偉大な経営者には、必ず「どん底」があります。
成功した経営者の話は世に溢れていますが、その裏には語られることの少ない失敗の歴史があります。倒産、解雇、全財産の喪失、市場からの撤退──。そうした修羅場をくぐり抜けてきたからこそ、彼らの言葉には重みがあります。
この記事では、日本・海外を代表する経営者が実際に経験した「失敗・挫折のエピソード」を、その後の再起とともに紹介します。
近代の実業家(明治〜昭和初期)
松下幸之助(パナソニック)── 家の破産と小学校中退からの出発
松下幸之助の出発点は、失敗の連続でした。父が米相場の投機に失敗して家が破産し、幸之助は小学校4年生で中退して丁稚奉公に出されました。最初に奉公した火鉢屋は3ヶ月で廃業。次の自転車屋に移り、5年間の奉公を終えて大阪電灯に就職しました。
22歳で独立した際も、新開発の電球ソケットを上司に却下され、資金も底をつき、妻の弟を含む3人で極貧の中から会社を立ち上げました。「まず注文をとってから考える」という綱渡りの日々が続きましたが、松下はそのたびに「ないものはない。あるものでやるしかない」と前を向きました。
晩年に「私には学歴もなければ財産もない。体も弱かった。だから人に頼み、人から学ぶしかなかった。それが私の最大の強みだった」と語ったのは、この幼少期の失敗の連続があってこそです。
本田宗一郎(ホンダ)── 50本中47本が不良品、全財産を失ったピストンリング
浜松で修理工場を成功させた本田宗一郎が、28歳のとき次に挑んだのがピストンリングの製造でした。まわりの反対を押し切って別会社・東海精機重工業を設立し、不眠不休で研究を続けました。
しかし最初にトヨタに納品したサンプル50本のうち、合格したのはたった3本。47本が不良品として返品されました。この失敗で資金は底をつき、妻の持ち物まで質屋に入れる羽目になりました。本田は諦めませんでした。金属工学を一から学ぶために工業学校の聴講生となり、2年がかりで安定した製品づくりを実現。最終的に28件もの特許を取得するに至りました。
さらに追い打ちをかけるように太平洋戦争が勃発。工場は空襲で壊滅し、せっかく軌道に乗ったピストンリングの需要は消えました。本田は38歳で東海精機の持ち株をトヨタに売却し、無一文となりました。それでも1年間の充電期間を経て、翌年に本田技術研究所を設立。後に「世界のHonda」となる道はそこから始まりました。
「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」という言葉は、この体験から生まれたものです。
安藤百福(日清食品)── 48歳、全財産喪失から小屋での発明へ
「人生に遅すぎることはない」という言葉を残した安藤百福がチキンラーメンを発明したのは、48歳のときでした。しかしその前に、安藤は全財産を失うという絶望的な失敗を経験しています。
理事長を務めていた信用組合が経営破綻し、すべての財産を失いました。48歳にして文字通りの無一文となった安藤は、それでも前を向きました。大阪・池田市の自宅の裏庭に小さな研究小屋を建て、毎朝早起きして麺の研究を続けました。
「なぜ麺か」──それは、戦後の闇市で人々が寒さの中すすり込んでいたラーメンの屋台の列を見たからでした。「食が足りれば世は平和になる」という信念が、全財産を失った後の安藤を動かし続けました。1年がかりの研究の末に誕生したチキンラーメンは、瞬く間に日本中に広まりました。
出光佐三(出光興産)── 戦後の壊滅から「人員整理ゼロ」の再起
出光佐三は終戦で、会社の資産のほぼすべてを失いました。戦時中に構築した海外の拠点と資産は全部接収され、残ったのは1000人を超える社員と借金だけでした。
「1000人を路頭に迷わせるわけにはいかない」。出光は人員整理を一切行いませんでした。社員を家族と見なす「人間尊重」の経営哲学は、この極限状態の中で生まれたものです。国内の事業をゼロから立て直し、1953年のイラン石油輸入では国際石油メジャーの包囲網に単身挑んで石油を確保し、「日章丸事件」として歴史に刻まれました。
失敗ではなく戦争による壊滅でしたが、「ゼロからの再出発」という意味で出光の経験は、後の多くの経営者に勇気を与えてきました。
昭和後半〜平成の経営者(日本)
稲盛和夫(京セラ・KDDI)── 「無謀」と笑われたKDDI創業
1984年、稲盛和夫は電気通信事業の自由化を受けて、第二電電(現KDDI)の設立を表明しました。NTTという巨大独占企業に挑むというこの決断は、周囲から「無謀」と批判されました。
セラミックスの会社が通信事業に参入するという発想は、当時誰も理解できませんでした。「セラミックスの会社が電気通信をやって、できるわけがない」という批判が相次ぎました。自己資本もなく、通信インフラを整備するための資金調達は困難を極めました。しかし稲盛は「百年に一度という大変革期に巡り合わせたことをたいへんな幸運と思おうではないか」と社員を鼓舞し、前進を続けました。
KDDIはその後、NTTに次ぐ日本第2位の通信事業者に成長しました。「笑われた挑戦」が世界的企業を生み出したのです。
柳井正さん(ファーストリテイリング)── 「一勝九敗」の本当の中身
「私が手がけたビジネスで成功したのはユニクロだけで、他はほぼすべて失敗した」──柳井正さんは自著『一勝九敗』でこう書いています。
その失敗の中身は具体的です。ロンドンでの海外出店は惨敗し、撤退を余儀なくされました。スポーツウェアブランド「スポクロ」やファミリーカジュアルの「ファミクロ」など、ユニクロ以外の業態は次々と失敗しました。中国工場との取引で品質管理に失敗し、大量の不良品を生み出したこともあります。
それでも柳井さんは失敗のたびに現場に足を運び、何が悪かったかを自分の目で確認してきました。「失敗を次の一手に変えられるかどうか。それが経営者の力量だ」という信念は、この数え切れない失敗の経験から来ています。
孫正義さん(ソフトバンクグループ)── ITバブル崩壊で1兆7000億円、WeWorkで「人生の汚点」
孫正義さんは経営史に残る規模の失敗を二度経験しています。
一度目は2000年のITバブル崩壊です。ソフトバンクの時価総額はバブル最盛期に約20兆円に達し、トヨタ自動車に次ぐ日本企業2位に躍り出ていました。しかしITバブル崩壊によりソフトバンクの株価は約99%下落し、時価総額は約2800億円にまで急落しました。孫さん本人も後に「当時、証券業界ではソフトバンクは潰れるのではないかという話が出ていた。僕自身もそう思った」と振り返っています。会社の存続が危ぶまれるほどの危機でしたが、孫さんは事業の整理と選択集中で乗り越えました。
二度目はWeWork問題です。シェアオフィス企業のWeWorkに160億ドル(約1兆7000億円以上)を投じましたが、2023年にWeWorkは経営破綻しました。孫さんは2019年の株主総会で「僕の責任。役員や社員の忠告が何度もあったが、多額のお金をつぎ込んでしまった」と頭を下げ、「私の人生の汚点だ」と語りました。
2期連続で合計2兆円超の最終赤字を計上した後、「徹底した守り」に転じた孫さん。その判断の速さと正直さは、経営者としての器の大きさを示しています。
永守重信さん(日本電産)── 「できます」と言い切り、不眠不休で作り上げた創業期
「できます」と言い切り、後から何とかする──それが永守重信さんのやり方でした。しかし創業直後の日本電産には、失敗もありました。
1973年、28歳で3人の仲間と創業した直後、永守さんは受注のために見込みのない納期も約束することがありました。しかしその度に不眠不休で何とかしてきました。「できます」が嘘にならないために、文字通り寝ずに働きました。
創業から数年間は資金繰りに追われ続け、銀行に融資を断られることも珍しくありませんでした。永守さんは「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」という三原則を自らに課し、その繰り返しで信頼を積み上げました。失敗を失敗のままにしないという執念が、後の日本電産を作り上げました。
似鳥昭雄さん(ニトリ)── 成績表は1と2ばかり、広告会社を5ヶ月で解雇
ニトリを日本最大の家具チェーンに育てた似鳥昭雄さんは、華麗なエリート経歴とは正反対の出発点を持っています。子どもの頃から勉強が大の苦手で、成績表は5段階評価の1と2ばかり。高校は裏口入学で、母親には「成績は1が一番よくて次が2」と嘘をつくほどでした。
大学卒業後に就いた広告会社の仕事では、契約がまったく取れず半年で解雇。次に父親の会社を手伝うも体調を崩して退社。23歳の時、父親の一言「人のやらないことをやれ」に背中を押され、周囲に家具屋がないことに気づいて似鳥家具店を創業しました。
しかし創業直後は売り上げが全く伸びず、栄養失調寸前になったこともあったといいます。接客が苦手な似鳥さんを妻の百百代さんが支え、接客は妻に、仕入れは自分にと役割分担したことで経営が上向き始めました。後に似鳥さんはこう語っています。「私は9割が欠点です。接客も後片付けも在庫管理も仕入れも計算も、何もできません。妻と従業員のおかげでここまで来ました」
星野佳路さん(星野リゾート)── 身内の会社から追放され、父と対立した2年間
星野リゾートの代表・星野佳路さんは、1914年創業の老舗温泉旅館の4代目です。しかし家業を継いだ道のりは、決してスムーズではありませんでした。
コーネル大学ホテル経営大学院で修士号を取得し、1988年に副社長として家業に戻った星野さんが最初にぶつかったのが、創業家一族の公私混同問題でした。「会社の資産と経営一族の資産がごちゃ混ぜになっていた」として改革を提言した星野さんは、わずか半年で一族から辞めさせられてしまいます。自分が招いた父親から反対票を投じられ、事実上の追放でした。
2年間、星野リゾートを離れてシティバンクで働いた星野さんは、1991年に社外の同族株主の後押しで経営権を取り戻しました。賛成票はぎりぎり50数%。反対側に回った父親はその場で立ち上がり「お世話になりました」と出ていきました。星野さんはその後1年かけて父親を説得し、会長職に就かせることで和解にこぎ着けました。この父と子の対立と和解の経験が、星野さんの経営哲学の底流をなしています。
南場智子さん(DeNA)── 起動しないシステム、夫の大病、道半ばでの社長退任
DeNA創業者の南場智子さんは、マッキンゼーのパートナー(役員)という安定した地位を捨て、1999年に37歳で起業しました。しかし創業の道のりは自著のタイトル通り「不格好経営」でした。
最初の試練はサービス開始初日に訪れました。外注したプログラムが、なんと一文字も書かれていなかったのです。「本当にないの?」と何時間も繰り返し確認するほどのパニックに陥りました。この失敗から「自分にできないことを人に頼んではいけない」という教訓を得て、世界中から優秀なエンジニアを集めることを最優先課題にしました。
2011年、DeNAがモバイルゲームで急成長し、まさに世界に打って出ようとしていた矢先、夫ががんに倒れました。南場さんはCEOの座を降り、夫の看病に専念することを選びました。道半ばでの退任について周囲は「挫折」と見ましたが、南場さん本人は「退任が1年早まっただけ」と言い切りました。その後、夫が寛解したことで経営に復帰。2016年には夫が亡くなる2日後に、別問題の謝罪会見に出席するという試練も経験しました。どんな状況でも「コトに向かう」という南場さんの経営哲学は、この幾多の困難の中で鍛えられました。
三木谷浩史さん(楽天グループ)── 阪神大震災で親族を失い、「ネットでものは売れない」の中に飛び込む
楽天グループ創業者の三木谷浩史さんは、一橋大学を卒業後に日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行し、ハーバードでMBAを取得したエリートです。しかし順調に見えたキャリアを突き動かしたのは、1995年の阪神・淡路大震災でした。故郷・神戸が壊滅し、親族を亡くした三木谷さんは「人生は一度きりだ」と確信し、5年勤めた銀行を辞めて起業を決意しました。
1997年に6人で立ち上げた楽天市場の創業初月の流通総額はわずか32万円。しかもそのうち18万円は三木谷さん自身が購入したもので、実際に外部のお客様から売れたのは14万円でした。三木谷さんは自ら営業に回り続け、月額5万円という破格の出店料でようやく店舗を集め始めました。
創業後もTBS買収交渉の失敗(約650億円の評価損)、楽天モバイルへの巨額投資による赤字など、大きな失敗を経験しています。しかし三木谷さんは「ほとんどのベンチャーは最初か2回目の事業で大失敗している。そこからネバーギブアップの精神で這いあがってきた」と語り、失敗を前進の糧としてきました。
鳥羽博道さん(ドトールコーヒー)── 16歳で家出、無一文で創業、700万円を詐欺で失う
ドトールコーヒー創業者の鳥羽博道さんは、16歳で父親と衝突して家を飛び出し、高校を中退。喫茶店やレストランで働きながら20歳で単身ブラジルに渡り、コーヒー農園で3年間働きました。帰国後に勤めたコーヒー卸会社を「上司が先輩を殴るのを見て」辞め、1962年に24歳で独立。ブラジルで貯めた資金はすべて父親に渡したため、手元には借金した30万円だけでした。
8畳一間に中古の焙煎機を置いてスタートしたドトールコーヒーは、品質も価格も競争力がなく、倒産の危機が続きました。「倒産するかもしれないと心配で、近くの神社に毎日参拝して気を落ち着かせるのが日課だった」と鳥羽さんは振り返ります。ある日「明日潰れてもいいから、今日一日を精一杯頑張ろう」と開き直ったことで、ようやく覚悟が決まりました。
26歳の時には不動産取引で詐欺に遭い、借金して集めた700万円をだまし取られました。「騙した人間が成功して騙された自分が敗北したら、世に正義がない。何としても成功して世に正義があることを証明しよう」──この怒りをエネルギーに変えた鳥羽さんは、1980年に150円という破格のセルフサービスコーヒーショップ「ドトールコーヒーショップ」を開業。喫茶業界に革命を起こしました。
宗次徳二さん(カレーハウスCoCo壱番屋)── 孤児院育ち、無一文から日本最大のカレーチェーンへ
CoCo壱番屋の創業者・宗次徳二さんは、生後まもなく捨てられ孤児院で育ちました。養父が博打好きで一家の生活は常に困窮し、中学卒業後は新聞配達や皿洗いで生計を立てながら高校・大学に通いました。
26歳のとき、妻の直美さんとともに喫茶店「バッカス」を開業しました。収入を安定させるための喫茶店でしたが、飲食の面白さに目覚めて不動産業を廃業。その4年後の1978年(30歳)に「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業し、破竹の勢いで店舗数を増やしていきました。
宗次さんが特に重んじたのが「掃除」です。今も毎朝4時に起き、店舗周辺のゴミを自ら拾い続けています。事業が成功した後も変わらぬ姿勢を貫き、「自分がどこで生まれ育ったかを忘れた人間に、本当のサービスはできない」と語っています。孤児院で育ち、無一文から出発したからこそ、お客様への感謝が言葉ではなく行動に表れています。
矢頭宣男(やずや)── 44歳で全財産喪失、1000万円の借金から再起
やずやの創業者・矢頭宣男さんは、44歳になるまで転職を繰り返し、脱サラも立て続けに失敗しました。結婚して10年で12回も転居し、毎年年賀状の住所と仕事が変わっていたといいます。司会業・健康食品販売・弁当屋・イベント業と手を広げながらも、どれも軌道に乗らない日々が続きました。
それでも矢頭さんは諦めませんでした。44歳のとき、これまでの経験を活かした通信販売に特化した健康食品販売業を始める決意をしました。ミシン・ピアノ・住宅販売で磨いた営業センス、司会のトークは電話対応に、結婚式の演出は感動を呼ぶチラシのコピーライティングに結びついた。失敗だと思っていた過去の経験がすべてプラスに転じたのです。
「飲む酢」「黒にんにく黒酢もろみ」などで知られるやずやは、お客様との真摯な関係を軸に成長しました。矢頭さんは2008年に64歳で逝去しましたが、死の直前まで経営の最前線に立ち続けました。
海外の経営者
スティーブ・ジョブズ(Apple)── 自ら創業した会社を追放された30歳
1985年、30歳のスティーブ・ジョブズは、自分が創業したAppleから事実上追放されました。マッキントッシュの販売不振と社内の混乱を理由に、取締役会は経営陣のほぼ全員が当時の社長スカリーを支持。ジョブズは全業務から外されました。
「アメリカで最も有名な失敗者」と呼ばれた時期もありました。設立したNeXTは10年近く赤字を垂れ流し、買収したピクサーも長年苦境が続きました。しかしNeXTの研究がのちにMac OS Xの礎となり、ピクサーは1995年の『トイ・ストーリー』で世界を驚かせました。
1997年、破産寸前となったAppleがNeXTを買収したことで、ジョブズは古巣に戻ることになりました。復帰後のジョブズはiMac、iPod、iPhone、iPadを次々と世に出し、Appleを世界最大の時価総額企業へと導きました。スタンフォードでの卒業式スピーチでジョブズはこう語っています。「Appleを追われなかったら、今の私はなかったでしょう」
ウォルト・ディズニー(ウォルト・ディズニー・カンパニー)── 22歳で会社を倒産させ、解雇された
今日の巨大エンターテインメント企業ディズニーの創業者・ウォルト・ディズニーは、若い頃に何度も失敗を経験しています。
22歳のとき、カンザスシティで設立したアニメ会社「ラフ・オ・グラム・スタジオ」は経営難に陥り倒産しました。若い頃に就いた広告デザイン会社の仕事では契約を打ち切られ、「創造力が足りない」と評された経験もあります。ハリウッドに渡ってからも資金難は続き、何度も破産の危機に陥りました。
「ディズニーランドは必ず失敗する」という周囲の声を無視して建設に踏み切った際も、資金調達は困難を極めました。TVシリーズを抵当に入れ、生命保険を解約するなど、あらゆる資産をかき集めて1955年に開園にこぎ着けました。
ディズニーはのちに「私は多くの失敗をしてきた。しかし倒れるたびに学び、倒れるたびに少し賢くなった」と語っています。
カーネル・サンダース(KFC)── 65歳、1009回の拒絶から生まれたKFC
フライドチキンの赤と白のおじさんことカーネル・ハーランド・サンダースがケンタッキー・フライド・チキン(KFC)のフランチャイズビジネスを始めたのは65歳のときでした。
それ以前のサンダースの人生は失敗の連続でした。農業・電車の運転手・保険の外交員・鍛冶屋・ガソリンスタンド経営など、職を転々としました。ケンタッキー州コービンでレストランを経営し、独自のフライドチキンが評判になったものの、高速道路の建設でルートが変わり、65歳のときに廃業を余儀なくされました。
手元に残ったのは中古の車と、秘伝のフライドチキンのレシピだけでした。社会保障給付金105ドルを元手に、サンダースはレシピを売り込もうと各地のレストランを回りました。断られ続けること1009回、ようやく最初のフランチャイズ契約を結ぶことができました。「人生に遅すぎることはない」を体現した経営者として、サンダースは今も世界中で愛されています。
ウォーレン・バフェットさん(バークシャー・ハサウェイ)── 最大の失敗は社名でもある会社への投資
「投資の神様」として知られるバフェットさんにも、自他ともに認める最大の失敗があります。バークシャー・ハサウェイへの投資です。
1960年代、バフェットさんは繊維メーカーだったバークシャー・ハサウェイの株を割安で購入しました。しかし繊維産業は衰退の一途を辿り、工場閉鎖と人員削減の連続となりました。バフェットさんは後に「バークシャーが保険事業に進出したときにも、繊維事業に資金が拘束されていた。もしも保険会社に着手していれば、バークシャーの時価総額は2倍になっていただろう」と語っています。
しかしバフェットさんはこの失敗から「これ以上コストの高いビジネスは続けない」という教訓を得ました。その後は繊維事業から撤退し、保険・金融・エネルギーへとシフトすることで、バークシャーは世界最大の投資持株会社に生まれ変わりました。社名は失敗の記念碑として今も残っています。
ジェフ・ベゾスさん(Amazon)── 失敗を文化にした男
ベゾスさんは意図的に失敗を繰り返してきた経営者でもあります。Amazonが世に送り出して失敗した製品・サービスは多数にのぼります。Fire Phoneは発売からわずか1年で市場から撤退しました。
それでもベゾスさんが失敗を恐れないのは、「失敗しないということは、十分に革新的でないということだ」という哲学があるからです。AWSもKindleも、当初は「本屋が何をやっているんだ」と批判されました。どちらも今やAmazonの巨大な収益源となっています。
「実験が失敗するのは当然だ。それを続けているうちに、一つか二つが大化けする」──ベゾスさんはこの哲学を株主への手紙でも繰り返し語ってきました。
まとめ
これだけの失敗を経験しながら世界的な企業を築いた経営者たちの共通点は何でしょうか。
まず、失敗を隠さなかったことです。孫さんはWeWorkを「人生の汚点」と公言し、バフェットさんは「最大の失敗」と自ら語っています。失敗から目を背けない者だけが、次の一手を打てます。
次に、失敗を最後の答えにしなかったことです。本田宗一郎は不良品だらけのピストンリングを前に学校に通い直し、ディズニーは倒産後にハリウッドへ向かいました。失敗とは終わりではなく、再出発の始まりでした。
そして、失敗の規模が大きいほど、学びも大きかったことです。安藤百福は全財産を失ったからこそ、小屋での発明に全力を注げました。ジョブズはAppleを失ったからこそ、NeXTとピクサーという次の点を打てました。
偉大な経営者の成功を語るとき、その裏にある失敗を知ることで、初めてその成功の意味が見えてきます。
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