この記事には広告を含む場合があります。
記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
昭和35年3月、東京大学教育学部を卒業した若者が、就職しない道を選びました。
東大新聞の広告セールスで年に50万円強を稼いでいた江副浩正さんは、「サラリーマンになれば時間と規則に縛られる。収入も三分の一以下に減る」と考え、就職欄に「就職せず」と書いてもらったまま自営の道に踏み出しました。
その年の10月、資本金60万円で「株式会社大学広告」を設立。事務所は、教育学部の先輩・森稔さんが学生時代に建てた、南佐久間町(現・西新橋)の最初の森ビルの屋上にある物置小屋でした。梯子段で登る屋上にあるブリキとトタン屋根の物置小屋を三つに仕切った一つ、四畳半ほどの広さを月額7,000円で借りました。二つしか置けない机と椅子は古道具屋で買い、リヤカーを借りて運んだのです。
雨の日は雨漏りがします。 森稔さんに話すと「仕方がないよ。モリビルだもの」と笑って言われたといいます。
その物置小屋から、やがて1兆円企業が生まれることを、当時の誰も想像していませんでした。
江副浩正さんの基本プロフィール
| 氏名 | 江副浩正(えぞえ・ひろまさ) |
| 生年 | 昭和11年(1936年)、大阪府生まれ |
| 学歴 | 東京大学教育学部 |
| 経歴 | 東大新聞の広告コミッションセールスマン(19歳)→株式会社大学広告創業(23歳、昭和35年)→日本リクルートメントセンター→日本リクルートセンター→リクルート(昭和59年)→昭和63年退任 |
| 社訓 | 「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」 |
| ニックネーム | エゾリン |
| ゆかりの地 | 西新橋(森ビル物置小屋・創業の地)、銀座8丁目(リクルート本社ビル)、安比高原(安比高原スキー場) |
19歳のコミッションセールスマンが見つけた「これだ!」
本書を読んでいると、リクルート誕生の物語は、一通の航空便から始まっていることがわかります。
昭和36年、フルブライト奨学生として留学中の先輩・芝祐順さんから、「アメリカでは、学生にこのような本が配られています」と一冊の本が送られてきました。就職情報ガイドブック『キャリア』誌です。B5判200ページほどの本で、扉にはケネディ大統領の学生へのメッセージがあり、履歴書の書き方や面接の受け方の記事の後に、企業の求人広告が三百社ほど掲載されていました。
「これだ!」
江副さんは日本版の就職情報誌を作ることを決意します。しかし、単純に真似るのではありませんでした。当時の日本の雑誌と外国の雑誌を見比べて、外国誌のほうがアートディレクションや写真に優れていて人目を引くことに気づいた江副さんは、紙はすべて上質コート紙、文字もすべて写植を使うことを決めました。
亀倉雄策先生のデザイン——出世払い10万円
この就職情報誌を作るにあたって、江副さんは表紙のデザインを誰に頼むかを考えました。
友人の紹介で訪ねたのは、のちに東京オリンピックのポスターをデザインすることになる亀倉雄策先生です。すでに日本を代表するグラフィックデザイナーであり、内外の大企業からデザインの依頼がある方でした。
先生は言いました。「学生が就職先を選ぶ雑誌か……。それは大切な仕事だ。引き受けるよ」。デザイン料が高いだろう、聞かなくてはと思った江副さんでしたが、気後れして聞けなかった。
丁寧に仕事をしていただいた後、先生から請求されたデザイン料はわずか10万円でした。恐る恐る「こんなに少なくてよろしいんでしょうか」と聞くと、先生は言いました。
「ちゃんとしたデザイン料は払えないだろう。僕は『新建築』という雑誌の表紙を十万円でデザインしている。料金は『新建築』と同じにした。出世払いでいい。儲かるようになればちゃんとしたデザイン料を請求するよ」
この亀倉先生は、その後もリクルートの社外重役を務め、情報誌の表紙デザイン、リクルートのロゴと社章のかもめ、安比高原スキー場やホテルの建設まで、節目節目で経営的な視点からアドバイスをされ続けました。
前金システムの発明——窮余の策が仕組みになった
創刊号「企業への招待」を作るうえで、江副さんが直面した最大の壁は資金でした。
求人広告の本を作るには印刷代と用紙代が必要です。大日本印刷と交渉し、「原稿入稿時に三割前払い、納本二ヶ月後に残金を支払う」という条件で話がまとまりました。しかし三百万円の手元資金がない。
そこで江副さんは考えました。「広告業界では、掲載誌を広告主に渡したあと代金を請求するのが常識だが、窮余の策として、申し込み時に前受金として掲載料金の三割を広告主から頂戴する方式にした」と本書に書かれています。
一社30万円で百社なら三千万円。その三割を申し込み時にもらえれば六百万円になる——というシミュレーションでした。
この「前金システム」は、やがてリクルートのビジネスモデルの根幹の一つになりました。資金効率を高めながら広告主との関係を強固にするこの仕組みは、窮余の策から生まれた発明だったのです。
社訓「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
リクルートには、江副さんが自ら考えた社訓があります。
高校の漢文の時間に出会った易経の言葉「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し」を人生の指針の一つにしていた江副さんが、それをもっと積極的に表現したのが、
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
IBMの研修所でコンピュータプログラムを習っていたときに入手した「THINK」というプレートをヒントに、ブルーのプラスティックのプレートに銀色で文字を入れました。社員に好評を得て自主的に机の上に置いてくれる人が増え、社外スタッフの方たちにも贈呈されるほどでした。
本書執筆時点でも、このプレートを机の上に置いている人がいると書かれています。
経営の三原則と社員皆経営者主義
リクルートの企業風土を語るうえで欠かせないのが、「経営の三原則」と「社員皆経営者主義」です。
経営の三原則とは、①社会への貢献、②個人の尊重、③商業的合理性の追求の三つです。「社会に貢献できない事業ならば、リクルートは行わない」という高い基準を掲げながら、同時に「仕事の生産性を上げ、高収益会社にして税金を納めることがリクルートの誇り」とも定めました。
さらに江副さんは、ドラッカーの「現代の経営」に触れてから、会社の中に小さな会社(プロフィットセンター)をたくさんつくるPC制を導入します。PC長はPCの社長、PCのメンバーはPCの取締役。ほとんどのPC長は三十歳未満。高い業績を上げれば若くても大きなPCのPC長に昇進できる仕組みです。
江副さんの退任時、PCはグループ会社を含めて六百を超えていました。「リクルートは商売の勉強ができる会社」との評判が学生の間に広まり、起業家精神旺盛な人が入社してくるようになった背景には、この仕組みがありました。
前社長の河野栄子さんはPC長から事業部長に至る間に最優秀経営者賞を九回受賞し、51歳で社長に就任。現社長の柏木斉さんは45歳での社長就任。リクルートOBが社長を務める上場会社は本書執筆時点で20社近くにのぼります。「私はリクルートでは『社員皆経営者主義』を掲げ、会社の中に会社(プロフィットセンター)を作り、PC長を会社の社長としてきたからであろう」と江副さんは書いています。
ROD——部下が上司を評価する合宿研修
リクルートの企業風土を語るうえで、もう一つ特筆すべき仕組みがあります。それが「ROD(管理職教育プログラム)」です。
RODでは、同じ質問項目に、本人による自己評価と、部下による上司の評価を求めます。研修では、自己評価と部下の評価を項目ごとに集計し、グループに分かれてそのデータをもとに合宿で徹底的に議論し合い、自ら問題点を知り、自己変革の答えを自分で見つけ出します。
自分についての忌憚のない同僚の議論を、本人は隣室で聞く——そんな形式の研修です。
江副さん自身もRODで取締役から受けた評価を包み隠さず本書に書いています。「人の話を最後まで聞かず途中で発言を遮る」「会議で決めたことをあとですぐ変更するから周りは混乱する。朝令暮改だ」「人の言葉を借りて自分の意志を伝える。自分の言葉で意志を伝えるべきだ」——自分への厳しい評価を正直に記しているところに、江副さんらしさがにじみ出ています。
「自らを変えなければならないと痛切に感じ、みんなに書いてもらったアドバイスカードをいつも机の引き出しに入れて、『明日からの自分は、これまでの自分ではないようにしよう』と、RODのたびに心に誓った」と書かれています。
「起業はボトムアップ、撤退はトップダウン」
江副さんのもう一つの重要な経営哲学が、新規事業に関するこの言葉です。
全社員を対象に毎年新規事業の提案を募集していたリクルートでは、百件以上の提案の中から良さそうなものを選んで、提案者を事業責任者にして事業化していきました。「エイビーロード」「カーセンサー」「ダ・ヴィンチ」「フロム・エー」など、いずれも社員の提案から生まれた情報誌です。
一方で失敗した事業もありました。コンピュータ言語フォートランの教育機器「ステップコーダー」は、学習ブームが急速にしぼんで撤退を余儀なくされました。事業部門の人たちが「続けさせてほしい」と言うなか、最後はメンバーの反対を押し切って江副さんが撤退を決めました。
その撤退の夜、解散のビールパーティを開いたところ、反対していた人たちが涙ぐんでいたといいます。一ヶ月後に様子を見に行くと、全員が明るい表情で新しい仕事に打ち込んでいた。「撤退はトップの決断である」と痛感した、と本書に書かれています。
また、単行本の出版に二度失敗したエピソードについて、江副さんはドラッカーの言葉を引用しながらこう書いています。
「ドラッカーは『失敗を恐れるな、と言うほど教訓的な言葉はない』と言っている。失敗を恐れるな。しかし同じ失敗を三度はするな」——これを社内で言い続けてきた私自身が、同じ失敗をした事業があると正直に告白しています。
江副さんの失敗談——一兆八千億円の借入金を残して
本書の冒頭で、江副さんは自分の失敗を率直に語っています。
バブル期にノンバンクのファーストファイナンスや、不動産業のリクルートコスモスを急拡大したことや、コスモス株譲渡事件では世間にも多大な迷惑をかけた。「リクルートグループで一兆八千億円余の借入金を残し、私はリクルートを去った」と書かれています。
しかしその後の展開について、江副さんはこう書いています。「あとに続く社員たちが懸命に働いて危機を乗り越え、毎年一千億円余の利益を出し続けてきて、リクルートの負債は実質ゼロ。無借金会社になり、売上高利益率三十パーセントの超優良企業に甦った」。
経営者の失敗を乗り越えた社員たちへの感謝と誇りが、この一節から伝わってきます。
江副さんのこだわり
本書を通じて浮かび上がる江副さんの人柄や習慣があります。
ニックネームは「エゾリン」:リクルートでは社長も専務もニックネームで呼び合う文化がありました。「私のニックネームはエゾリン。秘書たちとスナックに行くときは彼女らが私のことをエゾリンと呼ぶので、スナックのママも私をエゾリンと呼んでいた。私が現役時代、社員で私を『江副社長』と呼ぶ人はいなかった」と書かれています。
社員の名前を2,000名まで覚える:「創業十五年目ぐらいまでは、新入社員導入の合宿研修やROD研修、あるいは結婚披露宴などに参加していたので、努力しなくても自然に名前を覚えた。グループ会社を含め二千名ぐらいまでは名前を覚えたと思う」と書かれています。
外飯・外酒を奨励:「社員は社員同士の付き合いが多くなりがち。視野を広げるために、心がけて社外の人との会食などの機会を持つように」と呼びかけ、「外飯・外酒を」というスローガンを掲げていました。
シャイな性格と正直な自己評価:「私はそもそもシャイな性格で、カリスマ性はない。人前で話すことも苦手だった。社員の前で話すときは前日から準備をして臨んだ」と書かれています。また「私は凡庸な人間である。私はリクルートがこれだけの成功を収めるとは、当初は予想だにしていなかった」という言葉も印象的です。
「リクルートのDNA」が今も生き続ける理由
本書の最後に、江副さんはこう書いています。
「私の体験から言えることは、経営者(トップ)もまた一つの職能ということである。経営者は孤独である」
そして最後にこう結びます。「本書が、凡庸な人間でも精一杯頑張れば、ある程度のことができるひとつの例として、これから事業を始める若い人の参考になれば幸いである」。
19歳でコミッションセールスマンとして東大新聞の広告を売り始めた若者が、23歳で月額7,000円の物置小屋で創業し、一兆円企業を育て上げた。社訓通りに「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変え」続けた江副さんの軌跡は、失敗も含めてリクルートのDNAとして今も生き続けています。
📚 リクルートのDNA——起業家精神とは何か(江副浩正著、角川oneテーマ21)を読んでみる
参考文献:江副浩正著『リクルートのDNA——起業家精神とは何か』(角川oneテーマ21)

