の本のみならず、辞書を片手に英語の本も。そして危機を乗り切った企業の成功要因を分解・再構成し、独自の解決策を見出しました。
どこよりも早く全グループ社員の賃金カットを断行。労働組合にも自ら状況を説明し、「リストラはしない、雇用を守る」と約束して同意を得ました。結果、ほかの大手企業が軒並み大幅赤字に転落するなか、日本電産だけはわずかながら黒字を確保。翌年には最高益を更新しました。
業績回復後は、賃金カット分に利子をつけて社員に返しています。
「困難さんは必ずポケットの中に解決策を忍ばせてやってくる。だから真正面から対峙し、解決策を奪取するのだ」——この言葉は単なる精神論ではなく、永守さんが幾度もの修羅場で実証してきた確信でした。
経営哲学④|「歩を金にする」人材育成
創業当初は有名大学の学生など来てくれませんでした。そこで永守さんは考えます。将棋の「歩」が敵陣で「と金」になるように、「歩」の人材を育てて「と金」にしよう、と。
そこから生まれたのが「大声試験」「早飯試験」「早出社試験」という型破りな採用選考でした。大きな声で文章を読めた人から順番に採用。弁当を早く食べ終わった人を採用。試験会場に早く来た順に採用。
「声が大きく、飯が早く、早く出社する人が仕事もできる」という経験則に基づいたもので、こうして入社した社員たちが後に日本電産の根幹を支える人材に育っていきました。
永守さんは学歴ブランドを信じません。「一流大学出身者は与えられた仕事はこなすが、指示待ち族が多い。むしろ何か一つに打ち込んできた”とんがり人間”のほうが、仕事の場では頭角を現す」と明言しています。
M&Aで傘下に収めた会社でも同じ。経営陣の入れ替えも社員解雇もしない。「どんな人材でも磨けば光る」という確信のもと、働く人の「意識」を変えることだけに集中する。昼食懇談会をポケットマネーで50回以上開き、1年間で黒字転換した会社もありました。
経営哲学⑤|単身アメリカへ|「必ずやる」で世界市場をこじ開けた
日本の系列文化の壁に阻まれた永守さんは、アメリカに活路を求めます。「実力さえあればチャンスをくれるはずだ」と信じ、単身ニューヨークへ渡り、空港に着くなり電話帳を開いて企業に電話をかけ続けました。
大手メーカー3M社の技術部長に「性能を落とさずどこまで小さくできますか」と聞かれ、「3割小さくします」と即答。帰国後は工場に何日も泊まり込み、半年後には約束通りのサンプルを完成させました。3M社の技術部長は目を見開いて「本当に作ったのか」と驚き、その場で1000個の注文をくれました。
この受注で日本電産の評価は急上昇し、日本企業からも注文が入るようになります。「チャンスが来たとき、できるかどうかではなく、とにかく約束する。そして必ずやる」。これが世界市場への扉を開きました。
経営哲学⑥|先憂後楽|苦労に飛び込め、人生はサインカーブだ
「人生はよいことと悪いことが交互に来るサインカーブだ。苦しいあとには必ず喜びがやってくる」——これはお母さんから幼いころに聞かされた言葉で、永守さんの人生観の土台になっています。
2011年のタイ大洪水では、現地工場が未曾有の被害を受けました。堤防が決壊し、日系企業に避難命令が出たとき、永守さんは「逃げるな」と命じます。
社員たちは水浸しになった自宅から出社し、軍の筏と遊覧船をチャーターし、潜水士を雇って機械を引き揚げました。炎天下、泥水の異臭が漂う環境のなか全社員が一丸となって奮闘した結果、被災からわずか115日で工場が完全復旧。この奮闘は顧客からも高く評価され、HDD用モーターの世界シェアが8割にまで伸びました。
「苦労に飛び込んでこそ、本当の喜びを味わえる」。先憂後楽——先に苦しみを経験した分だけ、あとに大きな喜びがやってくる。
経営哲学⑦|120歳まで生きる|学歴社会に風穴を開ける挑戦
2018年、永守さんは74歳で京都学園大学(現・京都先端科学大学)の理事長に就任し、大学改革に乗り出します。M&Aで経営危機の企業を再建してきた手法をそのまま大学改革に応用したのです。
日本電産に300億円以上の私財を投じ、「偏差値重視・ブランド大学偏重」の教育に風穴を開けようとしています。英語で授業を行うEMI(English as a Medium of Instruction)を導入し、世界21カ国から留学生を集めました。
「こんないい時代はないぞ」と若者に語りかける永守さん。「学歴ブランド主義の時代は終わった。実力しだいで羽ばたける時代がようやく来た」。
本気で120歳まで生きるつもりだと公言しています。そのために自宅にトレーニングジムを設け、毎日1時間のトレーニングを欠かさず、お酒もタバコも一切やめました。
永守さんの失敗談|山で倒れた教訓
「いちばん後悔している失敗はありますか」と問われると、永守さんが語るのは山登りのエピソードです。
登山が好きだった若い頃、他の登山者を次々と追い抜いて先を急ぎました。しかし8合目で体力を使い果たし、一歩も動けなくなります。横になっていると、先ほど追い抜いた登山者のリーダーがわざわざ立ち止まり、「あそこで倒れている人は、ベースを守らずにどんどん登っていった人です」と後続者への教訓にしていきました。
恥ずかしさと悔しさが入り混じる体験でしたが、永守さんはこれを経営に活かしています。「自分の実力を正しく認識したうえで、小さな成功を積み重ねていく。走り高跳びで1.5メートルをクリアしたからといって、いきなり2メートルに挑戦するのは無謀だ」。
永守さんのこだわりグッズ
緑色のネクタイ:1944年生まれの「二黒土星」という星回りから、「土には緑が必要だ」という考えで緑色にこだわるようになりました。ネクタイは2000本を目標に収集中。カバン、カフスボタン、名刺入れまで緑で統一。日本電産のコーポレートカラーも緑、本社ビルのエレベーターまで緑です。
会社四季報:M&Aの研究のために愛読し続けた本。「次の買収対象はどこか」「自社に足りない技術をもつ会社はどこか」を常にシミュレーションしていたといいます。「私ほど会社四季報を読み込んだ経営者も少ない」と自認しています。
ひまわり:太陽に向かって座るのが習慣で「ひまわり君」というあだ名がつくほど。日本電産の本社1階ショールームにはひまわりの大きな絵が飾られています。ホテルも出張先では必ず南側の部屋を指定します。
永守さんゆかりの地
京都市南区|日本電産(ニデック)本社:創業時のプレハブ小屋が本社1階に移築・展示されています。「どこに行っても、ここを忘れるな」という精神の象徴です。1973年、6畳間で高らかに創業を宣言した地から、世界へ羽ばたきました。
京都府亀岡市・京都市右京区(太秦)|京都先端科学大学:永守さんが2018年から理事長として改革を進める大学。私財300億円以上を投じ、「偏差値重視の日本の大学教育に風穴を開ける」拠点として、世界に通用する人材育成に取り組んでいます。
永守さんから学ぶ、経営者への3つの教訓
1. スピードが命運を分ける 「すぐやる」が三大精神の筆頭にあるのは、それだけ理由があります。チャンスは一度しか来ない。決断から実行までのスピードの差だけで、赤字100億円が生まれた事例が永守さんには実際にあります。「先に来る普通電車に乗れ」。次の急行を待つ発想では、経営の荒波を乗り越えられません。
2. 人の意識を変えることが、最強の経営手段だ 永守さんのM&Aは、人を入れ替えない、辞めさせない。ただ「意識」だけを変える。どんな人材でも磨けば光るという確信が、傾いた企業を次々と再生させてきました。「歩を金にする」発想は、経営者だけでなくリーダーすべてに通じる哲学です。
3. 苦労はあとから必ず報われる——だから逃げるな タイ洪水でも、リーマン・ショックでも、永守さんは逃げませんでした。困難に飛び込んだからこそ、得られた信頼と成長がありました。「悪いことの次には必ずよいことがやってくる」。人生をサインカーブとして捉えるこの視点が、どんな逆境でも前に進む原動力になっています。
この記事で語りきれなかった永守さんの魅力
著書『成しとげる力』には、この記事では紹介しきれないエピソードがまだたくさんあります。
たとえば、アメリカで蕁麻疹になったとき、医師から授けられた「成功の秘訣」。救急搬送された病院で、医師から「どんなときでも『Fine!』と答えなさい。そうすれば明るい未来が見えてくる」と言われたエピソードは、思わず笑ってしまいながらも心に刺さります。
また、トランプ大統領(当時)を招いた財界懇談会で、粉ミルクのエピソードで爆笑をとった話。場を読み、笑いをとりながら信頼を勝ち取る「雑談力」が、実はビジネスの大きな武器になるという話は、永守さんの人間的な面白さがにじみ出ます。
さらに、「エジソンの時計には、なぜ針がなかったのか」というエピソード。発明王エジソンの研究室には針のない時計が飾られていた。その理由を知ったとき、「時間を忘れるほど没頭できなければ、世界レベルの仕事はできない」という意味が腑に落ちます。
創業から50年、壮大な夢を一つひとつ現実にしてきた永守さんの言葉には、読むたびに新しい発見があります。
まとめ|永守重信さんが教えてくれること
貧しい農村の末っ子から、世界一のモーターメーカーを作り上げた男。その道のりは、一度も平坦ではありませんでした。
しかし永守さんは言います。「人生はよいことと悪いことが同じだけやってくる。苦労に飛び込んでこそ、本当の喜びを味わえる」と。
すぐやる。必ずやる。出来るまでやる。
この9文字は、単なるスローガンではありません。28歳から半世紀にわたって、一日も休まず実践し続けた生き方そのものです。
参考文献:永守重信『成しとげる力』(サンマーク出版、2022年)

