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越智直正|タビオ創業者が靴下一筋で貫いた王道経営の哲学

タビオ創業者・越智直正さんの書籍『靴下バカ一代』を紹介する記事のアイキャッチ画像

ある日の東京・渋谷。越智直正さんは支店に向かう途中、前を歩くひとりの女性の足に目が釘付けになりました。

ピンク色の服を着た、脚のすらりとした女性でした。しかしタイツだけが、明らかな安物でした。膝の後ろにシワが寄っている。「素足のほうがきれいやで」——思わず声をかけようとしたのは、靴下屋としての本能でした。しかし見知らぬおじさんが声をかけるのもためらわれ、支店に飛び込んで社員に「まだそのへんにいるはずやから、誰かつかまえてくれ」と頼みました。当然、誰も追いかけてはくれませんでした。

「変や、奇天烈や。まるで靴下を作るサイボーグや」

周りからそう言われることを、越智さんは誇りとしています。中学を出て丁稚奉公から始め、靴下一筋65年。その歩みを赤裸々に綴ったのが、本書『靴下バカ一代』です。

「一生一事一貫」。越智さんがこの言葉を体現した人生は、価格競争に乗らず、流行に流されず、ただひたすら「いい靴下」を作ることに全力を注いできた王道経営の記録でもあります。


越智直正さんの基本プロフィール

氏名越智直正(おち なおまさ)
生年月日1939年、愛媛県周布村(現・西条市)生まれ
学歴中学卒業
経歴キング靴下鈴鹿商店で丁稚奉公(1954年頃)→1968年ダンソックス(現タビオ)創業→1982年靴下直営店「DOS」出店→1984年靴下屋1号店オープン→2000年大阪証券取引所に上場→2008年代表取締役会長に就任
主な実績靴下専業で東証上場。靴下屋・tabioなど国内外に300店舗近くを展開。メード・イン・ジャパンにこだわり続け、タビオを靴下のトップブランドに育成
著書『靴下バカ一代』(日経BP社、2016年)

「山より大きな猪はおらん」——15歳の決意と丁稚奉公の洗礼

越智さんが大阪に出てきたのは、1954年の春のことです。

6人兄弟の末っ子として愛媛県の漁村で育ちましたが、中学1年のときに父親が脳溢血で急逝。「中学を卒業したら丁稚にやれ」という父の言葉が、そのまま遺言となりました。

大阪行きを告げられたのは、出発の1週間前のことでした。「1人で汽車に乗ったこともない僕が、単身大阪に行くことになった」——道中の不安で、行先すら考える余裕がありませんでした。

奉公先のキング靴下鈴鹿商店は、春物の靴下が最盛期を迎えていました。研修などなく、即日の実地訓練です。初日、先輩5、6人に囲まれて「右も左も分からないだろうから、わしらの言うことを聞け」と言われると、越智さんはすかさず「いえ、右と左は分かっとります。右はこっちです」と右手を上げました。「生意気なやつちや」と、その場で袋だたきにされました。

月給1500円。休みは月に半日。毎朝6時から深夜1時まで働きづめの日々が続きました。

奉公を始めて1週間、越智さんは兄へ手紙を書きました。「僕は通用せん。田舎へ帰らせてほしい」。返ってきた手紙には便箋に1行だけ書かれていました。

「山より大きな猪はおらん、海より大きな鯨はおらん」

その言葉の意味を飲み込めたのは、1カ月以上たってからのことです。「辛抱せないかん」——その一言が、越智さんを踏みとどまらせました。

丁稚生活の救いとなったのは、中学時代の恩師に言われた「中国古典を読め。難しくて分からなくても諦めず100回読め」という言葉でした。夜店で見かけた『孫子』を買い、毎晩仕事が終わった後、漢和辞典を片手に読み込みました。先輩に見つかれば怒られるため、毛布をかぶり懐中電灯で本を照らしながら読書する夜が続きました。

15歳で読み始めた『孫子』を、18歳になる頃には全篇暗誦できるまでになりました。「すがりつく思いで3年間読み続ければ、どんなあほうだって覚えられます」——越智さんはそう語っています。この孫子の教えが、後の創業と経営のすべての判断基準となりました。


クビ、そして穴虫峠——29歳の独立と絶望の夜

丁稚修業13年目、越智さんは突然、会社を追い出されました。

大将の弟が独立するにあたり計画書の作成を命じられ、「5年したら独立させてくれる約束でしたので」と答えたところ、「弟の会社を横取りするつもりだな」と誤解されたのです。言い訳を聞いてもらえないまま、「そんなら辞めさせてもらいます」という言葉が口をついて出ました。部下2人も「こっちから辞めたる」と宣言し、3人は路頭に放り出されました。

「貯金は1万3円しかありません」——本書『靴下バカ一代』には、そのとき的確にお金を数えた越智さんの姿が映し出されています。

翌日から取引工場を回り始めました。「困ったらいつでも相談に来いよ」と言っていた工場を訪ねると、前の大将から「越智に取引するな」と根回しが済んでいました。「門前払い」「早う謝って帰れ」——どこへ行っても追い返されました。

深夜、越智さんは大阪と奈良の境にある穴虫峠の採石場に車を止めました。「幽霊が出る」と噂される真っ暗な峠に一人、夜が明けるまでじっとしていました。

「天、何をか言わんや」——天は自分に何を求めているのか、虚しさだけが満ちていました。

朝方に帰宅すると、部下2人がこたつに入って笑顔で待っていました。「越智さん、工場はどうやった」。越智さんはこう答えました。「朝まで待ったけど、大将が戻ってこんかった。また改めて行くから」。本当のことを言えなかった、と本書は綴っています。

そんな絶望の夜から、自分の聞こえた『孫子』の「五事」——道・天・地・将・法——に自分の状況を照らし合わせ、「足りないものは法(お金と組織)だけだ」と気づいた越智さんは、翌朝、信用金庫へ向かいました。1968年3月のことです。こうしてタビオの前身となる靴下卸売業「ダンソックス」が生まれました。


7000万円の借金地獄——「やり手やのう」の一言で奮起した日

独立して5年後、越智さんは絶体絶命の危機を迎えます。

自社企画商品に乗り出したものの、在庫負担が膨らみ、借金が7000万円に達しました。昭和40年代の年商分に匹敵する金額です。「2日後に期限がくる手形530万円を前に、もうあかん、一巻の終わりや」と覚悟を決めました。生命保険で死後に保険金2400万円が出ることも計算していました。

腹を決めた越智さんは、商売で世話になった食品スーパー・ヤマトーの藤原敏夫社長を訪ね、一切を打ち明けました。「あさって不渡りが出ますから、もうこれで勝負つけます」。

藤原社長の返答は、越智さんの予想を完全に裏切るものでした。

「なんやて。お前、やり手やのう

「俺は店を担保に入れて3億なんぼ借りるのが精いっぱいやった。お前はどないして担保も何もなしで7000万円も借りたんや。教えてくれ」——その一言で、越智さんの頭の中が一気に明るくなりました。「そうや、たとえ借金でもこれだけの金額を借りた私は確かにやり手だ」。

心の持ち方が変わった瞬間、思いもよらない人の顔が次々と浮かんできました。「あそこへ行ってみよう」「もう一度、あの人にお願いしてみよう」——走り回った2日間で330万円が集まり、最終的に不渡りを出すことなく危機を乗り越えました。

「身の上に起きるすべてのことは、己の心がつくる」——丁稚時代の大将から叩き込まれたこの言葉が、現実となって返ってきた瞬間でした。


こうした借金危機からの逆転は、越智さんに限った話ではありません。
他の経営者の事例もあわせて見ることで、より理解が深まります。


「3足1000円」を断固拒否——価格競争に乗らなかった理由

1970年代後半、靴下業界に激震が走りました。「3足1000円」という販売形態が急速に広まり、メーカーも問屋も小売りもこぞって参戦していきました。

社内の営業担当者からも「うちでも3足1000円をやらないか」という声が上がり続けました。しかし越智さんは首を縦に振りませんでした。

「勝てない戦いはするな」——これも『孫子』の教えです。

体力の限られた中小企業が価格競争で大手に勝てるはずがない。そう判断した越智さんは、得意先や社員からどれだけ言われても、3足1000円への本格参入を許しませんでした。ついには「僕は3足1000円の靴下を作って喜んでいるような会社に未練はない。新しく会社を興す」とまで宣言し、社員全員が我に返るほどでした。

予測は当たりました。3足1000円に全力を投入したメーカーや問屋は熾烈な消耗戦へと突入し、良心的な問屋ほど次々と倒産していきました。価格競争の嵐が落ち着いた頃、再び品質が重視されるようになると、タビオには「応えきれないほど」の発注が届きました。

越智さんの判断基準は常に「善悪」ではなく「正邪」でした。「善悪で考えると、自分に都合のいいことは善になる。正邪で考えたら、判断基準に社会性が入ってくる」。価格競争は自分にとっても業界にとっても「邪」——その信念が、タビオを生き残らせました。


地道な本業への集中でブランドを築いた経営者は、ほかにもいます。


「ファッション音痴だから成功した」——婦人物靴下でトップブランドへ

越智さんが婦人物靴下への転身を決めたのは、かつての共同企画仲間に告げた一言からでした。「あんたらとライバルになるのは嫌や。だからうちは婦人物に転身しますわ」。

当時、婦人物靴下市場はまだ小さく、大手メーカーの参入も少なかった。品質よりデザインを重視する中小メーカーが中心でした。自社の靴下の品質に絶対の自信があった越智さんは、この市場に懸けました。

「越智さんに婦人物ができるんかい」——業界中から笑われました。越智さん自身、ファッションには全く自信がなかったと認めています。

しかし、その「ファッション音痴」こそが成功の鍵となりました。

知らないことが多すぎたから、小売店の販売員の女性たちに何でも教えてもらいました。「こんな商品を作りました」と持っていくと、「ここはこうしたほうがいい」と言ってくれる。「分かりました」と即日工場へ走り、翌日サンプルを持参すると、みんな仰天しました。赤を黒と言われても即座に変えるほど柔軟に対応し続けたところ、アドバイスしてくれた人がそのまま味方になっていきました。

「向こうがいいというものはきっと売れるんだろう」——持論がなかったからこそ、お客様の声をそのまま商品に反映できたのです。気がつけば、タビオは婦人物靴下のトップブランドになっていました。


靴下屋1号店——震えた開店初日

1982年、越智さんは三愛の三宮店にわずか1坪の直営店を出しました。通路を挟んだ向かいには、東京の有名ライバル店が6坪の立派な店を構えていました。

「到底競争にならない」と思われましたが、結果は意外なものでした。

越智さんはライバル店が「売ることに懸命」なうちに、「売れる色をどれだけ早く補充できるか」に集中しました。売れ筋カラーが判明するたびに工場へ日参し、追加生産にこぎつけました。1年とかからずにライバル店は撤退し、タビオは出店の引き合いが増えていきました。

この経験から確信した「売れるものを売れるだけ作る」という原則が、独自の生産・販売管理システムの原点となりました。パン屋の注文方式にヒントを得た在庫管理、書籍売り上げカードにヒントを得た商品管理タグ——越智さんは常に「何を見聞きしても、自分の商売に結び付ける」ことで、業界に前例のないシステムを作り上げました。

1984年、福岡県久留米市に「靴下屋」1号店がオープンしました。開店の夜、社員から電話が入りました。「社長、売れました」——泣いている声でした。わずか4.7坪の店に黒山の人だかりができ、女子中高生がわんさと押し寄せました。

「靴下屋」という屋号には、越智さんは実は大反対だったといいます。「奈良では誰もが靴下屋と名乗っている。そんな大それた名前を付けたら、靴下業界全体を背負わなければならない」。しかし社内のデザイナーが「社長、靴下屋なんてかわいい」と言った一言で覚悟を決めました。「この屋号に恥じないようにせないかん」——その責任感が、2000年の大阪証券取引所への上場まで越智さんを走らせ続けました。


越智直正さんのこだわり

本書『靴下バカ一代』を読んでいると、越智さんの経営を支えた習慣がいくつも浮かびあがります。

素足・サンダルで生活する——越智さんは16歳頃から、ほぼ常に素足にサンダルで生活しています。会社でも同じです。靴下の素材感・締めつけ感・肌合いを正確に確かめるには、日頃から靴下を履かないことが一番だという理由です。「靴下を履くと、足の感覚が鈍ってしまう」。この素足の感覚こそが、タビオの靴下の品質判断の生命線と語っています。

1日に300足を試着する——越智さんは今でも、ほぼすべての商品を開発段階で1足ずつ履き心地を試します。多い日には1日に300足ほど履くこともあります。「見たり触ったり履いたりして『この靴下は違う』と分かる感覚を維持するのはそれくらい大変で、教えられて覚えるものじゃない」と語っています。

靴下を噛んで品質を確かめる——丁稚時代、商品を出してもらって靴下を頬に当てたり噛んだりして感触を確かめていました。「いい靴下は噛んだ後に歯型が残らず、自然と原状に戻る」。噛み方にはコツがあり、数分間一定の力で噛み続けるため、当時は洗面器に顔をつけて息を止める練習もしたといいます。


越智直正さんゆかりの地

愛媛県西条市(旧・周布村):越智さんが生まれ育った瀬戸内海を望む小さな漁村。父親の急逝により13歳で一家を支え、中学卒業と同時に大阪へ旅立った出発点です。「海より大きな鯨はおらん」という兄の言葉が届いたのも、愛媛の自宅でした。

📍愛媛県西条市(旧周布村) 🔗 https://www.city.saijo.ehime.jp/

大阪府・穴虫峠(現・香芝市付近):奉公先から突然クビを言い渡された越智さんが、夜が明けるまで車を止めて過ごした場所です。「幽霊が出る」と言われる真っ暗な峠で「天、何をか言わんや」とつぶやいた夜は、越智さんの創業前夜でもありました。絶望の底から、『孫子』の「五事」に照らして活路を見出した地です。

福岡県久留米市(靴下屋1号店):1984年8月1日、タビオ初の靴下専門店「靴下屋」が誕生した地。開店と同時に黒山の人だかりができ、社員が電話口で泣くほどの売り上げを記録しました。越智さんが「震えた」と語るこの地こそ、靴下屋チェーンが全国へと広がっていく出発点となりました。

奈良県広陵町(タビオ奈良・物流センター・綿花栽培地):タビオの物流拠点があり、全国の靴下屋に毎日配送が行われる地。また2009年から、原料となる綿花の研究開発のため、総面積約2万1000坪の畑で綿花栽培にも取り組んでいます。「原料からオール国産の靴下を作る夢」の実験地でもあります。


越智直正さんから学ぶ、3つの教訓

1. 「戦わない経営」こそ最大の戦略——勝てない戦いには参戦しない

3足1000円の価格競争が業界全体を巻き込んだとき、タビオだけが乗りませんでした。「勝てない戦いはするな」という孫子の教えに従い、価格ではなく品質で差別化する道を選んだ結果、競合が消耗戦で倒れた後に大量の発注が届きました。越智さんは「誰が何と言おうと戦わない経営をする。同じ戦うならば、自分の理想と戦いたい」と語っています。強みを活かせる土俵で戦う——この選択こそが、40年以上にわたる生存の根拠です。

2. 「一生一事一貫」——能力がなかったからこそ突き抜けた

「ほかに能があったら、靴下なんかやってない」——越智さんは自分の成功の理由をそう語ります。歌が上手ければ歌手に、顔がよければ俳優になっていたと笑います。選択肢がなかったから、靴下一筋で65年を走り続けた。「仕事があなたを選ぶ」という逆転の発想は、「才能がないから多角化が必要だ」と焦る経営者に対する静かな反論です。一つのことに長年向き合い続けた先にだけ見える景色があることを、越智さんは体をもって証明しています。

3. 「何を見聞きしても商売に結びつける」——アイデアはいつも身近にある

パン屋の注文電話から在庫管理システムを思いつき、書店の売り上げカードから靴下の在庫管理タグを発想しました。どちらも靴下とは無関係な場所で生まれたアイデアです。越智さんは「何を見聞きしても自分の商売に結び付く。これがプロ初級の登竜門だ」と語っています。特別な知識も先行投資も要らない。「常に靴下のことを考えている」という状態があって初めて、日常のどんな場面にも突破口が見えてくるのです。


この記事で語りきれなかった『靴下バカ一代』の魅力

本書『靴下バカ一代』には、ここで紹介しきれなかったエピソードがまだ多くあります。

一つ目は、コンピューターのソフトをソフトクリームだと思っていた話です。店頭の売れ筋を工場に伝えるシステムを構築しようとして初めてコンピューターを買いに行き、「ソフトウェアが必要です」と言われると「ソフトクリームのことか」と真剣に返した逸話は、本書の中でも白眉の笑える場面のひとつです。しかしその無知ゆえの素直さが、業界に前例のないシステムを生み出しました。

二つ目は、片足にハンデを持つ社員・中田勝治さんへの指導です。採用を決め、毎日叱り飛ばし続けた理由は「優しくしたら足が治るのか」という越智さんの確信でした。「天は短所一つに対して長所を二つ与える」——その言葉を宿題にした結果、中田さんはコンピューター部門で才能を発揮し、後に子会社の取締役となりました。

三つ目は、息子・勝寛さんとの事業承継です。「代々が初代、わしのまねはすな」という越智さんの哲学のもと、2008年に社長職を譲った後も、綿花栽培や品質管理の現場に立ち続けています。巻末の特別インタビューには、息子から父への「最初で最後のラブレター」とも呼べる言葉が収められており、親子で一つの夢を引き継ぐ姿が描かれています。

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まとめ|越智直正さんが教えてくれること

中学卒業と同時に1人で大阪に出て、丁稚奉公で殴られながら靴下を覚え、理不尽にクビを切られて3人で独立し、7000万円の借金を背負い、3足1000円の嵐が吹き荒れた時代も価格競争には乗らず、ひたすら「いい靴下」だけを作り続けた人生でした。

「靴下に話しかけられる」「靴下を触ると心が落ち着く」「3日靴下に触らないと不安になる」——周りからは「奇天烈」と呼ばれるほどの没頭ぶりでしたが、越智さんはそれを誇りとしています。

「人格にふさわしい商品しか作れない」——丁稚時代の大将にそう教わった言葉は、越智さんにとって靴下を作ることと人間を磨くことが同じ意味を持つという宣言でした。特別な才能がなくても、選んだ1つのことに全力を尽くせば、必ず道は開けると本書は語りかけてきます。

本書『靴下バカ一代』は、豪快な笑いと涙が詰まった越智さんの65年分の人生訓です。靴下に関係なく、「これ一つに懸けてみたい」という気持ちを持つすべての人に響く一冊です。ぜひ手に取ってみてください。


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参考文献:越智直正『靴下バカ一代——奇天烈経営者の人生訓』(日経BP社、2016年)