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「とんでもない高校生が札幌にいるらしいぞ!」
1970年代の後半。北海道の高校生が、当時最先端のコンピュータ、ヒューレット・パッカードの電卓でゲームを作り上げ、日本の代理店に送りつけた。先方は驚愕した。
当の本人は、自分がなにをしたのか、まるでわかっていなかった。
「自分の価値が、まったくわからなかった」——岩田聡はそう振り返っています。この無自覚な少年が、やがて任天堂を率い、ニンテンドーDS、Wiiを世界に届け、「ゲーム人口の拡大」という概念を生み出した人物になっていきます。
本書『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』は、2015年7月11日に55歳で急逝した岩田聡の言葉を、ほぼ日刊イトイ新聞が再構成した一冊です。岩田聡本人は著書を出す意志がありませんでした。それでも糸井重里、宮本茂ら周囲の証言と、数々のインタビューから紡がれた言葉の数々は、一人の人間の思考と哲学をくっきりと浮かび上がらせています。
岩田聡のプロフィール
| 氏名 | 岩田聡(いわた さとる) |
| 生没年 | 1959年12月6日〜2015年7月11日(享年55歳) |
| 出身 | 北海道 |
| 学歴 | 北海道大学工学部卒業 |
| 経歴 | HAL研究所(アルバイト→代表取締役社長)→2002年任天堂代表取締役社長 |
| 主な実績 | ニンテンドーDS、Wii を世界に送り出す。「ゲーム人口の拡大」を掲げ、ゲームの裾野を広げた。HAL研究所時代は『星のカービィ』『スマッシュブラザーズ』の制作に深く関わる |
| 著書関連 | 『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』(ほぼ日、2019年) |
電卓でゲームを作った少年——「コンピュータが得意なこと」を知っていた
岩田聡がコンピュータに出会ったのは、高校生のときです。
まだパソコンが普及するはるか前。手にしたのは、プログラム計算ができる電卓でした。当時としては最先端の機械でしたが、今から見れば信じられないほど原始的なものです。「=」ボタンすらなく、日本語のように最後に「+」を押して計算するような代物でした。
その電卓に岩田聡はのめり込みました。誰も思いつかないような方法でゲームを作り上げ、日本ヒューレット・パッカードの代理店に送りつけた。受け取った先方が仰天したのは前述の通りです。
この体験から岩田聡が得た洞察は、単なる「プログラムが得意」という話ではありませんでした。
「コンピュータが得意なことはなにか。苦手なことはなにか。高校生のときに一応ちゃんとわかっていた」
機械の限界と可能性の両方を、実際に手を動かしながら体で理解していた。この感覚は後の任天堂でも生き続けます。ハードの制約の中でこそ、想像を超えるゲームが生まれる——岩田聡の哲学の原点が、ここにあります。
HAL研究所との出会い——「おもしろくておもしろくて、居着いてしまった」
北海道大学に進学した岩田聡は、とあるパソコンショップで一人の店員と出会います。
「ああ、たしかに」。その一言がきっかけで仲よくなり、やがてその店員がHAL研究所という会社を作ることになります。「バイトしに来ない?」と誘われ、岩田聡はプログラムの仕事を始めます。
おもしろくておもしろくて、けっきょく居着いてしまった。
大学は4年でちゃんと卒業しました。ただ、大学よりHAL研のバイトの方がずっとおもしろかった。後の仕事で実際に役立ったことのほとんどは、自分でやって覚えたものだったと岩田聡は語っています。
ファミコンが登場したとき、岩田聡は電撃を受けます。「何十万円もしたパソコンより、1万5千円のファミコンのほうがゲームを遊ぶうえで圧倒的に適している。このマシンで世の中が変わる気がした。どうしてもこれに関わりたい」。
スーツには明らかに慣れていない20代前半の若者が、単身京都の任天堂に乗り込み「仕事をやらせてください」と頼み込みます。受け取った任天堂も任天堂だと思うと笑えますが、その一心さが仕事を引き寄せました。ファミコン初期の『ピンボール』『ゴルフ』は、岩田聡がHAL研究所のメンバーとともに作ったものです。
28歳で社長、15億円の借金——1ヶ月間、全社員と話し続けた
1992年。岩田聡、28歳のとき。HAL研究所は経営危機に陥ります。負債は15億円。取引銀行の態度は一変しました。「ちゃんと返してくれないと困るんだからな―」と高圧的に迫る銀行もあった。
そこで社長に就任したのが、岩田聡でした。
「経営危機に陥った会社というのは、社員から見たら不信のかたまりですよね。だって、『会社の指示に従って仕事をしていた結果がこれか?』と思って当然ですから」
岩田聡がまずやったことは、指示でも改革でもなく、「話を聞くこと」でした。就任後1ヶ月かけて、社員全員と面談します。1人あたり3時間。それを6〜7年続けました。
「人は逆さにして振らないと、こんなにもものを言えないのか」
一対一で向き合って初めて語り出す言葉がある。岩田聡はその発見に驚き続けました。面談は義務ではなく、「相手がすっきりしたらやめる」というスタンスで続けられました。
この姿勢が、社員の信頼を少しずつ取り戻していきます。
そして信頼の証明として、このとき現れたのが驚くべき事実でした。経営危機に陥っても、「わたしたちとの契約を切ろうとした会社は1社もなかった」。「なにかお手伝いできることがあったらなんでもしますよ」と言ってくれた取引先があった。
「もし逃げたら、自分は一生後悔する」——その言葉の重みが、岩田聡の経営の根幹にあります。
こうした逆境からの立て直しは、岩田聡だけではありません。
他の経営者の事例もあわせて見ることで、より深く理解できます。
2万6千本の注文を捨てた日——『星のカービィ』誕生の舞台裏
HAL研究所が会社として息を吹き返す大きな転機となったのが、『星のカービィ』です。
もともとは『ティンクルポポ』というタイトルで、ゲームボーイのソフトとして発売予定でした。広告も出ていて、注文数は2万6千本。ところが宮本茂が言いました。「このまま出すのはもったいない」。
発売中止。社内は大激論でした。営業の立場からすれば、メンツ丸潰れです。
しかし中止を決断した。
磨き直された作品は、ゲームボーイ版だけで500万本以上を売り上げることになります。2万6千本の200倍です。その後のカービィシリーズ累計は世界で2000万本を超えました。
「あのときの開発中止がなければ、現在の『カービィ』シリーズはないんですね」
岩田聡はそう静かに語ります。目先の2万6千本より、将来の2000万本を選んだ決断。数字の前に「何が本当にいいものか」を問い続ける姿勢が、ここに凝縮されています。
「ゲーム人口の拡大」——任天堂社長として掲げた旗
2002年、岩田聡は任天堂の代表取締役社長に就任します。
前社長・山内博が築いたものへの敬意を忘れなかった。「こんなにすさまじいことを、自分が同じようになしとげられるとは到底思えない」と言い続けながら、同時に「現状否定から入らない」姿勢を貫きます。変わるべきことはある。しかし「誠実にやってきたアウトプットに対して現状否定をすることは、やってはいけない」と。
任天堂社長として岩田聡が掲げたのが、「ゲーム人口の拡大」です。
ゲームをしない人がなぜしないのか。難しいから。時間を取られるから。そうした「ゲームから離れた人」をもう一度振り向かせる。ニンテンドーDSはタッチスクリーン、Wiiはコントローラーを振るという直感的な操作で、この問いに答えようとした製品でした。
糸井重里との協働から生まれた「大人も子供も、おねーさんも。」というコピーを、岩田聡は「それがそのまま『ゲーム人口の拡大』だ」と語っています。理念は言葉より先に、仕事の形として存在していたのです。
「くだらねぇ」は最高のほめことば——プログラマーとしての核心
岩田聡を語るとき、外せないエピソードがあります。
試作品の検証中、椅子の上にゲームボーイを乗せて、椅子をくるくる回す。するとゲームの中のレコードプレイヤーが、その回転に合わせて動き出す。回す速度が変われば、音楽のテンポも変わる。
「わたしは……あのとき……延々と、椅子を回し続けていたんですよね。ときどき、『くだらねぇ』と言いながら」
「くだらねぇ」と言いながら、ものすごく喜んでいた。本書『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』の中で最も愛されている場面のひとつです。
「『くだらねぇ』は最高のほめことば」
岩田聡のゲーム観の核心が、ここに詰まっています。すぐに役立つわけでも、誰かに自慢できるわけでも、お金になるわけでもない。でも思わず夢中になってしまう。そういう「くだらなさ」の中にこそ、ゲームの本質があると岩田聡は確信していました。
岩田聡のこだわり
本書『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』を読み進めると、岩田聡を岩田聡たらしめた習慣と信念が浮かびあがります。
「わからないことを放っておけない」——これが本書で紹介される岩田聡の本質です。高校生が電卓でゲームを作った動機も、プログラマーとして言われた通りにせず自分で解決策を探した姿勢も、任天堂社長として「なぜゲームをしない人がいるのか」を問い続けた思考も、すべてつながっています。わからないまま進むことが、岩田聡には耐えられなかった。
「自分がやるのが最も合理的なら、やる」——英語のスピーチが苦手でも、任天堂の社長としてE3のステージに立ち続けました。「誰かに『やれ』と言うよりは、自分がやったほうがいいと思うからやっています。その判断があるから、覚悟が決まるんですよ」。得意か苦手かではなく、「自分がやるべきかどうか」で動く人でした。
「次もあいつと仕事がしたいと言わせよう」——これが岩田聡の長年のモットーです。プログラマーとして、社長として、その立場が変わっても変わらなかった仕事への姿勢。「もうあいつとはごめんだとは、言われたくないですからね」。この言葉一つに、岩田聡の誠実さが宿っています。
岩田聡ゆかりの地
北海道(出身地・コンピュータとの出会い):高校時代に電卓でゲームを作り始めた場所。「とんでもない高校生が札幌にいるらしいぞ!」と言わせた原点の地です。岩田聡はここで、誰に教わるでもなくコンピュータの本質を体で理解していきました。
山梨県・HAL研究所:岩田聡がプログラマーとして最初の仕事をはじめ、後に28歳で社長として会社を立て直した場所。宮本茂が深夜に電話をかけてきたのもこの時代。夜中にラーメンを食べながら語り合った20年間が育まれた地でもあります。
京都・任天堂本社:「どうしてもこのファミコンの仕事がしたい」とスーツを着慣れない体で乗り込んでいった、出会いの地。そして2002年から2015年まで、任天堂代表取締役社長として挑み続けた場所です。DSとWiiという2つの革命が生まれた舞台でもあります。
岩田聡から学ぶ、3つの教訓
1. 「相手がすっきりするまで話を聞く」——信頼はそこからしか生まれない
HAL研究所の経営危機の後、岩田聡は1ヶ月で全社員と面談し、それを6〜7年続けました。「人は逆さにして振らないと、こんなにもものを言えないのか」という発見から始まった習慣です。指示を出す前に、まず聞く。聞き切った後でなければ、言葉は届かない。この順番の徹底が、崩壊した信頼を一つひとつ積み上げていきました。組織の再建に奇策はない、と岩田聡の実践は示しています。
2. 「一つのことが、あちらもこちらも解決する」——本質を探し続ける
宮本茂を評してこう語っています。「一つのことをすると、あっちもよくなって、こっちもよくなって、予想もしなかった問題まで解決するときがある。そういう『ひとつのこと』を、宮本さんはないか、ないかって、しつこく延々と考えている」。岩田聡自身もまた、同じように考える人でした。局所的な解決ではなく、問題の根を一本抜くことで複数の問題が同時に消えるような解を探す。この思考習慣が、プログラマーから経営者まで一貫していました。
3. 「得意なことを伸ばす」——向き不向きを直視する誠実さ
「苦手なことはやめたほうがいい。だって、向いていないのだから」と岩田聡は言います。同時に、「会社として得意なことをする集団であろうとしても、人と人が一緒に仕事をするためには、最低限やってもらわなければならないことはある。その最低限をなるべく小さくすることが、経営者としてただしい」とも語っています。全員に万能を求めず、それぞれの得意を最大化しながら最低限のルールだけで動く組織。それが岩田聡が目指した任天堂の姿でした。
この記事で語りきれなかった『岩田さん』の魅力
本書『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』には、まだ紹介しきれていない言葉が多くあります。
一つ目は、宮本茂との20年間の「割り勘」のエピソードです。深夜に一緒にラーメンを食べに行って、いつのまにか割り勘になって、社長と専務になってからも割り勘が続いた。「上司と部下じゃないし、やっぱり友だちだったんですよ」と宮本茂は語っています。組織のヒエラルキーを超えたこの関係が、任天堂の生み出すものの根本にある気がします。
二つ目は、「バカもん!と言える新人」という評価軸です。叱りやすい人間と、腫れ物に触るような扱いが必要な人間がいる。前者のほうが圧倒的に多くのことを短期間で学べると岩田聡は言います。「飾るな」「知らないことを恥ずかしがらない」——これが新人に本当に求められていることだという洞察は、多くの組織に刺さります。
三つ目は、本書の最後にある「病気のこと」を宮本茂に伝えた場面です。岩田聡は電話でもメールでもなく、直接会って伝えたかった。亡くなった後、宮本茂が「静かに横になっている岩田さんに会えた。いつものスーツを着ていた。とんでもなく若い」と語る場面は、言葉を重ねる必要がありません。
📚 [岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。(ほぼ日)を読んでみる]
まとめ|岩田聡が教えてくれること
「わたしはずっと前から、自分が誰かと仕事をしたら『次もあいつと仕事がしたい』と言わせようというのがモットーだったんです」
HAL研究所でアルバイトをしていた学生時代から変わらず、任天堂の社長になってからも変わらなかった言葉です。
肩書きも、規模も、責任の重さも、まったく違う場面で積み重ねてきた仕事のすべてが、この一言に向かっていました。
岩田聡は、2015年7月11日に旅立ちました。享年55歳。本人が著書を出す意志を持っていなかったにもかかわらず、ほぼ日刊イトイ新聞が編んだこの一冊には、岩田聡が誠実に向き合ってきた「人」「ゲーム」「組織」への言葉が、静かに並んでいます。
読み終えると、「次もあの人と仕事がしたい」と思わずにはいられません。
本書『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』は、ゲームや経営に興味がない人にとっても、深く刺さる一冊です。ぜひ手に取ってみてください。
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参考文献:ほぼ日刊イトイ新聞編『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』(株式会社ほぼ日、2019年)

