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1976年、東京・六本木の雑居ビル3階。開業からわずか2カ月がたつのに、1日の来客は20人ほど。このままでは家族が路頭に迷う。追い詰められた33歳の男は、数少ない顔見知り客に向かって思わずこう口にしました。
「助けてください」
それまで絶えず店を繁盛させてきた料理人としてのプライドは、その瞬間に砕け散ったといいます。しかしその「助けてください」こそが、後に直営69店舗を一代で築き上げる叙々苑の、最初の一歩でした。
その男こそ、叙々苑の創業者・新井泰道さんです。
本書『焼肉一代』は、2022年に80歳を迎えた新井さんが、焼肉人生65年を余すところなく書き残した自叙伝です。15歳での就職から始まる焼肉修業、六本木での叙々苑創業、タン塩・上カルビの誕生秘話、バブル崩壊による36億円の借金危機——。「高級焼肉」という概念を日本に生み出した男の実像が、正直な言葉で語られています。
15歳、衝撃のひと口
新井さんが焼肉の世界に入ったのは、1958年のことです。『焼肉一代』の冒頭は、その原点となる場面から始まります。
神奈川県横須賀市生まれ。5人兄弟の3番目として育ちましたが、中学1年の13歳で母親を亡くし、父親の不在中は家事全般と弟妹の面倒を一手に引き受ける日々を送っていました。学校に持っていく弁当も作れず、昼休みは教室を離れていたといいます。
中学3年の卒業式を待たず、親戚の叔母に連れられ新宿の焼肉店「明月館」へ面接に向かいます。初めての東京に胸を高鳴らせた少年は、面接の場でトッケをひと口食べてすぐに決意しました。
「世の中にこれほどおいしい食べ物があるのか」
食べ物に釣られて就職を即決した——本人もそう認めています。叔母に「電車賃がもったいないから帰る必要はない」と退路を断たれ、白衣を支給され、下着と洗面用具を買い与えられて、少年はそのまま住み込みで働き始めました。
月給3000円。朝8時から23時まで、月2日の休日以外は拘束される生活。しかし「就職できるだけでもマシ」と思えた時代です。1日3回のまかないと、月2回の特別まかないで出るシマチョウの味が、新井さんが語る明月館の一番の思い出です。
働き始めて8カ月後、明月館を夜逃げ同然で飛び出し、大阪を経由したのちに、神田の焼肉店「大同苑」へと流れ着きます。この流転もまた、「成り行き」と本人は笑い飛ばしていますが、大同苑こそが新井さんの料理人人生を決定づける場所でした。
19歳料理長、女将に鍛えられた10年
大同苑への出会いを、新井さんは『焼肉一代』の中で「焼肉の神様に導かれた好機」と振り返ります。
店主は花柳界出身の洗練された女将でした。16歳から約13年、新井さんはこの女将の下で料理の基本と美的センスを叩き込まれます。就いてから3年後、先輩料理人が次々と転職していくなか、19歳の新井さんがそのまま料理長に抜擢されました。
女将からは毎日、仕事の心構えを「理詰め」で説かれ、料理の味と見栄えを教わりました。とくにご飯と漬物への要求は厳しく、「今の私もハッと気がつくと女将同様に口うるさく指導しており、そのたびに大切な基本は普遍なのだと実感させられます」と本書に記されています。
料理長になってからの10年間、新井さんはめったに休みを取りませんでした。大同苑の厨房こそが自分の居場所であり、同僚たちと調理に腕を振るっている時間が一番楽しかったからです。休日返上で出勤すれば手当てがもらえる——新井さんにとってはその方が「得」でした。
29歳のとき、女将が不動産の都合で廃業を決めます。面倒を見てきた若手も「一緒に働き続けたい」と言ってくれる。「ならば自分でやるしかない」と、新井さんは独立を決意しました。女将からいただいた退職金100万円と貯金を合わせた220万円——その220万円が、どんな大舞台を切り開くことになるのか。次の章がその答えです。
独立で気づいた「商売センス」
料理人として腕に自信はある。しかし経営の経験はゼロ——そんな状況から始まった独立でした。
1972年、神楽坂の外れに12坪・24席の焼肉店「食道園」を居抜きで借り受け、独立を果たします。コンセプトやターゲットの小細工は一切なし。おいしい焼肉で客を集め、満足させて繁盛させる——それだけです。独立から1年後には満席が定着し、月商は300万円を突破。毎月100万円ずつ定期預金できるようになりました。
この食道園で、新井さんに革命が起きます。小さな店なので、料理人だった自分が率先してホールに立つ。最初は「正しく言葉づかいできるか」と心配していましたが、厨房で磨いた料理への思いを素直にお客さまに説明できると、喜んで食べてくれることを肌で感じました。
「接客ではなく、接客サービスでお客さまを満足させる」という商売センスが、この瞬間に覚醒したと『焼肉一代』は語っています。
しかし順調に見えた食道園生活の中、悶々とした気持ちも募っていきました。銀座や赤坂の焼肉店では、同じ肉を2〜3倍もの価格で売っていたのです。「このままでは終われない。いまに見ていろ」という野心が芽生え、大舞台で勝負する決意を固めました。その大舞台が、六本木でした。
一等地に賭けた、33歳の全財産
六本木という選択は、当時の焼肉業界の常識を大きく外れていました。
1976年、33歳。食道園で蓄えた1900万円を元手に3300万円を投資し、六本木に「叙々苑」を開業します。六本木を選んだ理由は明快です。夜に強い立地で舌の肥えた富裕層が多く、高価格でも集客できる。神楽坂での悶々を晴らすには、一等地で勝負するしかなかったのです。
「叙々苑」という名前の由来も面白いのです。当時の焼肉店には朝鮮半島の地名を冠するのが一般的でした。「おいしさに国境はない」と考えた新井さんは、どちらにも属さない新しい名前を探します。肉を焼くシズル音「ジュージュー」をもじろうとしたものの既存店名と重複。知人に「外国人にはジョージョーに聞こえる」とアドバイスをもらい、辞書で「じょ」の当て字を引いたところ「叙勲」「叙事詩」など品格のある「叙」に出会いました。「まさにこれだ」と直感して「叙々苑」に即決したのです。
こうして名前も立地も決まった叙々苑でしたが、開業直後に想像もしていなかった危機が待ち構えていました。
「助けてください」と、本音の言葉
開業から2カ月、状況は深刻でした。雑居ビルの3階という立地は人目につかず、路上に行灯看板を出せば警察に撤去される。1日の集客はわずか20人程度。このまま続けば家族が路頭に迷うと追い詰められた新井さんの口から、思わずこぼれたのが「助けてください」でした。
数少ない顔見知り客に素直に本音を訴えると、意気に感じた客が仲間を連れてくるようになり、好評が口コミで広がって繁盛の道が開けていきました。
「偽りのない本音や熱意が相手の心に響くことを学び、その後の交渉や経営に大きく役立ちました」と、新井さんは書いています。焼肉人生で一番厳しい経験だったと認めながら、「情けなく、惨めで、格好が悪い。本当は墓場まで持っていきたい恥ずかしい話」と笑い飛ばすのが新井さんらしさです。
窮地を乗り越えた新井さんが次に動いたのは、当時の焼肉業界ではまったく手つかずだった「女性客」の開拓でした。
業界を変えた「女性客」戦略
叙々苑の大繁盛を支えたのは、女性客の開拓という当時では異端の発想でした。
創業当時、焼肉の客層は「男女クッピン(9対1)」と評されるほど男性に偏っていました。煙とにおいが充満する店に女性が来たがらないのは当然です。そこで新井さんは、天井の設計を工夫して油煙を排出する独自のダクト構造を採用。店内はアーティスティックな内装に仕上げ、テーブルには一輪挿しの花を置き、注文を受ける際は床に片膝をついてお客さまを見上げる。さらに調光機能を備えた照明で夜は薄暗くし、女性がセクシーに映るシーンを演出しました。
肉の盛りつけも変えました。当時は銀皿にもみダレの肉をベチャッとのせるのが普通でしたが、新井さんは白皿に1枚1枚丁寧に盛りつけ、肉の赤色に笹葉の緑とデンファレ(紫洋蘭)の紫を添えた。この三色の配色は「業界の彩りアップと高級演出に大きく貢献した」と『焼肉一代』に記されています。
デザートもこの時代から始まりました。マスクメロンを8等分にして無料提供したのがきっかけです。大好評を呼びましたが、季節で相場が変動するため、ブドウ→リンゴ→アイスと変遷し、食後のガムまで定着。今や焼肉の定番となったデザートとアイスの文化を、叙々苑が作ったのです。
こうした「女性が喜ぶ仕かけ」はメニューにも及びます。叙々苑発の定番として、今も業界全体に受け継がれる2品の誕生秘話を見てみましょう。
タン塩と上カルビの誕生
叙々苑発の革新は、メニューにも刻まれています。「タン塩」と「上カルビ」はその代表格です。
当時のタンは余り物扱いで、焼肉ではミックスホルモンに混ぜる程度の存在でした。出入りの業者から「まかないで作るタン塩焼きが酒に合う」と勧められ、試しに品書きに加えてみると、常連の女性客から「熱々で食べづらい。レモンをちょうだい」と声が上がります。
試しに食べてみると、タンの塩気とレモンの酸味は相性抜群。「タン塩レモン」の愛称で六本木と銀座に噂が広がり、爆発的な人気を巻き起こしました。
上カルビは、脂身のカロリーを気にする女性客の「脂身をカットして」という要望がきっかけです。丁寧に脂身を落とすと手間が増えてコストが上がるので、その分を価格に上乗せし「上カルビ」と名付けて売り出しました。これも女性客の琴線に触れて大ヒット。「まずタン塩、次に上カルビ」という注文パターンが女性客の間で定着したのです。
女性が「叙々苑に行きたい」と言えば男性は「そうしよう」と応じる——この逆算の発想が叙々苑の大繁盛を支えていきましたが、絶頂期には誰も予想しなかった危機が訪れます。
バブル崩壊、36億円の危機
絶頂期に訪れた試練もまた、『焼肉一代』の読みどころです。
1991年、バブル景気の真っ只中に、西麻布の外苑西通りに面する土地を22億円で購入。地上6階建て・30個室・180席の「焼肉ビル」を竣工します。土地代と建設費を合わせた総投資額は約36億円、全額銀行融資でした。
「堅実な銀行が融資する以上、問題なく返せる金額なのだろう」と高をくくっていたと、新井さんは正直に書いています。
しかし1993年にバブル崩壊の影響が目に見えて濃くなり、法人接待の予約が急速に減り始めます。1994年には売上げが半減し、融資36億円の金利だけで年間約2億5000万円。全社の融資総額は80億円に達していたのです。「経営者として失格、自惚れと慢心が引き起こした当然の報いだった」と、新井さんは容赦なく自分を評価しています。
しかしこの大失敗が、叙々苑を「高級焼肉」の先駆けへと変えます。個室の特性を生かして日本料理の会席風に仕立てた「焼肉コース」、着物姿の仲居による接客——これが起死回生を呼び込みました。芸能人、政治家、スポーツ選手がお忍びで訪れる名店となり、「高級焼肉」という新しいジャンルが日本に生まれたのです。
大繁盛も危機も経験した新井さんの「こだわり」は、意外なほど地味で、人間くさいものでした。
新井さんのこだわり
『焼肉一代』には、新井さんの人となりを映す場面がいくつも登場します。
休日は年間3日しか取らなかった時期が長く続きました。しかし、苦労話として語られないのが面白いところです。大同苑での10年を振り返り「休日返上で出勤する方が、手当てがもらえて得だった」とさらっと言い切ります。
映画が大好きで、月2回の休日は必ず新宿の映画街に出かけていました。100円で3本立てを楽しみ、屋台の牛丼を食べながら夜まで繁華街を歩く——「自分も主役のようにカッコよくなってやる」という思いが、やがて「焼肉の世界でカッコよくなってやる」に変わっていったと本書に書かれています。
また、新井さんはお酒を一切飲みません。同業の仲間が集まる親睦会でも、コーラを片手に朝まで付き合い続けた——素面のまま明け方に仲間を見送る姿が「忘れられない」と業界の仲間が証言しています。酒の力を借りずに人を引きつける人望は、持って生まれた器量と誠実さから来るのだと、本書は静かに教えてくれます。
こうした新井さんの生き方の根底には、65年間変わらない一つの信念がありました。
「継続は実力に昇華する」
新井さんが若い世代に最も伝えたいのは、このひと言に尽きます。
もともと焼肉を志して選んだわけでもなく、辞めようにも辞められない成り行きで続けていた——それが正直なところです。しかし辛くても続ければ仕事を覚えて任される。任されると意欲が生まれて実力がつく。実力がつけば信頼を得て権限が広がる。そうした成り行きの連鎖が、焼肉一筋の人生を作り上げました。
「表向きには美談にできますが、裏を明かせば、成り行きで、運が味方して、奇跡的に現在の立場があります」と、新井さんは飾らずに言います。それでも「めげず、楽しく、焼肉を続けてきた」ことだけは裏表なく断言できると。
経営哲学として新井さんが提唱する「一流」も独特の定義です。高級であることではなく、「その道の一流を極める」こと。自分の志向に誇りを持ち、考え抜いて最善を尽くし、絶えず研鑽し続ける心構えにより一流の道が開けると説きます。
そして叙々苑が一貫して守り続けたのは「おいしさが最良のサービス」という理念です。タレにこだわり、副菜を一品料理として尊重し、肉の品質に頼らず調理技術でおいしさを創造する——それこそが「焼肉料理」たる所以だと、65年の経験から断言しています。
プロフィール
| 氏名 | 新井泰道(あらい たいどう) |
| 生年 | 1942年 |
| 出身地 | 神奈川県横須賀市 |
| 創業 | 1976年(叙々苑、東京・六本木) |
| 役職 | 株式会社叙々苑 代表取締役会長 |
| 業界活動 | 事業協同組合全国焼肉協会 名誉会長(2015年〜) |
| 受章 | 黄綬褒章(2017年) |
| 著書 | 『焼肉一代』(日本食糧新聞社、2022年) |
本書『焼肉一代』にはほかにも、ここで紹介しきれなかったエピソードが多くあります。無煙ロースターのコンパクト化を業者に直談判した開発秘話、「もみダレ」と「つけダレ」を軸とする焼肉料理論の全貌、そして業界の後進たちが語る新井さんへの証言——焼肉業界65年の蓄積が、1冊に詰まっています。
新井さんの生き方に興味を持った方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。

