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7000万円の借金、寝袋生活——銀行員だった男が「一杯のコーヒー」でタリーズを日本一にするまで

タリーズコーヒー創業者・松田公太さんの書籍『すべては一杯のコーヒーから』を紹介する記事のアイキャッチ画像

1997年8月、東京・銀座。

タリーズコーヒーの日本一号店がオープンした日の夜、店長も社員も帰宅した後、店内の地下に一人の男が寝袋を敷いていた。

松田公太、28歳。前年まで三和銀行のサラリーマンだった男は、その夜も横浜の自宅に帰れなかった。銀座の家賃は月120万円。毎月50〜60万円の赤字が続いていた。7000万円の借金。運転資金はほぼゼロ。コーヒーショップで働いた経験はゼロ。経営者としての経験もゼロ。

「相談できる相手がいるわけでもなく、助けてくれる人もいない。とにかく自分の頭で考え、自分を信じて、やれることを実行するしかなかった」

その言葉どおり、松田さんは歌舞伎座から出てくる観客の前を歩いては自分でタリーズに入り、客を誘い込んだ。三越の女子社員に手書きのビラを配りに行った。売れ残りのパンを朝昼2食食べ続けた。2カ月で体重が7キロ落ちた。

それが3年2カ月後、株式上場に結実した。

本書『すべては一杯のコーヒーから』は、松田公太さんが、セネガル・ボストンで育った幼少期から、銀行員時代、タリーズ創業、上場に至るまでを赤裸々に書き下ろした自伝です。「金なし、コネなし、経験なし」の元サラリーマンがなぜ成し遂げられたのか——その答えが、一杯のコーヒーとの出会いから始まる物語の中にあります。


松田公太さんの基本プロフィール

氏名松田公太(まつだ こうた)
生年1968年12月2日、宮城県塩釜市
学歴筑波大学国際関係学類卒業
経歴三和銀行(現三菱UFJ銀行)→1997年タリーズ銀座1号店開業
役職タリーズコーヒージャパン株式会社 代表取締役社長兼チーフバリスタ
主な実績設立から3年2カ月で株式上場(2001年7月)
著書『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫、2005年)

セネガルの海岸で食べたウニ、オランダで使い果たした小遣い

松田さんの原点は、幼少期の海外生活にあります。

水産会社に勤める父の転勤により、5歳でセネガルへ。その後10歳からボストン近郊のレキシントンという町で育ちました。異文化の中で育った経験が、後の「食を通じて文化の架け橋になりたい」という使命感を形成していきます。

セネガルでの記憶で印象的なのは、「食」の場面です。休日に海へ出かけた父が、天然のウニを見つけて食べさせてくれた。半信半疑で口にすると「うまい!」と声が出るほどの絶品でした。しかし地元の子どもたちには「虫みたいなものを食べてうまいのか」と顔をしかめられた。

逆に、セネガルの友人に祖母から送られてきた煎餅を渡すと、地面に捨てられてしまう。かりんとうは「動物のフンじゃないのか」と大騒ぎになった——。同じ人間でも、おいしいと感じるものがこんなにも違う。その経験が幼い松田さんに「日本の食文化を外国に伝えたい」という夢を芽生えさせていきました。

ヨーロッパ旅行の思い出も印象的です。旅行中、生まれて初めてもらった小遣い2〜3000円。弟はおもちゃを買って喜んでいたが、松田さんはオランダの市場でゴーダチーズを試食した瞬間に虜になり、すべてをチーズにつぎ込みました。自分の顔ほどもある大きなチーズの塊を3つも抱えて、車の中でも宿に着いてからも食べ続けた——。おもちゃより食べ物、甘いお菓子より本物の食材を選ぶ子供でした。


銀行員として学んだ「意思決定者に直接話す」

日本に帰国後、筑波大学に入学。体育会アメフト部で日本独特の上下関係を体感しながら、2度の靭帯断裂という大ケガも経験します。その後、三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行。新規外交(融資先企業を開拓する営業)を担当し、6年間で数百人もの経営者に会い、経営ノウハウを学んでいきました。

銀行員時代に磨かれたのが「意思決定権を持つ人に直接話す」という習慣です。

「融資先の社員からいくら好感触を得ても、その人が決定権を持っていなければ意味がない。人を介して話をしても、気持ちは半分も伝わらない」

この哲学が後のタリーズ創業で何度も松田さんを助けることになります。ただし、この頃はまだ「いつか起業できたら」というぼんやりとした夢しか持っていませんでした。人生を変える出会いは、1995年12月のボストン訪問で訪れます。


一杯のコーヒーが、人生を変えた

友人の結婚式に出席するためボストンを訪れた1995年12月。クインシーマーケットを歩いていると、昔なじみのレストランが消えており、代わりにコーヒーショップに行列ができていました。

「なあジェフ、アメリカ人って、コーヒー買うのにわざわざ行列する人種だったっけ」

言われてみると、1杯3ドル近い値段がついている。眠気覚ましに大量に飲むもの——コーヒーへのそれまでの印象が根底から覆されていきました。

「嫌な酸味がなくて、コクがある。コーヒーを飲んでおいしいと感じたのは、生まれて初めての経験だった」

それがスペシャルティコーヒーとの出会いでした。

日本に戻ってもコーヒーのことが頭から離れなかった松田さんは、4カ月後にシアトルへ飛びます。2日間で50店以上のコーヒーショップを回り、コーヒーを飲み続けた。胃がしめつけられるように痛んでも、「自分にとっては人生を賭けた味見なのだ」と手を抜かなかった。そしてその50店の中で、最も素晴らしいと感じたのがタリーズでした。


週1回のメールから、帝国ホテルへの「突撃」

シアトルから帰国した松田さんは、深夜、銀行の仕事を終えてから毎晩パソコンに向かいました。タリーズの代表アドレスに「国際業務担当者殿」と宛名を書き、日本のコーヒー市場の分析、一号店は銀座に出すべきという持論、スペシャルティコーヒーの可能性——自分なりのビジネス論を書いたメールを週1回のペースで10回以上送り続けます。

副社長から「参考になる意見をありがとう」という程度の返事は来た。しかし交渉は進まなかった。

1996年6月末、松田さんは6年間勤めた三和銀行を退行します。タリーズとの契約は全く見通しが立っていないにもかかわらず。

退行から2カ月後、1996年8月2日——スターバックスの日本一号店が銀座にオープンした。悔しさに震えながらも松田さんは気持ちを切り替えます。「たとえ相手が世界最大の難攻不落の軍艦でも、打ち負かす方法は必ず見つかる」と。

そしてその年の秋、タリーズ本社に電話すると「オキーフ会長は今、日本に出張中です」という予想外の答えが返ってきた。「日本——私も今、東京から電話しているんです」。 滞在先を確認すると「東京の帝国ホテル」。

20分後には現地に向かっていました。ホテルに到着しながら携帯電話を取り出し、フロントから会長の部屋に電話を回してもらう。「今なら時間がある」——決まった。

その夜、ホテルのすし屋でトム・オキーフ会長とアールジェイ副社長と食事しながら、松田さんは持論を展開します。「一号店は銀座に出すべき理由」「スーパー展開の危険性」「日本の消費の二極分化」——銀行員として培った分析力を、コーヒー一杯にかける情熱とともに語り続けました。

1997年1月、3度目のシアトル訪問でついに契約が成立。モンブランの万年筆2本を懐に忍ばせ正装で現れたトムは、1本を自分に、1本を松田さんに贈りました。契約金はゼロ。求められたのはコーヒー豆とグッズをアメリカのタリーズから買うこと、そして1年で実績を残すことでした。


手付金300万円を「捨てる」決断——銀座か、広尾か

物件探しもまた、一筋縄ではいきませんでした。

どこの馬の骨ともわからない若者に、一等地の物件を貸す不動産業者はいない。ようやく広尾の商店街に物件を見つけ、手付金300万円を支払った直後に「銀座に物件が出るかもしれない」という情報が入ります。

資金力的に銀座と広尾を同時に進めることは不可能。どちらかを選ぶ必要がありました。

「広尾の手付金300万円を捨てるのか、それとも銀座一本に賭けるのか」——経営者として直面した最初の大きな岐路でした。「自分の気持ちに妥協してはならない」と決断し、松田さんは手付金を捨てて銀座に賭けます。

銀座の物件は晴海通りに面したビルの1階と地下。保証金3000万円、月家賃120万円以上。しかし仲介業者に「オーナーに会わせてほしい」と頼んでも「無理だ」と断られ続けました。

そこで松田さんは直接行動に出ます。毎朝7時半、物件の前に現れて掃除をする白髪の男性を見つけ、晴海通りを駆け足で横切ってこう声をかけました。「突然ぶしつけですみません。私は松田公太と申します。実はここでコーヒーショップを経営させていただきたいと考えています」

男性は田崎寛治さん——ビルオーナーの息子さんでした。気さくに話を聞いてくれた寛治さんが父の重徳さんを説き伏せ、何の実績もない松田さんに物件を貸してくれることになりました。


7000万円の借金と、コンビニの時給計算

資金調達もまた壮絶でした。

保証金3000万円を3週間後に用意しなければならない。自己資金は200万円ほど。両親・妻・友人・三和銀行時代のビジネスパートナーの実家から細々とかき集め、国民金融公庫の担当者を銀座の物件に直接連れて行き情熱を見せることで融資を勝ち取りました。

こうして合計7000万円もの借金を背負ってのスタートとなりました。

プレッシャーを感じた松田さんは、最悪の事態を想定しました。タリーズが失敗したら——。コンビニの時給850円、1日15時間、週1日休みで働くと月22万4000円。妻の収入も合わせれば月40万円は返せる。「最悪の状況が見えれば、怖さもなくなってきた」。

1997年8月7日、タリーズ日本一号店が銀座にオープン。しかし初日の来客者数は約250人。採算には500人以上必要でした。毎月50〜60万円の赤字が続きます。


寝袋の日々と、歌舞伎座の客を「誘導」した話

営業時間の朝7時から夜11時までバリスタとしてコーヒーをつくり続け、閉店後は掃除と事務仕事。寝るのは午前2時か3時。横浜の自宅に帰る余裕もなく、週の半分以上は店の地下に寝袋を敷いて眠りました。秋になると寒さがこたえたため、寝袋の中に電気毛布を入れてしのぎました。朝昼は売れ残りのパンを食べ続け、2カ月で体重が7キロ落ちました。

それでも松田さんは手を尽くし続けます。タリーズのロゴ入りカップを片手に銀座の街を歩き、コーヒーをテイクアウトするスタイルを広める。三越の女子社員に手書きのビラを配りに回る。

そして特に印象的なのが「歌舞伎座の客誘導作戦」です。本書『すべては一杯のコーヒーから』に登場するこのエピソード——公演が終わる午後3時半と夜8時半、歌舞伎座から大勢の客が流れてくるのに誰もタリーズに入らない。松田さんは昭和通りの交差点に立ち、観客たちの前を歩き出し、タリーズの前で「おやっ」という感じで立ち止まりゆっくりと入店しました。すると中年女性たちがつられて入ってきた。「一人もしくは一つのグループが入ると、なだれ込むように別の人たちも入ってくる」という法則を発見して実践したのです。

3カ月の赤字を経て、銀座店はやがて人気店へと成長していきます。そして2001年7月25日、設立からわずか3年2カ月で株式上場を達成しました。


松田さんのこだわり

本書を読むと、松田さんという人物の輪郭が鮮明に浮かびます。

食材へのこだわりは、セネガル・ボストン時代から一貫しています。シアトルへのコーヒー店調査では、腹が痛んでも一切加減せずに50店以上でコーヒーを飲み続けた。銀座店のパンメニューを改良するため、シアトル出張のたびにサンドイッチ屋を回り、うまいと思ったものを成田から直行で会社に持ち込み、パン職人に再現させた。「お客様に最高のものを」という信念は、創業当初から揺るぎませんでした。

食事を残さない習慣も印象的です。父から「お百姓さんが1年かけ苦労してつくっているのに何事だ」と教えられて以来、友人や社員と食事に行っても人が残しているのを見ると「バチが当たるぞ!」とつい食べてしまうほどだと本書に書かれています。

ビジネスパートナーとしての義理堅さも随所に表れます。ダンケンズのアイスクリームメーカー創業者ダン・サムソン——一通のメールから始まった縁が「親友」にまで発展し、会社設立時には出資者に、社外取締役にもなってもらいました。創業者が会社を売却してダンケンズが消滅した後も、元の商品管理部長を訪ねてレシピを受け継ぎ、「タリーズアイスクリーム」として日本で作り続けています。


松田さんゆかりの地

東京・銀座(タリーズ日本1号店):晴海通りに面した「たきんビル」1階と地下。1997年8月7日にオープンしたこの場所は、松田さんが寝袋で眠り、歌舞伎座の前で客を誘導し、三越に手書きビラを配り続けた舞台です。開業資金を工面するため直接オーナーに話しかけた経緯は、本書**『すべては一杯のコーヒーから』**の中でも最もドラマチックな場面の一つです。

アメリカ・ボストン近郊レキシントン(10歳〜高校卒業まで):松田さんが青春時代を過ごした地。高校サッカー部で1年後輩だったジェフ・ファリスの結婚式に出席したボストン訪問で、スペシャルティコーヒーと運命の出会いを果たしました。友人に「すし」を勧めて「生魚なんて気持ち悪い」と言われ続けた体験も、日本文化を広めたいという夢を強くしていきます。

アメリカ・シアトル(スペシャルティコーヒー発祥の地):契約に至るまで3度訪問し、2日間で50店以上を飲み歩いた地。「朝5時半から閉店まで、コーヒーショップというコーヒーショップに入った」という徹底的な調査が、タリーズとの出会いにつながりました。上場後も定期的に訪れ、サンドイッチをホテルから直接会社に持ち込むほど現地との縁が続いています。


松田さんから学ぶ、3つの教訓

1. 情熱は「運」を引き寄せる タリーズとの交渉で行き詰まっていたとき、偶然知ったのがトム・オキーフ会長の日本出張でした。ダンケンズのダン・サムソンとの縁もインターネットでのメール一通から始まり、銀座のビルオーナーとの出会いも毎日の張り込みからでした。「情熱は不思議と『運』をも引き寄せ、不可能だと思っていたことを可能にしてしまう力も持っている」——これは松田さんの信念であり、本書全体を通じて証明されていく事実です。

2. 「意思決定者」に直接届けること 銀行員時代から一貫していた松田さんの信念があります。「人を介して話をしても、気持ちは半分も伝わらない」——タリーズ会長に直接メールを送り、帝国ホテルに直撃し、不動産業者を介さずにオーナーに話しかけた。回り道をせずに意思決定者のところへ自分の足で行く。この行動原則が、資金も後ろ盾もない元サラリーマンの扉を次々と開きました。

3. 「最悪」を具体的に計算したら、怖さは消える 7000万円の借金を背負う前日、松田さんはコンビニのアルバイト求人を調べ、1日15時間働けば20年で返済できることを確認しました。「別に失敗したからといって、命まで取られるわけではない」——最悪のシナリオを数字で直視したとき、プレッシャーは行動のエネルギーに変わった。リスクを曖昧なまま恐れるより、具体的に計算することで前に進めるのだというのが、松田さんが体験から伝える教訓です。


この記事で語りきれなかった『すべては一杯のコーヒーから』の魅力

本書『すべては一杯のコーヒーから』には、ここで紹介しきれなかったエピソードがまだ多くあります。

一つ目は、銀行時代の「成績改ざん」との戦いです。3期連続優秀外交賞を狙って実際に成績を上げていたにもかかわらず、支店の上司5人によって数千点のポイントを数百点に書き換えられた。会議室で「キミのためを思ってやったことだ」と言われた松田さんは、「それはありがとうございました」と一言だけ言い残して退室。退行前に人事部にシステム改善を要求し、翌期から本人の捺印が必要になるよう制度を変えさせました。

二つ目は、弟・城太さんの死のエピソードです。2歳下の弟は、入行9カ月後に「特発性拡張型心筋症」という原因不明の難病に倒れました。松田さんは毎週末、土浦から東京女子医大病院に通い続けます。上司から「弟を理由にさぼりたいだけなんだろう」と言われても、静かに耐えた。弟は「公太のヒーロー」として私の武勇伝を語ってくれる唯一の存在——その弟の死は、自分の会社が軌道に乗り始めた今こそ見てほしかった、と松田さんは書いています。

三つ目は、コオロギチョコレートの販売という珍エピソードです。銀行退行後、タリーズとの契約を進めながら輸入業でつないでいた時期、ドイツのペットショーで「コオロギ入りのチョコレート」に出会い、輸入・販売まで完結させました。2万個近いチョコに一つずつラベルを貼り続け、腱鞘炎になりながら、最終的に300万円以上の利益を出した話は、松田さんの「なんでもやってみる」精神をよく表しています。

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まとめ|松田公太さんが教えてくれること

コーヒーを飲んでおいしいと感じたことすら、それまで一度もなかった。コーヒーショップで働いた経験は皆無。経営者としての実績もゼロ。そんな元サラリーマンが、7000万円の借金を背負いながら銀座に一号店を開き、3年2カ月で上場企業を作り上げた。

その道のりには、寝袋の夜があった。体重が7キロ落ちる苦境があった。それでも松田さんは手を止めなかった。歌舞伎座前で自分が囮になり、手書きのビラを持って三越に営業し、シアトルから成田直行でサンドイッチを持ち帰った。

「一杯のコーヒーとの出会いでスタートした私の挑戦は、まだまだこれから始まったばかりなのだから」——本書の締めくくりとなるこの言葉が、松田さんの本質を表しています。

本書『すべては一杯のコーヒーから』は、輝かしい成功談ではなく、失敗と試行錯誤の記録です。「このくらいなら私にもできそうだ」と読者に思わせることを、松田さんは最初から意図していました。

松田さんの生き方に興味を持った方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。


参考文献:松田公太『すべては一杯のコーヒーから』(新潮文庫、2005年)