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井深大|ソニー創業者が貫いた「自由闊達にして愉快なる」ものづくりの哲学

ソニー創業者・井深大の書籍『自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』を紹介する記事のアイキャッチ画像

工場の入り口には、いつもオムツが干してありました。

1947年、東京・御殿山。井深大が仲間たちと集まった工場は、床はがたがた、屋根は板ぶきでスキ間だらけ、雨が降り出すと室内でかさをさすような場所でした。入り口には隣家のオムツが常に下がっていて、くぐらなければ自分たちの玄関にたどり着けません。便所はすぐいっぱいになる。

それでも、全員がひとつの場所に集まって仕事ができる。それがたいへんうれしいことだった——と井深大は回顧録に書き残しています。

このバラックから、世界のソニーが生まれました。

本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』は、ソニー創業者・井深大が1962年に日本経済新聞に連載した自伝に、晩年のエピソードや語録を加えた一冊です。電熱マットで食いつなぎ、テープレコーダーで泣き、トランジスタラジオで世界に打って出た——技術と夢に憑かれた男の89年が、朴訥で率直な言葉で綴られています。


井深大のプロフィール

氏名井深大(いぶか まさる)
生没年1908年4月11日〜1997年12月19日(享年89歳)
出身栃木県日光町(現日光市)
学歴早稲田大学理工学部電気工学科卒業(1930年)
経歴PCL(写真化学研究所)→日本光音→1946年東京通信工業(現ソニー)設立→ソニー株式会社会長→名誉会長→ファウンダー名誉会長
主な実績盛田昭夫とともにソニーを創業。日本初のテープレコーダー量産化、世界で最も早い段階のトランジスタラジオ商品化、トリニトロン・カラーテレビ開発。文化勲章受章(1992年)
著書関連『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)

機械をいじる喜びの原点——電鈴から始まった少年の探求

3歳のとき、父を亡くしました。

代わりに井深大の傍らにいたのは祖父でした。会津朱雀隊として幕末を生き延びた武士の血を引く祖父は、折に触れて父がいかに科学的な人物だったかを語り聞かせました。その言葉が、少年の科学への芽を育てていきました。

小学2年生のとき、祖父に頼んで電鈴と針金と乾電池を買ってもらいました。針金を伸ばすと電圧が足りなくなって鳴らなくなる不思議さ。電池の両極を繋ぐと火傷するほど熱くなる驚き。コイルはすぐ分解されて、隣家との電信機に変わりました。

アセチレン・ランプを分解しようとして爆発させたこともあります。肝をつぶしましたが、それがさらに好奇心を掻き立てました。

「機械をいじっているのがいちばん楽しかった」——本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』の最初のページにある、この一言が井深大の生涯を貫く動機でした。それは89歳で生涯を閉じるまで、ただの一度も変わりませんでした。


戦時中の出会い——盛田昭夫との運命的な邂逅

1943年。軍の研究会がひとつの縁を生み出しました。

当時、海軍の依頼を受けた新兵器研究会に、井深大は参加していました。そこに現れたのが、愛知県の名家出身の若者、盛田昭夫でした。

「頭のいい青年だな」という直感的な印象を、井深大は後に語っています。二人は意気投合し、終戦後の混乱の中でともに会社を立ち上げることになります。

「盛田君以下のこのうえない良いメンバーに囲まれて生きてきた。この人たちは無謀にも近い私の夢を実現させて楽しませてくれる。こんな幸福は世の中にそんなにあることではない」——のちに井深大はそう書き残しています。

終戦後、仲間と東京に戻り「東通研」を再出発させ、1946年5月、東京通信工業株式会社を設立しました。資本金19万円。従業員20名。


「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」——設立趣意書に込めた夢

井深大が起草した東京通信工業の設立趣意書は、今もソニーの原点として語り継がれます。

「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」

利益や規模ではなく、技術者が思いきり仕事のできる場所を作る。これが出発点でした。

趣意書には「経営規模としては、むしろ小なるを望み、大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、技術の進路と経営活動を期する」とも記しました。

「大企業にできないことをやる」という哲学は、この趣意書に最初から書いてありました。後年、独創的な商品を開発して成功するほど会社が大きくなり、自分の望む方向から離れていくという皮肉な現実を、井深大は生涯感じ続けることになります。それでも「夢とわがままは当分続くことだろう」と書いています。


電熱マットで生き延びた戦後——インチキ商品と呼んだ資金繰り

バラックに集まっても、資金がなければ会社は続きません。

終戦直後の混乱期、新円切り替えで資金繰りに行き詰まった東通工が手がけたのは「電熱マット」でした。

細いニクロム線を格子状に美濃紙の間にのり付けし、コードをつける。石綿も繊維カバーも手に入らないから、本の表紙用レザークロスで代用してミシンをかける。「気がとがめる」から会社名は入れず、「銀座ネッスル商会(熱する)」とシャレて逃げた——と本書には書かれています。

本人が「インチキ商品」と呼んだこの電熱マットは、売るものがない時代にあっただけでなく、冬に向かう季節だったため飛ぶように売れました。家族総出でミシンをかけ、コードをかがって、新円を稼いだのです。

ところが間もなく苦情が殺到します。法隆寺が火事を起こしたとのニュースが流れた日、問い合わせの電話が鳴り止まなかった。電熱マットの発火を疑う苦情でした。実際には電熱マットの製品欠陥でしたが、法隆寺の火事は別の原因でした。

この泥臭い出発が、のちの世界企業の土台です。


手をとり合ってうれし泣き——テープレコーダー完成の夜

「大衆商品をかねがねやってみたかった」。

ラジオはどこのメーカーも手をつけていた。それ以外となると録音機しかない——そう考えた井深大は、テープレコーダーの開発に乗り出します。

開発の中心を担ったのは、早稲田で教えていた縁で引っ張ってきた技術者でした。「一日中努力しているのに翌日はもっと良い考えのものが手づくりでできあがっている神様のような人」と井深大が評するほどの逸材でした。

苦労の末、ついにテープレコーダーが完成した夜のことが、本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』に綴られています。

「やっと成功、手をとり合ってうれし泣き」

その短い章タイトルの4文字——「うれし泣き」——に、どれほどの苦労が凝縮しているか。試行錯誤の末に完成した製品は、初年度は学校や放送局への売り込みに始まり、やがて全国の家庭の3分の1以上が1台ずつ持つほどの商品に育ちました。


こうした技術開発の苦労と挫折は、井深大だけのものではありません。 他の経営者の逆境と立て直しをあわせて見ると、より深く理解できます。


「むずかしいからこそやる価値がある」——トランジスタへの賭け

1952年、渡米中の井深大に情報が届きました。ウェスタン・エレクトリック社が、3年前に発明したトランジスタの特許を他社に使わせるというのです。

「縁なき衆生」と思っていたトランジスタに、俄然関心が高まりました。交渉の末、特許使用料2万5000ドルでライセンスを取得します。当時の日本では外貨取得自体が難しく、通産省の特別許可を要するほどの金額でした。

問題は技術でした。トランジスタは理論上は素晴らしいが、実用化は極めて難しかった。社内からも「なぜこんな困難なことに手を出すのか」という声がありました。

井深大はこう答えています。「むずかしいからこそやる価値がある」。

開発は難航しました。良品の歩留まり(製品化できる割合)が5%——100個作って5個しか使えない状態になったとき、井深大は世界で最も早い段階のトランジスタラジオの商品化に踏み切ります。

「世界で2番目のトランジスタラジオの商品化はかくしてできあがった。世界で2番になれるのは当然である」——本書の語り口は、飄々としてどこか愉快です。最終的にソニーのトランジスタラジオは世界市場に打って出て、SONYの名前を世界に知らしめます。


同じく「むずかしいから価値がある」という信念で前例のないものを作り続けた経営者もいます。


「苦労マトロン」と呼ばれた日々——トリニトロン完成への執念

1960年代。カラーテレビの時代が来ていました。

世界中のメーカーが採用していたRCAのシャドーマスク方式を、井深大は選びませんでした。「バスに乗り遅れるな式の現実路線を取らなかった」のは、意地っ張りではなく哲学があったからです。「顧客を驚かすほどの技術でなければ、開発する意味がない」。

選んだのは「クロマトロン」という別方式でした。これが深みにはまります。技術的な壁が次々と現れ、試作を重ねても実用化できない。社内では「クロマトロン」ならぬ「苦労マトロン」と呼ばれるようになりました。

それでも井深大は諦めませんでした。失敗したクロマトロンを捨て、まったく別のアプローチを模索します。単電子銃3電子ビームとアパーチャーグリルの組み合わせ——1967年10月、試作機の電源が入れられました。

「美しい色、明るい画面、誰一人として口を開く者はなく、食い入るように画面を見つめていた。完成の知らせを聞いて、井深たちも駆け付けてきた。『皆さん、ご苦労さんでした……』激励の言葉をかけてやりたいと思うものの、井深はそれだけ言うのが精いっぱいだった。もう後は声にならない」

本書が引用するこの場面は、技術者の経営者として生きた井深大のすべてを物語っています。

この製品に「トリニトロン」と命名しました。キリスト教の三位一体(トリニティ)と電子管(エレクトロン)の合成語。赤・青・緑の三原色と、中心となって開発に当たった三人の技術者への敬意も込められています。


井深大のこだわり

本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』を読み進めると、井深大という人間の核心が浮かびあがります。

「どこにもない物をつくる」——テープレコーダーも、トランジスタラジオも、トリニトロンも、どれも「すでに存在するものの改良」ではありませんでした。「大企業の大経営なるがために進み得ざる分野」を狙い続ける。マーケットが存在しないところに、マーケットを作る。「マーケット・クリエーションを伴うものがいちばんの新しい製品だ」と晩年の講演で語っています。

「自分の欲しいものを作る」——カラーテレビ開発のキーパーソンだった技術者は「井深さんがすごいのは、何を作るべきか明快な目標を立てて、そのために必要とする技術を万難を排して開発する点だ」と証言しています。消費者調査や市場分析ではなく、まず井深大自身が「これが欲しい」と思うものを作る。金の食パンを発案した鈴木敏文と同じ直感——「素人の目線で欲しいと思うもの」が、イノベーションの起点でした。

「感性を育てよ」——晩年の井深大は知識や理屈より感性を育てることを強調しました。幼児教育や東洋医学への傾注は、晩年の「飛躍」ではなく、技術者としての生涯を通じて培った信念の延長にありました。「突き詰めれば人がすべて」——ものづくりは機械ではなく人間の問題だ、という原点に、最後まで立ち返り続けていました。


井深大ゆかりの地

栃木県日光市(出生地):1908年4月11日、古河鉱業日光製銅所の社宅で生まれた場所です。3歳で父を亡くし、祖父母のもとで育ちました。「幼い頭に植えつけられた科学への芽ばえが、私の一生涯の職業を決める一つのチャンスになった」と後に語っています。

東京・品川区御殿山(ソニー創業の地):雨漏りのするバラックに入り口のオムツ——ここからソニーは始まりました。「それでも全員が1カ所に集まって、これから仕事がやれるというのはたいへんうれしかった」。現在もソニーグループの本社が置かれるこの地が、「自由闊達にして愉快なる理想工場」の出発点でした。

早稲田大学(学業・技術の礎):1930年に電気工学科を卒業した場所。在学中、陸上競技の対抗試合のために手づくりで拡声装置を作ったエピソードが本書に登場します。「やってみなければわからない」精神を形成した環境でもありました。


井深大から学ぶ、3つの教訓

1. 「むずかしいからこそやる価値がある」——難易度は動機であって障壁ではない

ウェスタン社のトランジスタ特許を取得したとき、社内は「なぜこんな困難なことを」と反発しました。クロマトロン方式のカラーテレビに固執したとき、RCAの既存技術に乗ればよいという声がありました。しかし井深大は「顧客を驚かすほどの技術でなければ開発する意味がない」と繰り返します。難しいこと、前例のないことへの挑戦こそが、大企業には真似できない独自性の源泉だという信念が、ソニーのすべての製品に貫かれています。

2. 「自由闊達にして愉快なる」——環境が人を動かす

設立趣意書に刻んだこの言葉は、単なるスローガンではありませんでした。雨漏りのするバラックでも、全員がひとつ屋根の下に集まって仕事できることが「たいへんうれしい」と感じられた空気がソニーの原点です。技術者が思いきり夢を追える環境を作ることが経営者の仕事だ——その発想は、岩田聡がHAL研究所で実践した「考える→発言する→行動する→反省する」の哲学と通じるものがあります。人が力を発揮するのは、管理されるときではなく、自由と信頼を与えられたときです。

3. 「夢とわがままは当分続く」——終わらない好奇心が組織を動かす

「私からソニーを引き去ったら何も残らない。また残らなくても少しも悔いないどころか、たいへん満足に思っている」——この言葉が井深大の経営者としての本質です。利益のため、規模のためではなく、「私のやりたいこと、私の夢を実現させる場がソニーだった」。89歳で世を去る直前まで幼児教育と東洋医学の研究を続けていました。終わらない好奇心が会社を動かし、周囲の人を動かし、世界市場を動かしていきました。


この記事で語りきれなかった『私の履歴書』の魅力

本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』には、まだ紹介しきれていないエピソードが多くあります。

一つ目は、「アメリカさんにたてつく」テープレコーダーの営業です。テープレコーダーをアメリカに売り込もうと渡米した際、「なかなかそうは問屋がおろさなかった」とあります。しかし特殊なレコーダーの日本での使い方はアメリカより高度で、言語教育の現場でも先を行っていた。「日本の技術をアメリカに売る」という逆転の発想が、この時期に芽生えています。

二つ目は、エサキダイオードの誕生の場面です。江崎玲於奈が在籍していた時期に開発されたこの素子は、のちにノーベル物理学賞につながります。「トランジスターにつぐ大きな発明として注目されている」と井深大が書いた言葉の重みは、後年になるほど増します。才能ある技術者に自由を与えた環境が、世界的な発明を生みました。

三つ目は、ウォークマン開発のもうひとつの物語です。本書の第2部に収録された「ウォークマン開発、もう一つの物語」には、「芸術と科学の対立」と呼ばれたデジタル化をめぐる社内の葛藤が描かれています。アナログにこだわり続けた井深大と、デジタルに賭けた技術者たちの相克が、ウォークマンというまったく新しい製品カテゴリーを生む原動力になっていく過程は、ものづくりの組織論として示唆に富んでいます。

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まとめ|井深大が教えてくれること

オムツの下をくぐって入る工場から、世界のSONYへ。

その道のりには、電熱マットで食いつなぎ、テープレコーダーで泣き、トランジスタに5%の歩留まりで踏み切り、「苦労マトロン」と揶揄されながら7年がかりでトリニトロンを完成させた日々がありました。

「私の履歴書がすっかりソニーの履歴書になってしまった」と井深大は書いています。「でも私からソニーを引き去ったら何も残らない。また残らなくても少しも悔いない」と。

自由闊達にして愉快なる場所で、むずかしいことに挑み続ける。それが井深大の生涯であり、ソニーという会社の本質でした。

本書『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』は、世界企業の経営論ではなく、機械いじりが大好きだった少年の一生の記録です。その純粋さが、今もページのあちこちから伝わってきます。ぜひ手に取ってみてください。


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参考文献:井深大『井深大 自由闊達にして愉快なる 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)