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金川千尋|信越化学工業を率いた常在戦場の経営哲学

信越化学工業社長・金川千尋の書籍『社長が戦わなければ、会社は変わらない』を紹介する記事のアイキャッチ画像

2001年、日本経済が長い不況にあえいでいた頃、信越化学工業は七期連続最高益を更新していました。

化学業界全体が苦境に立たされ、同業他社が軒並み赤字や減益に追い込まれるなか、なぜ信越化学だけが利益を出し続けることができたのか——。

その答えは、社長・金川千尋が就任直後から徹底して行った「官僚主義との戦い」と、合理性を極限まで追求した独自の経営哲学にありました。

「社長が戦わなければ、会社は変わりません」

本書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』は、信越化学工業の代表取締役社長である金川千尋が、自らの経営哲学を余すところなく書き下ろした一冊です。株主第一主義、少数精鋭、常在戦場、朝令暮改——独自の言葉で語られる経営論は、不況を言い訳にせず利益を出し続けるための「実践経営学」そのものです。


金川千尋の基本プロフィール

氏名金川千尋(かながわ ちひろ)
生年月日1926年3月15日(朝鮮・大邱生まれ)
学歴旧制第六高等学校卒業(1947年)→東京大学法学部政治学科卒業(1950年)
経歴極東物産(現三井物産)→1962年信越化学工業入社→1978年シンテツク社長→1990年信越化学工業代表取締役社長→2010年代表取締役会長
主な実績社長在任中に7期連続最高益(後に15期連続増益)達成。シンテツクを世界最大の塩ビメーカーに育成
著書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』(東洋経済新報社)
逝去2023年1月1日(96歳)

就任直後に見た光景——官僚主義と非効率の蔓延

1990年8月、金川千尋は信越化学工業の代表取締役社長に就任します。時代はバブル崩壊の直前。しかし金川が就任後に目にしたのは、市況の問題ではなく、社内に深く根を張った「病巣」でした。

「一二年前に私が社長に就任した当時は、官僚主義が社内に蔓延しており、非効率的な仕事のやり方や組織運営がそこここに散見されました。このままでは、世界に通用する企業どころか、経済状況が悪化すれば不況の波にのみ込まれ、倒産の危機を迎えるとさえ思ったほどです」

本書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』に記されたこの言葉は、就任当時の危機感をそのまま伝えています。

信越化学は1926年創業の老舗化学メーカー。歴史の古い会社だけに、大企業病は深く根づいていたのです。財務担当者が十数人もいる。不要な部署が山ほどある。コスト意識の薄い古い契約が放置されている。といった具合です。

金川は若い社員にこう言い続けました。「考え方の柔軟さで言えば、私が20歳で、君は80歳ぐらいだね」——常識を疑うことすら忘れた組織への、辛辣な現状認識でした。

改革は、まず自分が直接担当した仕事の現場から始まります。そして社長就任後、それを全社に展開していきました。


国内塩ビ再建——「いつでも辞める覚悟」で戦った四面楚歌の1年半

金川の経営改革の原点となったのが、社長就任以前に取り組んだ国内塩ビ事業の再建です。

1980年頃、国内の塩ビ事業は年間40億円を超える赤字を垂れ流していました。当時、金川は海外事業本部長とシンテツク社長を兼任する超多忙な立場にありました。そこに会長の小田切新太郎から直々に声がかかったのです。

「あなたが死ぬほど忙しいのはよくわかっているけれども、会社がやっていけないから、国内の塩ビ事業も立て直してくれないか」

それはこれまでの仕事に加えてやれ、という依頼です。本書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』で金川は「海外の100に国内の100が加わって、200の仕事が与えられたようなものでした」と振り返っています。

金川は「根っこから直しますから、最低三年もらいます」と答えたが、「会社がもたないから、せいぜい二年で」と言われたそうです。出来るという確信はなかったが、引き受けるしかなかったと振り返ります。

まず着手したのが原材料コストの問題です。信越化学は鹿島のコンビナートから「世界一高い塩素」を契約上の義務で買わされていました。これを見直さなければ再建は見込めません。しかし契約には慣習としがらみが幾重にも絡んでいて、交渉は難航しました。

金川は説得から強硬手段に路線変更。契約改定案を関係各所に送りつけ、受け入れられなければ塩素の引き取りを辞退すると宣言します。事情変更に基づく訴訟も辞さずという姿勢を示したことで、ついに同意を得たのです。

製造コストを約半分に削減。需要家との「選択と集中」を断行。山口県の工場閉鎖も一人も解雇せずに実行しました。結果は一年半で収支均衡、三年目には30億円を超える利益に転換します。

しかし道のりは四面楚歌でした。「労務の仕事だ」と反発され、慣習を守りたい人間たちからの抵抗が続きます。

「当時の小田切社長が自分の体を張って、盾になってかばってくれたからこそ、私は仕事が出来ました。そして、私もまた、いつでも辞めるという覚悟を持ち、体を張って仕事をしていたのです」

これが後の全社改革の原型となったのです。


こうした逆境からの立て直しは、金川千尋に限った話ではありません。
他の経営者の事例もあわせて見ることで、より理解が深まります。


「最初からリストラされた会社」シンテツク

金川の経営哲学を語るとき、アメリカのテキサス州に本社を置く子会社・シンテツクは外せない存在です。

シンテツクは世界最大の塩ビメーカーです。年間塩ビ生産能力231万トン——これは日本全体の塩ビ生産能力にほぼ匹敵する規模です。全米シェアは30%。ところが、その従業員はわずか230名しかいません。

日本国内には塩ビメーカーが9社あり、商社・代理店なども含めた関係者は延べ2000人以上いる。それと同等の生産量を230人でこなす——一人当たりの生産性は日本の約8倍という計算です。

かつてダウ・ケミカルの名社長だったベン・ブランチ氏は、このシンテツクを評してこう言いました。「シンテツクは最初からリストラされた会社である」——リストラで人員を削減したのではなく、最初から不要な人間を採らなかった、という意味です。

シンテツクには財務の専従者もいない。売上代金の回収は金川の女性秘書が兼任し、「今月末に支払日が来るなら一週間前にさりげなく伝える」「一日でも入らなければすぐ電話する」というマニュアルを忠実に実行している。今ではお得意先担当者の誕生日まで把握して花束を贈るほどの関係を築き、電話一本で回収できるようになった。

「製造設備は超一流なのに、事務所を体の大きいアメリカ人が歩くとミシミシ音がしていました。これが成功する事業なのですね」——視察した邦銀の頭取が漏らした言葉が、シンテツクの本質を言い表しています。

金川は1973年にシンテツクをロビンテツクとの合弁で設立。その3年後、1976年に合弁相手の持ち分を買収して100%子会社化。1978年にシンテツクの社長に就任し、世界最大の塩ビメーカーに育て上げた。


ジャック・ウェルチが「すばらしい」と言った日

金川が「先生」と仰ぐのは、GEを20年間にわたって率いたジャック・ウェルチです。

「ウェルチ氏こそ経営の天才だと私は思います」

そのウェルチが、東京に来た際のGE主催のパーティーで金川に声をかけました。その日の朝、日本の新聞に信越化学の中間決算が出ており、ウェルチはその内容をすでに知っていました。日本語の新聞を、出たばかりの朝に読んでいたのです。

「すばらしい」とウェルチは繰り返しました。金川は「いや、GEとは金額の桁がいくつも違いますよ」と答えます。するとウェルチは真顔で言いました。「そんな問題ではない」。

GEが買収によって業績を伸ばしてきたのに対し、信越化学は自ら開発して業績を上げてきました。ウェルチはその点を評価したのだと、金川は推測しています。

「欧米に負けない、世界に通用する企業となるようこれまで奮闘してきたことが間違っていなかったと感じ、私は素直に嬉しかったのを覚えています」


「私のボスは株主だけ」——誤解されやすい株主第一主義

本書の核心にある考え方が「私のボスは株主だけ」という株主第一主義です。この言葉は誤解されやすいが、金川の真意は明確です。

「株式会社の経営者にとって、ボスは株主だけです。会社経営の目的は株主に報いることにあります。従業員は大事だということです。しかし企業の目的ではなく、手段の一つなのです」

従業員は「手段」と言い切ることで、本末転倒に陥らないよう戒めているのです。「従業員のため」「社会のため」を経営の目的に据えると、いずれ競争力を失う——これが金川の持論です。

しかし、だからといって従業員を軽視するわけではありません。「私を切れば赤い血が流れる」という言葉が、その本質を示しています。

かつて金川はある外国企業の経営者に言いました。「あなたを切ったら青い血が流れる。でも、私を切れば赤い血が流れる」。冗談として言ったのですが、「基本に温かさを失ってはならない」という信念から来た言葉でした。

セカンドライフ支援制度もその表れです。工場の合理化にあたり、強制解雇ではなく、自主的に第二の人生を選ぶ人に本給37カ月分を上限とする特別加算金を払う制度を設けました。「従業員を欧米の経営者のように機械的に切って捨てるようなマネをする気には到底なれませんでした」——これが金川の言う「赤い血」の意味です。


「常在戦場」——山本五十六の座右の銘を借りた経営哲学

「百年の大計よりも、常在戦場の心構えを」——これが金川の経営スタンスを表す言葉です。

「常在戦場」は旧日本海軍の山本五十六・連合艦隊司令長官の座右の銘でした。金川は深い尊敬の念を抱く山本の関連歴史書を愛読し、この言葉を自らの経営哲学に取り込みました。

「百年の大計」という言葉が大企業の経営者から出てくるとき、それは実は足元を疎かにするための言い訳にすぎないと金川は言い切ります。

「トップアナリストから次の話を聞きました。『百年の大計だの長期的な展望に立ってだのと、足元をおろそかにするようなことを言う人が多いけれど、こんなことを言いたがる人の経営する会社に限って実績がない』——まったく同感です」

経営者はいつも戦場にいる。敵はいつ来るかわからない。一瞬の油断が命取りになる——この感覚こそが、不況下でも利益を出し続けるための根本にあると金川は説きます。


熱狂にあっても冷静に——塩ビ市況で断行した「逆張り」

常在戦場の精神が最もよく表れたのが、市況が好況のときの判断でした。

1999年頃、米国の塩ビ市況が大変な好況を呈していました。製品は品薄で、需要家は「値段はいいからとにかく品物をくれ」という状態。普通なら、この熱狂を最大限に享受しようとします。

しかし金川は違う行動に出ます。通常は10〜11月に行う需要家との契約更改を、熱狂がまだ続いている夏のうちに断行させたのです。「翌年には谷間の時期が来ると予測していた。だからこそ、こちらの要求の通りやすい熱狂の時期が続いているうちに、一番理想的な形で、需要家との関係をつくってしまおうと考えたわけです」

予測通り、翌年には熱狂は冷めました。やみくもな設備投資と買収を繰り返した同業者は手ひどいやけどを負ってしまいます。しかし、信越化学はあらかじめ備えていたため、ダメージを最小限に抑えることができたのです。

「熱狂にあっても冷静に判断し、時流にやみくもに乗らない。これが私のやり方なのです」


オールドエコノミーを切り捨てない——12年続けた肥料事業

金川のもう一つの哲学が「オールドエコノミーを切り捨てない」という姿勢です。

欧米の経営者は古いものを全部売って新しいものに特化し、時代のヒーローになろうとする。しかし金川はそうしなかった。その最たる例が肥料事業です。

信越化学創業当時から続くこの古い事業。規模も小さく将来性もないとして、金川が社長就任後に「やめよう」という声が2〜3度上がった。しかし金川は続けた。毎年1〜3億円の利益が出ていたからです。社長在任12年間の総計で20億円超の利益を計上した後、思うように利益が出なくなってからようやく売却しました。

「私は儲けることの難しさを、身をもって経験していますから、簡単に撤退したりはしません。今、新規事業で一億円を儲けるのは大変です」

光ファイバーブームの際も同様でした。アメリカの歴史あるガラスメーカーが古い事業を売り払って光通信に特化し、一躍ヒーローとなりました。しかし数年後、市況は急転。数千億円以上もの巨額赤字を出した企業もあったのです。このとき信越化学を救ってくれたのが「オールドエコノミー」の塩ビ事業でした。


同じように、地道な本業への集中で独自の世界を築いた経営者もいます。


CIに40億円——「研究所2つ建てられた」

無駄遣いへの徹底的な嫌悪も、金川経営の特徴の一つです。

かつて信越化学はCI(コーポレート・アイデンティティー)に40億円以上を使いました。オートバイレースのスポンサー、海外ロケのCM——素材メーカーらしくないことばかりでした。

「あのときにやったことと言えば、オートバイレースのスポンサーになったり、海外ロケまでしてCMを流したりなど、およそ素材メーカーらしくないことばかりでした。今でも残っているものと言えば、社名のロゴをつくって、看板や名刺を変えたことぐらいで、そのほかには何も実がありません」

「40億円もあれば研究所が二つもつくれます。そんな愚にもつかないことに使うくらいなら、研究所をつくるか、新規事業に使うほうがはるかにいいと思うのです」

本社のオフィスビルも買わない。
自社株を消却して見かけのROEを上げることもしない。
現金3000億円超を持ちながら、むやみに投資しない。

「現在、会社には3000億円を超える現金がありますが、私はムダなことには一切使うつもりはありません。そんなことをしているようでは、会社はいずれ潰れてしまいます」

バブル期にビジネスホテル事業案を「だめだ」の一言で却下したのも同じ発想です。「こんなところで競争して泥沼の戦いを繰り広げても、何の意味もない」——本業でないものには手を出さない。この原則が、後に「数百億円の損失を救った」と金川は振り返っています。


金川千尋のこだわり

本書を読むと、金川が経営者として積み重ねてきた習慣が浮かびあがります。

経営書は読まず、歴史書を読む——金川は六高(旧制第六高等学校)在学中に歴史研究会で学び、その仲間との会合を半世紀以上続けました。毎年9月に開かれ、会員が講師役を務めて発表するのです。「今でも大体20人ほどは出席しています」。歴史は現代を冷静に見る目を与えてくれます。「経営は実践から学ぶしかない」という信念から、経営書はほとんど読まないのです。

課長時代から同じ家に住み続けた——「わが家も、課長のときから同じ家のままです。社長になってからも課長当時と何ら変わらないままですから、家内からは文句を言われています」。このエピソードに込められたのは、ムダ排除の精神だけでなく、「おごる平家は久しからず」への警戒感です。「引っ越せば、半年ぐらいは仕事に悪影響が出てしまいます」と言う合理性と、贅沢が自分を変えることへの恐れが混在しています。

唯一の贅沢は奥日光への旅——毎年夏の終わりに栃木県の奥日光小西ホテルに2〜3日泊まるそうです。これをもう十数年続けています。経営者としての激務を支えるリセットの場でした。


金川千尋ゆかりの地

アメリカ・テキサス州(シンテツク本社):金川が経営の原点を形成した地。1973年の設立から世界最大の塩ビメーカーへと育て上げるまでの「20年を超える苦闘の歴史」が詰まっています。「製造設備は超一流なのに、事務所を体の大きいアメリカ人が歩くとミシミシ音がしていました」——この逸話が、合理的経営の本質を表しています。

ニカラグア(カントリーリスク体験の地):1970年から金川が塩ビとコンパウンドの工場を運営した中米の国。10年間は「わが世の春」を謳歌するほど高収益でしたが、1979年の革命でソモサ大統領が亡命・暗殺され、通貨が1ドル7コルドバから1万コルドバに暴落。信越化学は社員全員を引き揚げた。「カントリーリスクとはこのようなものです。そのことを実地に肌で知ることが出来たことは、私にとって非常によい経験となりました」。

旧制第六高等学校(現・岡山大学):金川が歴史研究会で学んだ地。大野真弓先生から英国の近代史と植民地主義を学び、「史実を正確に集め、歴史を客観的に理解する」姿勢を身につけました。この歴史研究会は半世紀以上続き、金川の歴史観と経営哲学の根幹を形成しました。


金川千尋から学ぶ、3つの教訓

1. 「熱狂の中でこそ冷静に」——好況期に谷間の備えをする 塩ビ市況が沸騰していた夏、金川は契約更改を断行し翌年の谷間に備えた。光ファイバーブームに乗らず古い塩ビ事業を守りました。「熱狂はめったにないが、必ず冷める。そのとき儲けた分で次の谷間に備えよ」——これは業種を問わず応用できる経営の鉄則です。過剰な設備投資、流行に乗っての多角化、買収の繰り返し——いずれも熱狂の中で生まれる意思決定です。経営者に求められるのは、熱狂の中でも冷静さを失わないことだと金川は言い続けました。

2. 「100の力の人に200の仕事を与える」——有能な人材の伸ばし方 能力が100の人に150か200の目標を与えると、人間はやれるものだ——これが金川の人材育成論です。小田切会長が金川自身にも同じことをしたのと同じです。既に超多忙だった金川に国内塩ビ再建を追加で任せました。結果、金川は「ムダなことをしている余裕がなくなり」、タイムマネジメントを極め、優先順位を見極める力を磨いた。ただし「これは実績のある有能な人に限る」という大前提があります。実績なき人への過大要求は組織を壊す、という戒めも忘れていません。

3. 「朝令暮改は当たり前」——前提が変われば結論を変える勇気 「未来は偶然の積み重ねです。完璧な予測を立てるなどということはあり得ません」——金川は自分の予測にこだわりません。前提となる事態に大きな変化が起きれば、数カ月前に出した方針を素早く変える。これを「朝令暮改」と呼び、恥とは思わない。自分の予測に縛られて判断を誤るようなことは、経営者には許されない。固定した経営モデルを持たず、状況に応じてその場に最も合うモデルをその都度つくる——これが金川の「型にとらわれないモデル」の本質です。


この記事で語りきれなかった『社長が戦わなければ、会社は変わらない』の魅力

本書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』には、ここで紹介しきれなかった論点がまだ多くあります。

一つ目は、人事部の官僚主義との戦いです。「人事部に強い権限を持たせない」「安易に新卒を採用しない」「評論家よりもプロモーターに仕事を任せる」——組織の官僚化を防ぐための具体的な処方箋が第2章に詳しく書かれています。年功序列から実績主義への転換も、金川が社長就任後に地道に進めてきた改革の一つです。

二つ目は、ニカラグア事業の詳細です。中米5カ国の関税同盟を利用して輸入関税を200%に上げ、外部からの製品をシャットアウトする関税案を政府に通した。10年間、「中米で一、二を争う高収益会社」として君臨したが、1979年の革命で全てが崩壊した。投資額の3〜4倍は現金回収済みだったため実損ゼロで撤退できた一方、この体験が金川の「カントリーリスクは絶対に踏んではいけない」という鉄則を生んだ話は、海外進出を考える経営者にとって必読の教訓です。

三つ目は、シンテツク設立・100%子会社化をめぐる社内の猛反対です。1973年の合弁設立後、1976年に合弁相手ロビンテツクの持ち分を買収して100%子会社化する決断をした際、取締役会は猛反対した。「社運を賭けた決断は人への信頼から」という章に、その緊張した場面が詳しく書かれています。結果的にこの決断が、信越化学を世界的な高収益企業にする礎となりました。

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まとめ|金川千尋が教えてくれること

不況を言い訳にしない。ムダには一円も使わない。熱狂の中でも冷静を保つ。本業以外には手を出さない。そして、社長が戦わなければ会社は変わらない——。

金川千尋が社長に就任したのは1990年、64歳のときでした。バブル崩壊の嵐の中で、官僚主義に蝕まれた組織を変え、シンテツクで磨いた合理的経営を全社に展開し、7期連続最高益(後に15期連続増益)という日本経済史に残る実績を積み上げました。

2023年1月1日、金川千尋は96歳でその生涯を閉じました。しかし、本書『社長が戦わなければ、会社は変わらない』に記された経営哲学は、不況下でいかに戦うかを問われる全ての経営者に問いかけ続けています。

「常在戦場——経営者はいつも戦場にいます。敵はいつ来るかわかりません。経営者は戦場にいるということを忘れず、いつでも戦えるように備えておかねばなりません」

金川の経営哲学に興味を持った方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。


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参考文献:金川千尋『社長が戦わなければ、会社は変わらない——不況を言い訳にしない実践経営学』(東洋経済新報社)