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孫正義|ソフトバンク創業者が貫いた情報革命の志と経営哲学

ソフトバンク創業者・孫正義さんの書籍『志高く 孫正義正伝 決定版』を紹介する記事のアイキャッチ画像

佐賀県鳥栖市、五軒道路無番地。

住所に番地がない。国鉄の線路脇、住んではいけない土地に建てたバラックの集落。孫の祖父は韓国から小さな漁船の底に隠れてこの地に渡り、トタン板を拾い集めて雨風をしのいだ。焼き払われても、翌朝には元通りになっていた。

「ゼロにも達しない、マイナスからのスタートでした」

幼い孫正義さんは毎日、暗いトンネルを泣きながら走り抜けた。怖くて全速力で走り、声が涸れるころ、トンネルの先に光が広がる。大木川で魚を捕る仲間が待っている。

「トンネルを抜けたときの喜びは、虹のような世界なんです」

無番地の少年は、やがて情報革命を掲げて世界に出ていきます。本書『志高く 孫正義正伝 』は、ジャーナリスト・井上篤夫氏が長年の取材をもとに書き上げた、孫さんの決定版伝記です。無番地の原風景から、2兆円のボーダフォン買収、ソフトバンク・ビジョン・ファンドの創設まで——一本の志が貫く65年以上の軌跡を、関係者の証言とともに活写した一冊です。


孫正義さんの基本プロフィール

氏名孫正義(そん まさよし)
生年月日1957年8月11日、佐賀県鳥栖市五軒道路無番地
出自在日韓国人3世(のちに日本国籍取得)
学歴久留米大学附設高校中退→ホーリーネームズカレッジ→カリフォルニア大学バークレー校卒(経済学)
経歴1981年ソフトバンク創業→1994年店頭公開→1996年ヤフー・ジャパン設立→2001年ブロードバンド事業参入→2006年ボーダフォン日本法人買収→2017年ソフトバンク・ビジョン・ファンド設立
主な実績ソフトバンクグループを世界有数のテクノロジー持株会社に育成。ヤフー、ボーダフォン、スプリント、ARMの買収。ビジョン・ファンドを通じたグローバル投資
著書関連井上篤夫『志高く 孫正義正伝 』(実業之日本社)

「正義さん」と呼ばれた男——父の教育と坂本龍馬への憧れ

孫さんが小学1年生に上がったとき、父・三憲は母に厳命しました。

「正義と呼び捨てにしてはいかん。正義さんと言え」

それから母は常に「さん付け」で息子を呼びました。「6歳から正義さんですよ。母が尊敬を込めて接してくれるから、そういう立場の人間にならなきゃいけないと思った」。

父は魚の行商から養豚業、パチンコ屋、飲食業と、なりふりかまわず働いて経済的な基盤を築きました。息子に教えたのは、勉強でも礼儀でもなく「物の考え方」でした。「おやじからは褒められたことしかない。それはもう最強の教育でした」。

少年時代の孫さんを揺さぶったのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でした。中学生の孫さんはページを繰りながら、血が湧き立つ感覚を覚えました。一回きりの人生を、龍馬のように生きたい。その決意が、渡米への伏線になっていきます。


16歳、アメリカへ——青い空の下で「韓国名」を名乗る決意

高校1年の夏、孫さんは短期留学でアメリカに飛びました。

出国審査の列が違いました。日本人の同級生は赤い表紙のパスポート。孫さんが手にするのは外国人パスポート。つくづく実感しました。「おれは無番地の外国人なんだ」。

ひどく落ち込んだ孫さんを救ったのは、サンフランシスコ空港を出た瞬間の光景でした。片側6車線の高速道路。突き抜けるような青空。「無番地なんかくそ食らえだ」——その解放感は、すべての重さを吹き飛ばしました。

帰国後、孫さんは決意します。親族の猛反対を押し切り、「安本」という日本名をやめて、本名の孫正義を堂々と名乗る。「正々堂々と本名を名乗った上で自分を認めてくれる人がほんとうの社員であり、銀行だと思ったからです。逃げるのはいやなんです」。

そして16歳、高校を中退してアメリカへ渡りました。


バークレーで生まれた「音声機能付き電子翻訳機」——250のアイデアから1つへ

ホーリーネームズカレッジを経て、孫さんはカリフォルニア大学バークレー校に進みます。

在学中の孫さんを突き動かしていたのは、1日5分だけ勉強して残りの時間で事業アイデアを生み出すという計画でした。毎朝、辞書や専門書を開きながら、発明のタネを探す。カードに書き溜めたアイデアはやがて250個にふくらみました。

そのすべてを並べ替えて、1本に絞りました。

「音声機能付き電子翻訳機」。

スピーチシンセサイザー、辞書、液晶ディスプレイの3要素を組み合わせたコンセプトでした。しかし学生が自分で試作品を作れば、10年、20年かかります。「おれは、あくまでも事業家だ」——孫さんは別の道を選びます。

各分野のナンバーワンの専門家を集めて作らせる。そうすれば自分は事業に専念できる。

バークレー校の大学院生で工学の専門家だった友人のホン・ルーを巻き込み、チップメーカーへの打診文をひたすら書き送りました。日本の大手メーカー20〜30社から問い合わせが相次ぎました。孫さんはすぐ日本に飛んで契約を取り、3〜4週間帰ってこない。帰国中、ホンは授業の代返まで引き受けました。

こうして開発された音声機能付き電子翻訳機はシャープに売却され、電子手帳の原形となりました。

本書『志高く 孫正義正伝 』にはその一部始終が描かれています。まだ21歳の学生が、1億円以上の取引を成立させた瞬間でした。


ミカン箱の上に立って——1981年、2人への「5分間スピーチ」

1980年、孫さんは日本に帰りました。

志はあった。だが、何をやるかはまだ決まっていませんでした。毎日、何十個もの事業案を作り、全部ボツにする日が続きました。

決断したのは「ソフトウェアの流通事業」でした。

1981年9月、福岡市博多区に日本ソフトバンクを設立。事務所は2坪のワンルームマンション。社員は2人。

孫さんはミカンの空き箱を積み重ね、その上に乗って演説しました。2人に向かって、真剣な顔で話し続けます。「5年で売上高100億円、10年で500億円を達成する。将来は1兆円、2兆円規模の会社にする」。

翌日、2人とも辞めていました。

しかし孫さんは動じませんでした。本書『志高く 孫正義正伝 』によれば、これが後にシリコンバレーの起業家たちに向けて語り継がれる「ミカン箱のスピーチ」の原点です。「ビジョンを語ったら翌日辞めてしまった」と孫さんは笑いながら話します。それでも、そのビジョンは変わりませんでした。


「要再検査」——27歳を襲った慢性肝炎との3年間

会社は成長していました。しかし、孫さんのからだは悲鳴を上げていました。

過労からくる脱力感。「ふつうの疲労感ではない」と感じつつも、放置していた。やがて健康診断の結果が出ました。

「要再検査」

大学病院に飛び込むと、担当医が告げました。慢性肝炎。即入院。当時、慢性肝炎は不治の病とされ、完全な治療方法は見つかっていませんでした。「慢性肝炎から肝硬変になれば、あとは肝臓がんです」——医師の言葉に、さすがの孫さんも息をのみました。

3年間、病床にありました。

その間に起きたことがあります。孫さんを信頼して会社経営を任せた人物が、創業時からの幹部を次々と解雇していきました。孫さんが育てた会社が、自分の知らない場所で変わっていく。「ベッドにいる孫君には、『まいったな』と精神的にも落ち込んでいる」——関係者の証言が本書に残っています。

しかし孫さんは諦めませんでした。論文を読み漁り、専門医を探し続けました。そして父・三憲が見つけてきた新聞記事が、転機をもたらします。「子を思う親の願いが天に通じた」と本書は記しています。インターフェロン投与による新しい治療法でした。

1986年、孫さんは病院から出てきました。


こうした逆境と復活の物語は、孫さんだけではありません。
他の経営者の事例もあわせて見ることで、より深く理解できます。


「ヤンたちしかいない」——Yahoo Japan設立と宅配ピザでの交渉

1995年。孫さんはインターネットの波を確信していました。

シリコンバレーに飛んで、まだ無名だったヤフーの創業者ジェリー・ヤンとデービッド・ファイロに会います。小さなオフィスでの会食。相手側はフレンチかチャイニーズレストランを用意するつもりでした。孫さんが望んだのは宅配ピザとコーラでした。

「ヤンたちと話していて、もう彼らしかないと思ったのです。すべてを賭けようと思ったのです」

ソフトバンクはヤフーに200万ドルを出資。さらにヤフーのナスダック上場時に100億円を追加出資し、持ち株比率は30%超になりました。ヤフー・ジャパンの設立は翌1996年。孫さんの決断から起業までは驚くほど速かった。

「情報革命で人々を幸せに」——その旗印に向かって、孫さんはアクセルを踏み込んでいきました。


ADSLを「100円」で配った男——価格破壊という名の革命

2001年。孫さんは次の賭けに出ます。ブロードバンド事業への参入でした。

月額数千円が当たり前だったADSL接続料を、ヤフーBBは激安で提供し始めました。さらに駅前や街頭でモデムを無料で配布するという前代未聞の作戦。「0円モデム」の衝撃は業界を震わせました。

2003年、Yahoo!BB事業は3期連続の巨額赤字を出しながら、孫さんは笑顔で決算発表に臨みました。「朝起きるのが楽しくてしかたがない。志はもっともっと大きいんです。そのうち、あっと驚くようなことを出しますから、もうちょっと楽しみに待っといてください」。

2003年8月、Yahoo!BBの会員数は300万人を突破しました。


2兆円、1カ月で——ボーダフォン日本法人の買収

2006年、孫さんはソフトバンク史上最大の賭けに臨みました。ボーダフォン日本法人の買収です。

交渉開始から約1カ月で2兆円規模の買収を成立させました。「どういう状況においても絶対に致命傷を負わないようにと、絶えず心がけてきた」——孫さんはそう語っています。

本書『志高く 孫正義正伝 』が描くのは、その舞台裏です。会合の控室で、孫さんはドイツ銀行の幹部に囁きます。「融資する予定だと言ってください」。相手は「承認を受けていない」と言う。孫さんは「いいからいいから」と押し切る。

綱渡りのような交渉で勝ち取った携帯電話事業は、その後ソフトバンクの屋台骨となりました。

「大胆にして細心」——ドン・キホーテのように突き進みながら、致命傷だけは絶対に避ける。その判断基準が、孫さんをここまで導いてきました。

同じくインターネットの大波の中で、独自の勝ち筋を見つけた経営者もいます。


孫正義さんのこだわり

本書『志高く 孫正義正伝 』を通じて、孫さんを動かし続けてきた習慣とこだわりが浮かびあがります。

歴史上の人物を自分のロールモデルにする——坂本龍馬、織田信長、山本五十六。孫さんは折に触れて偉人の生き方を参照し、自分の行動基準とします。高校時代に読んだ『竜馬がゆく』が渡米のきっかけになり、「天下布武」が情報革命の旗印になった。歴史は孫さんにとって、単なる過去ではなく現在の羅針盤です。

「1日5分の勉強」計画——バークレー在学中に孫さんが立てたルールは、勉強は1日5分以内にとどめ、残りの時間はすべてビジネスのアイデア出しに使うというものでした。「おれは学者になりたいのではない。事業家だ」——学問と事業を完全に切り分けた割り切りが、発明と起業を同時に実現させました。

「川の総捕り」の発想——子ども時代、鳥栖の大木川で魚を捕るとき、孫さんたちは釣りをしませんでした。川幅の端から端まで網を横断させて、大きいものだけを総取りする。「ある程度以上の獲物を総取りする構え。ソフトバンク・ビジョン・ファンドでも全部それに通じてる」——孫さんは今もそう語ります。


孫正義さんゆかりの地

佐賀県鳥栖市(生地・無番地):孫さんが生まれた、番地のない線路脇の集落。祖父が韓国から渡ってきた原点であり、「マイナスからのスタート」という孫さんの原動力を作った地です。2020年、孫さんは数十年ぶりに当時のトンネルや川を訪れ、幼い自分が走り抜けた場所に静かに立ちました。

カリフォルニア大学バークレー校(渡米・発明の地):音声機能付き電子翻訳機が生まれたキャンパス。孫さんはここで将来の事業構想を温め、卒業と同時に帰国して日本ソフトバンクを立ち上げました。「アメリカに着いて、カリフォルニアの青い空を見たとき、すぐに心が晴れた」——その青空が孫さんの志を解き放ちました。

福岡市博多区雑倉向隈(ソフトバンク創業の地):1981年、孫さんがミカン箱の上に立って2人の社員に夢を語った場所。日本ソフトバンクの出発点です。本書『志高く 孫正義正伝 』にはその伝説の5分間スピーチの場面が克明に描かれています。


孫正義さんから学ぶ、3つの教訓

1. マイナスからのスタートは「エネルギー」になる

無番地で生まれ、在日韓国人として差別にさらされ、本名を名乗れば不利になると言われた孫さんが、それをエネルギーの源にしました。「マイナスからの、無番地からのスタートというところが、ものすごい挑戦意欲を与えてくれた」。恵まれた環境が人を強くするとは限らない——むしろ理不尽な出発点が、誰にも負けない「意地」を育てることがあります。孫さんの生涯はその証明です。

2. 志を立てたら、致命傷だけは避ける

孫さんの決断は常に大胆ですが、無謀ではありません。ボーダフォン買収も、Yahoo!BB参入も、「絶対に致命傷を負わない」という冷静な計算の上に成り立っています。「どんな状況においても絶対に致命傷を負わないようにと、絶えず心がけてきた」——大きな賭けに出るほど、最悪のシナリオを緻密に読んでいる。それが孫さんの「大胆にして細心」の正体です。

3. 「5年先・10年先」を見てから動く

1995年にヤフーに100億円を投じたとき、インターネットはまだ一般に普及していませんでした。2000年代初頭にモバイル革命を確信してボーダフォンを買収したとき、まだほとんどの人がその意味を理解していませんでした。「新しいトレンドに気づくと、すべてを置いてそこに集中し開拓する」——孫さんのパートナー、ロン・フィッシャーはそう証言します。現在の常識ではなく、未来の必然を先に掴む。それが孫さんを一時代早く行動させてきた習慣です。


この記事で語りきれなかった『志高く』の魅力

本書『志高く 孫正義正伝 』には、まだ紹介しきれていない場面が数多くあります。

一つ目は、バークレー在学中のゲームセンター買収です。資本金もない大学生が銀行と交渉し、2000万円のゲームセンターを手に入れる。「問題の本質を見極めて素早く対処する」という孫さんの能力が早くも炸裂した場面です。後に孫さんがインベーダーゲーム機を日本から輸入して事業にするのも、このころからの構想でした。

二つ目は、病床での「朝令暮改」です。入院中、孫さんは本を読み漁り、退院後の事業計画を練り続けました。病室から戻ってきた孫さんが会社を見ると、自分が思い描いていた姿とは変わっていた。そこから一から建て直す過程が、本書の後半を支えるドラマです。

三つ目は、「アメリカの父」テッド・ドロッタとの関係です。孫さんが28歳のときにロサンゼルスで出会い、ボーダフォン買収やナスダック上場にいたるまで伴走し続けた人物。「孫には問題の本質を見極める驚くべき能力がある」と断言するドロッタの証言は、外側からの孫さん評として本書の中でも際立っています。

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まとめ|孫正義さんが教えてくれること

ミカン箱の上から夢を語り、翌日社員に逃げられた。慢性肝炎で3年間寝込んだ。ブロードバンド事業で何年も赤字を垂れ流した。それでも孫さんの表情から、焦りの色は消えませんでした。

ただし不安の色も消えませんでした。

笑顔の下に、誰より深く最悪のシナリオを読んでいる人間がいる。「情報革命で人々を幸せに」という言葉を、おそらく本気で言っている人間がいる。その組み合わせが、孫さんという経営者の輪郭を作っています。

「マイナスからの、無番地からのスタートというところが、ぼくにものすごいエネルギーを与えてくれた」——孫さんは今もそう語ります。

本書『志高く 孫正義正伝 』は、孫さんの公私にわたる膨大な取材から生まれた一冊です。時代の最前線を走り続けた男の内側を、これほど丁寧に描いた書は他にありません。孫さんの生き方に興味を持った方は、ぜひ手に取ってみてください。


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参考文献:井上篤夫『志高く 孫正義正伝 決定版』(実業之日本社)